大田南畝 江戸時代の長寿の老人の老後の過ごし方(その1)

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大田南畝

前に「江戸時代も実は『高齢化社会』だった!?江戸のご隠居の生き方に学ぶ」という記事を書きましたが、今回から19回にわたって江戸時代の長寿の老人(長寿者)の老後の過ごし方・生き方を具体的に辿ってみたいと思います。

第1回は「大田南畝」です。

1.大田南畝とは

大田南畝(おおた なんぽ)(1749年~1823年)は、幕府の御徒・大田吉左衛門の長男で、天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人です。

名は覃(ふかし)、字は子耕、南畝は号です。通称、直次郎、のちに七左衛門と改めました。別号、蜀山人(しょくさんじん)、玉川漁翁、石楠齋、杏花園、遠櫻主人、巴人亭、風鈴山人、四方山人など。山手馬鹿人(やまてのばかひと)も別名とする説があります。狂名、四方赤良(よものあから)。また狂詩では寝惚(ねぼけ/ねとぼけ)先生と称しました。法名は杏花園心逸日休。

彼は勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚であった一方で、文筆方面でも高い名声を持ちました。

膨大な量の随筆を残す傍ら、狂歌・洒落本・漢詩文・狂詩などをよくしました。特に狂歌で知られ、唐衣橘洲(からころもきっしゅう)・朱楽菅江(あけらかんこう)と共に狂歌三大家と言われます。南畝を中心にした狂歌師グループは、「山手連(四方側)」と称されました。

小身の幕臣の倅である彼は、若い頃から学問で身を立てることを考え、15歳の時に内山賀邸に入門します。賀邸は通称伝蔵。牛込加賀町に住む幕臣でしたが、近隣の子弟に国学や和歌を教えていました。一方で賀邸は狂歌を好み、門人にも勧めます。彼は近所なので通ったのでしょうが、賀邸に相当な影響を受けたようです。

1765年、16歳で父の跡を継いで幕臣となりました。またその頃、篠山藩の儒学者・松崎観海に入門、徂徠派の漢学を学んだと言われます。一方で賀邸門下の平秩東作ら、後に戯作や狂歌で名をなす人々と親しく交わりました。

1766年、17歳の時に作詩用語集『明詩擢材』を編集、翌年、戯作第一集の『寝惚先生文集』を平賀源内の序を付して著わすと、これが評判を呼びます。当時、源内は38歳。よく18歳の彼の作品に序を寄せたものですが、源内の眼鏡に狂いはなく、この作品が江戸の狂歌ブームの火付け役となりました。

それから20代から30代にかけて、彼は狂歌や洒落本など、戯作の世界で存在感を増していきます。当時はちょうど老中・田沼意次が幕政を主導していた田沼時代でした。田沼は蘭学を支援し、平賀源内とも交流があったことが知られています。学問や文化が花開いた時代に、彼も活躍しました。

ところで彼の家は、泳法を代々伝えていたようです。水泳は今でこそ一般的ですが、江戸時代は泳法を限られた家が継承し、それを教えたりしていました。 1773年、24歳の時、10代将軍家治上覧の水泳の催しに彼も泳者の一人として参加し、褒美に時服を賜ったそうです。文学だけでなく、運動にも長けていたのでしょう。

1783年、34歳の時、『万載狂歌集』(『千載和歌集』のパロディです)を発表、翌年には小説で『頭てん天口有(あたまてん てんにくちあり)』を発表します。後者は高級料理店「桝屋」に江戸の料理店が料理で勝負を挑むストーリーで、実在の店名や料理が登場し、本邦初のグルメ小説とされるようです。

1786年には吉原・松葉屋の遊女を身請けして妾としました。粋な文化人の彼ですが、しかし、この年を境に南畝は狂歌から距離を置くことになります。理由は翌年から始まる老中松平定信の寛政の改革でした。

田沼意次が失脚して松平定信が政権を握ると、緊縮財政、風紀取締りなど、世の引き締めを図ったことはよく知られています。この時、政治を批判する狂歌として「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜もねられず」が庶民に受け、その作者は彼であると疑われました。彼はこれを否定します。事実であれば、幕臣として取り返しのつかないことになるところでした。

そして職務に精励する意味も込めて1794年、45歳にして、昌平坂学問所で学問吟味(人材登用試験)を受験し、合格したのです。

彼については「大田南畝は狂歌や戯作で幕府を批判し世相を風刺したが、実は幕府の官僚だった!」という記事にも詳しく書いていますので、ご一読ください。

2.大田南畝の老後の過ごし方

中年期から晩年は、彼は幕府官僚に専念しました。

1794年、45歳の彼は幕府の人材登用試験学問吟味登科済が創設されたのを機に受験しました。2日間にわたるハードな試験(1日目は論語・小学、2日目は詩経と林大学の面接)でしたが御目見え以下の身分の首席で「甲科及第首席合格」しました。

ちなみに御目見え以上の身分(旗本)の首席は、遠山金四郎景晋(後に勘定奉行。町奉行「遠山の金さん」の父)でした。

世間では、狂歌の有名人だった彼は出世できないと揶揄していましたが2年後の1796年には「支配勘定」に就任し、能吏ぶりを発揮しています。

1801年には大坂銅座に赴任し、狂歌を細々と再開しています。物理学者木村蒹葭堂や国学者上田秋成とも交流しています。

1812年、息子の定吉が支配勘定見習いとして召し出されましたが、精神病を患って失職します。そのため隠居を断念して働き続けました。

1823年、登城の道で転倒したのがもとで亡くなりました。享年74でした。

辞世は「今までは 人のことだと思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」です。「生き過ぎて七十五年食ひつぶし 限りしられぬ天地の恩」ともいわれます。

彼は「ワークライフバランスの達人」で、仕事も趣味も大変充実させた幕臣だったと言えます。

3.大田南畝の晩年の著作

(1)『蘆(あし)の若葉』(1801年)

大坂銅座御用として大坂赴任中の日記。『摂津名所図会』を参考に市中を歩きまわり、当時の大阪の風物を描写しています。

(2)『瓊浦又綴(けいほゆうてつ)』(1804年)

随筆で、コーヒーを飲んだ体験が書かれており、日本でもっとも初期の頃のコーヒー飲用記です

(3)『夢の憂橋(ゆめのうきはし)』(1807年)

1807年の永代橋崩落事故に関する様々な記事や風聞を集めたものです。

(4)『放歌集』(1812年)

(5)『千紅万紫』 (1817年)

(6)『万紫千紅』 (1818年)

(7)『蜀山百首』 (1818年)

(8)『杏園詩集』(1820年)

(9)『一話一言』(1820年) 全56巻の随筆

(10)『仮名世説』 (1825年)

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