今川氏真は「桶狭間の戦い」で父の義元が亡くなった後どのように生きたのか?

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今川氏真・尾上松也大河ドラマ

戦国時代、駿河・遠江の守護大名で駿河・遠江・三河を支配した名門今川氏も、1560年に今川義元が2万5千とも言われる大軍を率いて上洛をめざした途中、「桶狭間の戦い」で織田信長に討ち取られました。

これで「今川氏は滅亡して歴史の表舞台から姿を消した」と思っている方が多いと思います。しかし「桶狭間の戦い」で父の義元が亡くなった後も、嫡男の今川氏真は生きながらえ、祖母の寿桂尼の助けを得て駿河を支配していました。

2017年NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」では今川氏真を尾上松也さんが演じ、祖母の寿桂尼を浅丘ルリ子さんが演じていて、印象に残った方も多いと思います。

今川氏真・尾上松也

私は最近、今川氏真や寿桂尼のような歴史のメインストーリーに出て来ない人物の生涯に特に興味を持つようになりました。

そこで今回は今川氏真についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.今川氏真(いまがわうじざね)とは

今川氏真像

今川氏真(1538年~1615年)は、今川義元(1519年~1560年)の嫡男で、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名で、文化人でもあります。幼名は龍王丸、通称は五郎です。

父の頃最盛期だった今川家を一代で滅ぼしてしまったため、「暗愚」の代名詞のような扱いを受けています。

戦国三傑と呼ばれる織田信長・豊臣秀吉・徳川家康にたいして「戦国三大愚人(三大暗愚)」の一人に数えられています。ちなみに戦国三大愚人とは、細川政元・大内義隆・今川氏真です。

父の今川義元が「桶狭間の戦い」で織田信長に討たれ、その後今川家の当主を継ぎましたが、武田信玄と徳川家康による駿河侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡しました。

しかしその後は、同盟者でもあり妻の早川殿の実家でもある後北条氏を頼り、最終的には「桶狭間の戦い」で今川家に離反した徳川家康と和議を結んで臣従し、庇護を受けることになりました。

こうして氏真以後の今川家の子孫は品川に住んで徳川家と関係を持ち続け、徳川幕府の「高家(こうけ)」となって品川氏を称し、代々の将軍に仕えて存続しました。

「高家」と言えば、あの吉良上野介と同じで「江戸幕府における儀式や典礼を司る役職の家柄」です。

2.「桶狭間の戦い」前の今川氏真

(1)生い立ち

彼は「海道一の弓取り」と呼ばれた今川義元と武田信虎の娘・定恵院との間の嫡男です。

当時の駿府が京に次ぐ文化的に優れた国(東の京、小京都)であったことに加え、皇室の流れを汲む「公家」の中御門(なかみかど)家出身の祖母・寿桂尼(じゅけいに)(?~1568年))の影響からか、「蹴鞠」が得意で、幼少期には「蹴鞠で自分に勝てたら褒美を与える」と触れていたそうです。

ちなみに「蹴鞠」は一見優雅で軟弱な公家の遊びのようですが、サッカーボールのリフティングと同様、正確なボールコントロール技術や反射神経・瞬発力などの運動能力が必要なスポーツです。

また歌舞音曲にも秀でていたようで、生涯に約1700首の和歌を残したと言われています。

このように幼少時から文化的教養を身につけ、数多くの公家との交流の中で公家式の礼儀作法にも造詣が深くなりましたが、それが後に江戸幕府に仕えることになった際に朝廷との連携に不可欠な「公家式の礼儀作法の指導」をする「高家」となる素地となりました。

今川家は清和源氏、室町将軍足利家の血統で、将軍家の継承順位も高い家柄でした。義元の父・今川氏親(1471年~1526年)の姉は公家の正親町三条西実望(おおぎまちさんじょうにしさねもち)(1463年~1530年)に嫁いでいます。

正親町三条西実望は没するまでの21年間、駿府に住み、氏親に和歌の添削をして謝礼をもらっています。彼以外にも今川氏の庇護を受けて数カ月、数年と駿府に滞在する公家は多かったそうです。蹴鞠・茶の湯の会・連歌の会も盛んに行われたようです。

1554年には北条氏康(1515年~1571年)の娘・早川殿と結婚し、「甲相駿(こうそうすん)三国同盟」が成立しました。ちなみに「甲相駿三国同盟」とは、武田信玄・北条氏康・今川義元の三者が合意した甲府・相模・駿河三国の和平協定です。

(2)家督相続

家督は、「桶狭間の戦い」直前の1559年に義元から譲られましたが、政務にはあまり熱心ではありませんでした。

政治的・軍事的に無能であった彼に代わって実質的に国政を司ったのは、「おんな大名」との異名を持つ祖母の寿桂尼でした。

ただし彼は政治や軍事に全く不向きで関心がなかっただけで、無能無才愚鈍というわけではありませんでした。

彼は連歌や和歌が得意で、蹴鞠にも長じ、茶の湯にも詳しい「文化人」でした。

3.「桶狭間の戦い」後の今川氏真

(1)相次ぐ離反

「桶狭間の戦い」では、今川家の重臣や「国衆」が多く討ち死にしました。

そのため桶狭間で父・義元が討たれてからは、従属していた家臣や「国衆」の離反が相次ぎました。これは家臣や国衆たちが、彼の政治的・軍事的手腕に不安を抱いたためと思われます。

義元が「戦上手」と称賛し、彼自身も高く評価していた徳川家康(当時は松平元康)までも離反したことを知ると激怒し憎悪するようになりました。

徳川家康の離反で今川氏の威勢の衰えを止められないことに自棄気味になりながらも、祖母・寿桂尼の助けも得て、不穏勢力を粛清することで権勢を維持しようとしました。

寿桂尼は井伊にも忠誠を試す罠を仕掛け、1563年に徳川家康に内通の意向を見せた井伊直親(1536年~1563年)を誅殺しました。ちなみに井伊直親の父・直満も、小野政直の讒言によって今川義元に誅殺されています。

一方、井伊直親離反の発覚を契機に今川氏に恭順の姿勢を見せて来た小野政次(小野政直の息子)(?~1569年)の智謀を容れるようになりました。小野政次は今川氏真に命じられて井伊直親の遺児・虎松(後の井伊直政)の殺害も図りましたが果たせませんでした。しかし、井伊家から井伊谷を奪うことには成功しました。

1569年に徳川家康は小野政次の専横に怒り、井伊谷三人衆を派遣して攻撃し、井伊谷を奪還させました。小野政次は敗れて息子2人とともに処刑されました。

(2)戦国大名今川氏の滅亡

寿桂尼が亡くなると、満を持して武田信玄が駿河国へ、徳川家康が遠江国へ同時に侵攻しました。そして裏切りや離反が相次いで駿河・遠江・三河を奪われました。

そして掛川城に逃れて徳川軍を凌いでいる最中の1569年5月、家康が申し入れていた和睦を受け入れ、家臣の助命と引き換えに掛川城を開城し、ここに戦国大名今川氏は滅亡しました。

なお、今川氏の滅亡に関しては、彼に政治的・軍事的才能がなかったことに加え、良き軍師がいなかったことも一因だという考え方もあるようです。

駿河国には、後に「武田信玄の名軍師」と言われた片目片足の山本勘助という優れた人物が9年間もいましたが、評判が悪いとのことで採用せず、三浦義鎮のような「愚者」「佞臣」を重用し、政務を任せたことが原因だという考え方です。

(3)流転

彼は正室の早川殿(北条氏康の娘)とともに彼女の実家である北条家に落ちのびました。

しかし、1571年に義父の北条氏康が没した後、息子の北条氏政(1538年~1590年)が武田氏と再び同盟したため、夫婦ともどもかつて自分が人質に取っていた家康に保護を求め、その庇護下に入りました。

1575年には上洛して、旧知の公家である三条西実澄を訪問したり、公家たちと連歌の会を催したりしています。また父の仇である織田信長に相国寺で会見し、蹴鞠の実演を所望されると公家たちと蹴鞠を披露しています。

また同年には剃髪して出家し宗誾(そうぎん)と号していますが、最後は徳川家康に仕えています。

(4)後半生

彼は今川氏が戦国大名として滅びた後も、いよいよ茶の湯・連歌・蹴鞠に熱中し、1577年からは浜松城下に居住し、1590年以降は京都に移り住んでいます。最後は徳川家康の庇護を受けて江戸・品川の屋敷に住み、77歳の長寿を全うしました。

彼の辞世は次のようなものです。

悔しとも うら山し共 思はねど 我世にかはる 世の姿かな

意味は「京の公家暮しが戦国大名時代の『我が世』に代わってしまったが、それを悔しいとも羨ましいとも思わなくなった」です。

もう一つ、あります。これも同様の心境を吐露したものです。

なかなかに 世をも人をも 恨むまじ 時にあはぬを 身の科(とが)にして

意味は「世の中も人も恨むまい。この時代(戦国の世)に合っていなかったということが、この身の罪なのだから」です。

どちらも「悟り切った諦めの心境」のようですが、「悔しさを押し殺して平気を装う強がり」のようにも見えます。

「一身にして二生を経るが如く」とか「一身二生」という言葉がありますが、彼の場合も前半生は「戦国大名」として生き、後半生は過去の恩讐は捨て去って「公家のような文化人」に徹して生きたといえそうです。

彼は室町幕府8代将軍・足利義政(1436年~1490年、在職:1449年~1473年)と似たタイプの人物だったようです。

しかし77歳と当時としては長命で、嫡流の血筋を残すことにも成功していますので、「プライドを捨てて、時勢に合わせて上手に世渡りする」なかなかしたたかな人物だったとも言えます。

なお今川家は、明治維新後は家禄を失って没落し、23代目範叙の代に嫡男淑人が早世し、ほかには娘しかいなかったため直系は断絶し、今日その血筋は伝わっていないそうです。



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