源義仲はなぜ勝者になれず、後白河法皇と対立した末に源頼朝に討たれたのか?

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木曽義仲

今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、青木崇高さんが源義仲を演じており、重要な役どころである予感がします。

彼はどのような人物だったのでしょうか?もともと彼は源氏一族であり、源頼朝の前に「征夷大将軍」に任じられましたが、なぜ源頼朝とともに鎌倉幕府の創設に参画することすら出来ず、頼朝に討たれることになったのでしょうか?

源氏の相関図1源氏の相関図2

ところで歴史上の人物で、有名な肖像画がある場合はイメージしやすいのですが、源義仲のように馴染み深い肖像画が少ない場合は想像しにくいので、冒頭に青木崇高さんの画像を入れました。

1.源義仲(木曾義仲)とは

源義仲像

源義仲 (みなもと の よしなか)(1154年~1184年)は、平安時代末期の信濃源氏の武将で、河内源氏の一族・源義賢(みなもと の よしかた)(?~1155年)の次男です。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟に当たります。

木曽義仲騎馬像

木曾義仲(きそ よしなか)の名でも知られています。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれています。

倶利伽羅峠の戦い

「以仁王の令旨(もちひとおうのりょうじ)」(1180年)によって挙兵し、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」で「火牛の計(かぎゅうのけい)」(*)という奇計を用いて平氏の大軍を破って入京しました。

(*)「火牛の計」とは、火をつけた牛を敵陣に突入させて、混乱させる戦術のことです。

[由来] 「史記―でんたん伝」が伝える話から。紀元前3世紀、戦国時代の中国でのこと。せいという国の将軍・田単は、1,000頭余りの牛の角に刀の刃を上に向けて結び、牛の尾に油にひたした葦をくくりつけ、それに火をつけて敵陣へと走り込ませて敵軍を大混乱に陥れ、戦いに勝利したそうです。日本でも、木曾義仲が同じような戦法を使って、平家の軍を打ち破っています。

連年の飢饉と荒廃した都治安回復を期待されましたが、治安の回復の遅れ大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化皇位継承への介入などにより、後白河法皇と不和となります。

1184年の「法住寺合戦」に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となりましたが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、「粟津(あわづ)の戦い」で討たれました。

2.源義仲(木曾義仲)の生涯と人物像

(1)生い立ち

源義仲(木曾義仲)は、源義賢の次男として1154年に生まれました。母である小枝御前(さえごぜん)は、遊女だったと言われています。

父の兄・源義朝(源頼朝の父)が京から下って関東の豪族を従えて勢力をつけると、父・源義賢は1153年、北関東に入って上野国の多胡館に入りました。

そして、武蔵の最大勢力である大蔵館主・秩父重隆と秩父重弘の親子と結び、大蔵館を本拠として秩父重隆の娘を妻にしています。

しかし、秩父重隆の兄・畠山重能は、弟が本家の家督を継いだことに不満を抱き、鎌倉に入っていた源義朝・源義平の親子と結び、1155年8月大蔵館を襲撃します。

この「大蔵合戦」で、秩父重隆と源義賢は討死しました。

報復を恐れた源義平は、義仲を殺せと命じましたが、まだ2歳だった駒王丸(木曾義仲)は畠山重能・斎藤実盛らの計らいで逃がされ、斎藤実盛が駒王丸の乳母夫である信濃の中原兼遠のもとへ連れて行きました。

この駒王丸は木曽谷で成長すると通称を木曾次郎と名乗り、治承・寿永の乱において平家や源頼朝と戦うことになります。

(2)挙兵

1179年、平清盛が後白河法皇を幽閉し、孫にあたる安徳天皇を即位させて政治の実権を握ると、平氏一門への不満が全国に渦巻くようになりました。

1180年、平氏に不当な扱いを受けてきた後白河天皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)が、平家打倒を命じる令旨(りようじ)を全国各地に発すると、義仲は挙兵します。

一緒に挙兵したのは、樋口兼光・今井兼平ら数人と、少数の信濃の武士だけでしたので、平家軍にとっては虫けらのような存在でした。

ところが、義仲軍は初戦に勝利すると、挙兵から1ヵ月後には父・義賢の領地だった上野国に進出するなど、まさかの快進撃をみせます。

一度上野国・多胡館に入ると、信濃・依田城(上田市丸子)に籠ります。

そして、1181年、越後から討伐にきた城助職を「横田河原の戦い」で破ると、義仲のもとには続々と武士が集まり、北陸の武士までもが加勢するようになり、北陸へと転進しました。

1183年2月、頼朝と敵対し敗れた志田義広と、頼朝から追い払われた源行家が義仲を頼って身を寄せ、この2人の叔父を庇護したことで頼朝と義仲の関係は悪化しました。

甲斐源氏の武田信光が娘を義仲の嫡男・義高に嫁がせようとして断られた腹いせに、義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしていると讒言しました。

しかし頼朝と義仲の武力衝突寸前に和議が成立し、3月に義高を人質として鎌倉に送ることで頼朝との対立は一応の決着がつきました。

倶利伽羅峠の戦い

1183年、義仲軍は北陸を手中に収めかけていましたが、越中と加賀の国境にある倶利伽羅峠(くりからとうげ)には、平維盛が率いる大軍が待ち構えていました。

倶利伽羅峠は谷が深く、山は高く険しいうえ、馬や人がすれ違うのが難しいほど道が細い難所でしたので、義仲は倶利伽羅峠の地形を巧みに利用します。

義仲は、まず自分が率いる軍勢で平家軍の注意を前方に引き付け、その間に残りの兵力を分散させて、周囲からいっきに夜襲を仕掛けることで、平家軍を地獄谷と呼ばれる断崖に追い込み、壊滅させました。

このようにして義仲は、平維盛ら10万の大軍を「倶利伽羅峠の戦い」で破り、「篠原の戦い」でも大勝すると、今井兼平、樋口兼光、根井行親、楯親忠らを従えた義仲軍には、それまで平家に従っていた豪族や寺社勢力も加勢するようになりました。

さらに、北陸宮(以仁王の第1皇子)が保護を求めてきたことで、上洛するための大義名分を得た義仲は、京を目指します。

破竹の勢いで京に迫る義仲軍を前に、都の防衛を断念した平氏一門は安徳天皇とその異母弟・守貞親王(皇太子に擬された)を擁して西国へ逃れました。なお平氏は後白河法皇も伴うつもりでしたが、危機を察した法皇は比叡山に登って身を隠し、平氏の都落ちをやり過ごしました。

(3)入京

そして、後白河法皇が京に戻った翌日に、義仲も入京を果たし「朝日将軍(旭将軍)」と呼ばれると、改めて平家討伐を命じられました。

(4)皇位継承問題への介入

後白河法皇は天皇・神器の返還を平氏に求めましたが、交渉は不調に終わりました。やむを得ず、都に残っている高倉上皇の二人の皇子、三之宮(惟明親王)か四之宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)のいずれかを擁立することに決めました。

ところがこの際に義仲は今度の大功は自らが推戴してきた北陸宮の力であり、また平氏の悪政がなければ以仁王が即位していたはずなので以仁王の系統こそが正統な皇統として、北陸宮を即位させるよう比叡山の俊堯を介して朝廷に申し立てました。

しかし天皇の皇子が二人もいるのに、それを無視して王の子にすぎない北陸宮を即位させるという皇統を無視した提案を朝廷側が受け入れるはずもありませんでした。摂政・九条兼実が「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」 と言うように、武士などの「皇族・貴族にあらざる人」が皇位継承問題に介入してくること自体が、皇族・貴族にとって不快でした。

朝廷では義仲を制するための御占いが数度行なわれた末、8月20日に四之宮が践祚しました。

兄であるはずの三之宮が退けられたのは、法皇の寵妃・丹後局の夢想が大きく作用したということです

いずれにしても北陸宮推挙の一件は、伝統や格式を重んじる法皇や公卿達から、宮中の政治・文化・歴史への知識や教養がない「粗野な人物」として疎まれる契機となるに十分でした。

山村に育った義仲は、半ば貴族化した平氏一門や幼少期を京で過ごした頼朝とは違い、そうした世界に触れる機会が存在しなかったのです。

(5)治安回復の遅れ

義仲が入京した当初は、京の人々は平家を都落ちさせた英雄として歓迎しました。そして、貴族たちも義仲に強い期待を寄せていました。

平家軍がいなくなったことで、京では略奪や放火が横行するなど治安が悪化してしまったので、狼藉を働く者を取り締まることを求めていたのです。

朝廷から京の警護を任された義仲は治安回復に乗り出しましたが、義仲軍が略奪を始めるという予想外の事態が起こってしまいました。

京の人々から失望されてしまった義仲は、朝廷から従五位下・左馬頭、越後守の官位を手に入れ、朝廷の権威を用いることで狼藉を働く武士を取り締まろうとしました。

しかし、京都の治安は回復されず、義仲軍に対する失望はさらに強くなってしまいました。

の警護の責任者である義仲が治安回復に失敗したため、後白河法皇は彼を呼び出して叱責しています。

配下に勇武の部将はたくさんいましたが、政治に優れた者がいなかったのです。

立場の悪化を自覚した義仲はすぐに平氏追討に向かうことを奏上し、法皇は自ら剣を与え出陣させました。義仲は、失った信用の回復や兵糧の確保のために、戦果を挙げなければならならず、腹心の樋口兼光を京に残して播磨国へ下向しました。

(6)後白河法皇への抗議

義仲の出陣と入れ替わるように、朝廷に頼朝の申状が届きます。内容は「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」というもので、「一々の申状、義仲等に斉しからず」 と朝廷を大いに喜ばせるものでした。

10月9日、法皇は頼朝を本位に復して赦免、14日には「寿永二年十月宣旨」を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与えました。

義仲は、西国で苦戦を続けていました。閏10月1日の「水島の戦い」では平氏軍に惨敗し、有力武将の矢田義清・海野幸広を失いました。戦線が膠着状態となる中で義仲の耳に飛び込んできたのは、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛するという情報でした。

驚いた義仲は平氏との戦いを切り上げて、15日に少数の軍勢で帰京しました。20日、義仲は「君を怨み奉る事二ヶ条」として、頼朝の上洛を促したこと、頼朝に宣旨を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」であると後白河院に激烈な抗議をしました

義仲は、頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給、志田義広の平氏追討使への起用を要求しました。

義仲の敵はすでに平氏ではなく頼朝に変わっていました。19日の源氏一族の会合では法皇を奉じて関東に出陣するという案を出し、26日には興福寺の衆徒に頼朝討伐の命が下されました。

しかし、前者は行家、土岐光長の猛反対で潰れ、後者も衆徒が承引しませんでした。義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態であり、義仲と行家の不和も公然のものでした。

(7)決裂

11月4日、源義経の軍が布和の関(不破の関)にまで達したことで、義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚悟を固めます。一方、頼朝軍入京間近の報に力を得た後白河法皇は、義仲を京から放逐するため、義仲軍と対抗できる戦力の増強を図るようになります。

義仲は義経の手勢が少数であれば入京を認めると妥協案を示しますが、法皇は延暦寺や園城寺の協力をとりつけて僧兵や石投の浮浪民などをかき集め、堀や柵をめぐらせ法住寺殿の武装化を図りました。さらに義仲陣営の摂津源氏・美濃源氏などを味方に引き入れて、数の上では義仲軍を凌ぎました。

院側の武力の中心である源行家は、重大な局面であったにもかかわらず平氏追討のため京を離れていましたが、圧倒的優位に立ったと判断した法皇は義仲に対して最後通牒を出します。

その内容は「ただちに平氏追討のため西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」という、義仲に弁解の余地を与えない厳しいものでした。

これに対して義仲は「君に背くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国に下向する」と返答しました。

九条兼実は「義仲の申状は穏便なものであり、院中の御用心は法に過ぎ、王者の行いではない」と義仲を擁護しています。

義仲の返答に法皇がどう対応したのかは定かではありませんが、18日に後鳥羽天皇、守覚法親王、円恵法親王、天台座主・明雲が御所に入っており、義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われます。

(8)法住寺殿襲撃

11月19日、追い詰められた義仲は法住寺殿を襲撃します。院側は土岐光長・光経父子が奮戦しましたが、義仲軍の決死の猛攻の前に大敗しました。

義仲の士卒は、御所から脱出しようとした後白河法皇を捕縛して歓喜の声を上げました(『玉葉』同日条)。義仲は法皇を五条東洞院の摂政邸に幽閉します。

この戦闘により明雲や円恵法親王が戦死しました。九条兼実は「未だ貴種高僧のかくの如き難に遭ふを聞かず」と慨嘆しています。

義仲は天台宗の最高の地位にある僧の明雲の首を「そんな者が何だ」と川に投げ捨てたということです。20日、義仲は五条河原に光長以下百余の首を晒(さら)しました。

21日、義仲は松殿基房(前関白)と連携して「世間の事松殿に申し合はせ、毎事沙汰を致すべし」 と命じ、22日、基房の子・師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立しました。

『平家物語』は義仲が基房の娘(藤原伊子とされる)を強引に自分の妻にしたとしていますが、実際には復権を目論む基房が義仲と手を結び、娘を嫁がせたと見られます。

11月28日、新摂政・松殿師家が下文を出し、前摂政・近衛基通の家領八十余所を義仲に与えることが決まり、中納言・藤原朝方以下43人が解官されました。

12月1日、義仲は院御厩別当となり、左馬頭を合わせて軍事の全権を掌握します

12月10日には源頼朝追討の院庁下文を発給させ、形式的には官軍の体裁を整えました。

(9)最期

『平家物語』には、義仲が幼い頃から苦楽を共にしてきた巴御前との別れ、今井兼平との語らい等、巴御前や兼平の義仲へのお互いの苦しい労(いたわ)りの気持ち、美しい主従の絆が書かれています。

1184年1月6日、鎌倉軍が墨俣を越えて美濃国へ入ったという噂を聞き、義仲は怖れ慄きました。15日には自らを征東大将軍に任命させました。

平氏との和睦工作や、後白河法皇を伴っての北国下向を模索しましたが、源範頼・義経率いる鎌倉軍が目前に迫り開戦を余儀なくされました。

義仲は京の防備を固めましたが、法皇幽閉にはじまる一連の行動によって既に人望を失っていた義仲に付き従う兵は無く、宇治川や瀬田での戦いに惨敗しました(宇治川の戦い)。

戦いに敗れた義仲は今井兼平ら数名の部下と共に落ち延びますが、21日、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で討ち死にしました(粟津の戦い)。

九条兼実は「義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤と比するに、猶その晩きを思ふ」 と評しました。享年31。

義仲が戦死したとき嫡男・義高は頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉にいましたが、逃亡を図って討たれました。

義仲の家系は絶えたとされていますが諸説あり、戦国大名の木曾氏は義仲の子孫を自称しています。

なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。



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