辞世の句(その11)戦国時代 お市の方・柴田勝家・石田三成・石川五右衛門

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お市の方・柴田勝家

団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。

そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽ったりもします。

昔から多くの人々が、死期が迫った時や切腹するに際して「辞世(じせい)」(辞世の句)という形で和歌や俳句などを残しました。

「辞世」とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈(げ)、和歌・狂歌、発句・俳句またはそれに類する短型詩の類のことを指すようになりました。「絶命の詞(し)」、「辞世の頌(しょう)」とも呼ばれます。

「辞世」は、自分の人生を振り返り、この世に最後に残す言葉として、様々な教訓を私たちに与えてくれるといって良いでしょう。

そこで今回はシリーズで時代順に「辞世」を取り上げ、死に直面した人の心の風景を探って行きたいと思います。

第11回は、引き続き戦国時代の「辞世」です。

1.お市の方(おいちのかた)

お市の方

さらぬだに 打ぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公(ほととぎす)かな

これは「そうでなくても眠る間もないほど短い夏の夜に、この世との別れを急かすのか、ホトトギスよ」という意味です。

「さらぬだに(そうでなくても)」とは、敵軍に包囲され、いますぐに自害してこの世と別れを告げなければならないこんな状況でなくても、といった意味合いです。

ホトトギスは、別名「田長鳥(たおさどり)」または「死出の田長(しでのたおさ)」と呼ばれます。

人が死後に行く冥土(めいど)にあるという険しい山「死出の山(しでのやま)」と結び付けられ、ホトトギスは冥土(冥途/めいど/あの世)から迎えに来る使いの鳥として、「死」と関連する文脈で用いられることがあります。

この歌は、次の藤原俊成の和歌の「本歌取り」です。

さらぬだに ふす程も無き 夏の夜を 待たれても鳴く 時鳥(ほととぎす)哉

これは「寝る間もないほど短い夏の夜に、朝を告げるホトトギスが鳴くのをつい待ってしまう」という意味です。

ここでのホトトギスは「冥土の使い」ではなく、朝を告げる「時鳥」としての意味合いで用いられています。

お市の方(1547年~1583年)は織田信秀の娘で、織田信長の妹です。

信長の命で、1567年(永禄10年)近江(滋賀県)小谷(おだに)城主・浅井長政に嫁ぎ、3女(淀殿、京極高次の妻・常高院、徳川秀忠の妻・崇源(すうげん)院)と2男を生みました。

浅井氏が織田信長に滅ぼされた後再婚した柴田勝家とともに、羽柴(豊臣)秀吉に攻められ1583年(天正11年)4月24日、越前(福井県)北庄(きたのしょう)城で自害しました。名は市で、通称は「小谷の方」「小谷殿」とも呼ばれます。

江戸時代の書物の『祖父物語』や『賤獄合戦記』によれば「天下一の美人」(天下第一番の御生付)と誉れが高かったということです。

2.柴田勝家(しばたかついえ)

柴田勝家

お市の方が詠んだ辞世に対して、共に自害した柴田勝家は次のような返歌を詠んでいます。

夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす

これは「夏の夜の夢のように儚い人生だった。我が名を後の世に語り伝えてくれ、山ホトトギスよ」という意味です。

この歌は、次の足利義輝の辞世の「本歌取り」です。

五月雨は 露か涙か 不如帰(ほととぎす) 我が名をあげよ 雲の上まで

これは「降りしきる五月雨であるが、はかなく消える露なのだろうか?それとも、私の悔し涙なのだろうか?そのどちらにも思える。自分が死んだ後、高く鋭く鳴く不如帰よ、どうか雨雲    を突き抜け、より高みへと飛翔して広い晴天で私の名を広げておくれ」という意味です。

ちなみに、足利義輝(あしかがよしてる)(1536年~1565年〉は、室町幕府第13代将軍ですが、三好長慶の没後に実権を奪った松永久秀らによって急襲され落命しました。

3.石田三成(いしだみつなり)

石田三成

筑摩江(つくまえ)や 芦間(あしま)に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり

これは「ああ、故郷の芦の間に燃えているかがり火がやがて消えていくように、自分(および豊臣政権)の命ももうすぐ消えてしまうのだな」という意味です。

ちなみに「筑摩江」は、石田三成の出身地である近江国にある琵琶湖の入り江の一つです。

石田三成(1560年~1600年)は、豊臣家家臣で佐和山城主です。豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となりました

豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織しましたが「関ヶ原の戦い」に敗れ、京の六条河原で1600年11月6日(慶長5年10月1日)に処刑されました。

4.石川五右衛門(いしかわごえもん)

石川五右衛門

石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ

これは「川浜の砂がたとえ尽きることがあろうとも、この世の中に盗人がいなくなることはない、なぜなら盗人の種が尽きることがないからだ」という意味です。

石川五右衛門(1558年?~1594年)は、安土桃山時代の盗賊の首領です。

都・伏見・大坂などを中心に荒らし回りましたが、時の為政者である豊臣秀吉の手勢によって1594年(文禄3年)に捕えられ、京都三条河原で生きたまま大きな釜で茹で殺されました。見せしめとして、彼の親族も大人から生後間もない幼児に至るまで全員が極刑に処されています。

従来、その実在が疑問視されてきましたが、イエズス会の宣教師の日記の中に、その人物の実在を思わせる記述が見つかっています。

江戸時代に創作材料として盛んに利用されたことで、高い知名度を得ました。

石川五右衛門・楼門五三桐

歌舞伎の「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」で、百日鬘(ひゃくにちかつら)に褞袍(どてら)と大煙管(おおきせる)の石川五右衛門が四方を眺めて吐く次の名セリフが有名ですね。

絶景かな絶景かな。春の詠(なが)めは値千金とは小さなたとえ、この五右衛門が目からは万両。もはや日も西に傾き、誠に春の夕暮の桜は、取り分け一入(ひとしお)一入。ハテ、麗らかな眺めじゃなア。

余談ですが、昔よく用いられた「五右衛門風呂」(下の画像)は、釜ゆでの刑に処されたと言われる石川五右衛門の名が由来で、かまどの上に鉄釜を据え、下から火をたいて直接に沸かす風呂のことです。

全体を鋳鉄で作ったものと、湯桶の下に鉄釜を取りつけたものとがあり、入浴のときは、浮いている底板を踏み沈めて入ります。

五右衛門風呂

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