「本能寺の変」の黒幕・共謀者(扇動者)は誰か?秀吉・家康・朝廷・仏教勢力など怪しい人物は多い。

フォローする



本能寺の変

「日本史」(「国史」と呼ぶのが本来正しい)には、多くの謎があります。

その中でも、最大の謎の一つが「本能寺の変」(1582年)です。原因については、明智光秀(生年不詳~1582年)が織田信長(1534年~1582年)への恨みや天下人への野望から起こした反乱(謀反)というのが一般的な理解ですが、「織田信長の遺体が見つからなかったのはなぜか?」や、「明智光秀は殺されておらず、大僧正天海となって江戸時代まで生き延びた?」、「明智光秀のほかに共謀者や黒幕がいたのではないか?」といった謎が残っています。

2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」でも、徳川家康(1543年~1616年)と「新しい世を作る」という約束をした明智光秀が生き延びたような結末でした。

また、今年のNHK大河ドラマ「どうする家康では、7月9日放送の「ぶらり富士遊覧」で家康が「信長を殺すと宣言」しましたね。黒幕をどのように描くのか注目です。

家康に限らず信長に不満を持つ者や信長が邪魔だと感じる者が多くいたことが、「黒幕や共謀者(扇動者)」説が多数存在する理由でもあります。

そこで今回は、「本能寺の変」の「黒幕や共謀者(扇動者)」についてのさまざまな説をご紹介したいと思います。

1.「本能寺の変」の「黒幕や共謀者(扇動者)」についての諸説

(1)豊臣秀吉&黒田官兵衛

豊臣秀吉(1537年~1598年)は多くの戦いで戦功を挙げていたものの、元々家柄が低いという理由から、信長の家臣団の中では低い身分のままでした。

そんな秀吉は、光秀と共に中国地方の攻略を信長から任されていました。そこで、秀吉が光秀に信長暗殺をもちかけた可能性があります。

また、秀吉には有能な軍師で策士でもある黒田官兵衛(くろだかんべえ)(1546年~1604年)という家臣もいましたから、官兵衛の発案で秀吉と光秀が結託した可能性は十分にあり得ます。

ちなみに、「本能寺の変」の時、秀吉は備中国の高松城で毛利軍と対峙していましたが、すぐに毛利輝元と和睦を結び、ありえないスピードの「中国大返し(ちゅうごくおおがえし)」で京都に帰還し、その後「山崎の戦い」で光秀を死へ追いやりました。

事実、「本能寺の変」で一番得をしたのは秀吉です。信長が死んだことで、秀吉はその後天下人になることができたわけです。

「本能寺の変」には多くの黒幕説がありますが、この「豊臣秀吉 黒幕説」が一番人気があります。

ただ、疑問点もあります。そもそも秀吉と光秀はライバル関係にあったため、この2人が結託することはちょっと考えにくいことです。

しかし、秀吉は光秀に下手人として信長の殺害を実行させたうえで、すぐ「謀反人」として討伐する計画であったと考えれば、十分に説明がつきます。

多分、秀吉は光秀に「貴殿が本能寺で信長を暗殺すれば、それに呼応してすぐに京都へ戻るので、一緒に天下を治めよう」と甘言を弄したのかもしれません。つまり、光秀は秀吉に裏切られたのです。

一般に「殺人事件の犯人」を推理する場合、「恨みを持っていた者は誰か?」とともに、「誰が一番得をしたか?」を考えるのが一番ですね。そうすると、この説が最も説得力があると私も思います。

「中国大返し」も、あらかじめ「本能寺の変」を知っていて事前に周到に準備していたのではないかという疑いもあります。また、本能寺から隣の南蛮寺への抜け穴を秀吉が部下に命じてあらかじめ塞いでいたという説もあり、秀吉が信長の逃げ道を遮断した疑いがあります。

(2)徳川家康

家康は信長と同盟関係にあったものの、彼もまた天下を狙っていましたから、信長の存在が邪魔であったことは容易に想像できます。

また信長の事実上の命令(諸説あり)によって、正室の築山殿と嫡男の信康を死なせた(築山殿事件)ことで、信長に恨みを持っていました。

家康が1566年、23歳の時に「松平姓」から「徳川姓」に変更したのも「征夷大将軍」になるための布石である家系の捏造でした。

ただ、「本能寺の変」の後に家康は、茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)(1545年~1596年)の茶会に招かれて滞在していた堺から命からがら岡崎城に帰還しています。有名な「伊賀越え」です。

ここで「死ぬ思いをしながら伊賀越えをしたのだから、家康が黒幕ではないだろう」と感じるかもしれませんが、最終的に天下を取ったのは光秀でも秀吉でもなく家康ということを考えると、家康が黒幕ではないと断定するのは早計です。

家康は光秀を唆(そそのか)して信長を暗殺させた後、黒幕あるいは共謀者である事実を悟られないように、光秀を見捨てて逃げたと考えたほうが自然です。

ところで、徳川三代将軍家光(1604年~1651年、将軍在職:1623年~1651年)の乳母である春日局(かすがのつぼね)(1579年~1643年)は、斉藤利三(さいとう としみつ)(1534年~1582年)の娘です。

斉藤利三といえば、明智光秀の側近中の側近であり、「本能寺の変」の後、謀反人として京都で処刑されています。つまり、「春日局=謀反人の娘」ということです。

それなのに、なぜ「春日局」が家光の乳母になれたのでしょうか?私は春日局が再婚した相手の稲葉正成(いなばまさなり)(1571年~1628年)が関係していると思います。

正成は小早川秀秋(こばやかわひであき)(1582年~1602年)の家臣でしたが、1600年の「関ヶ原の戦い」において、平岡頼勝とともに徳川家康に内通し、主君・秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家康を勝利に導いた功労者でした。ここで家康との接点ができましたが、1602年に秀秋が死去して小早川家が断絶し、正成は浪人となりました。

そんな中、「将軍跡継ぎ確保のためのプロジェクト」が、家康側近の本多正信を中心に進められており、彼女は稲葉家再興のために家康の子供を産むこの計画に応じたという説があります。「春日局は家康の愛妾の一人だった」というものです。

家康は、家柄が高くなく、かつ子供を産んだことがある後家や人妻を離縁させて側女としていました。たとえば、都摩の方(穴山梅雪の妻、振姫の生母)、牟須の局(後家)、阿茶の局(後家)、茶阿の局(鋳物師の妻、忠輝の生母)、西郷局(後家、秀忠や松平忠吉の生母)、お亀の方(後家、義直の生母)などです。

これは、有力外戚の排除の意図もありましたが、子供を産める可能性が高かったからです。

またもう一歩踏み込んだ「家光は家康と春日局との間の子だった」という説もあり、私は信憑性が高いと思います。これで、春日局が家康と直談判(春日の抜け参り)できたり、大奥で権勢を振るえるようになった理由が納得できます

(3)朝廷

当時、信長の勢いはすさまじいものがありました。そんな信長の姿を見て、天皇や近衛前久(このえさきひさ)(1536年~1612年)などの公家たちが「このままでは我々も危険なのでは?」と感じたのは間違いないでしょう。

朝廷が信長に対して危機感を感じた具体的な出来事もあります。

まず、朝廷は信長に「征夷大将軍」の地位を与えようとしましたが、信長はこれを拒否しています。

「征夷大将軍」は天皇が任命するものなので、天皇の部下になることです。つまり、信長は天皇の部下になることを拒否したのです。

また、信長は正親町天皇(おおぎまちてんのう)(1517年~1593年、在位:1557年~1586年)にたびたび退位を迫りました

信長としては、儲君(ちょくん)の誠仁親王(さねひとしんのう)(1552年~1586年)を早く天皇にすることで、より朝廷の権威を利用しやすいものにしようという思惑があったようです。しかし天皇はそれを最後まで拒みました。ちなみに誠仁親王は、皇位につくことなく34歳で亡くなりました。

天皇の即位や退位にまで口を出してくる信長に、朝廷が大きな脅威を感じたのは間違いありません。

さらに極めつけは、安土城の中に神殿を設けたことです。これは、信長自らが「神」になろうとしたことを意味します。信長は「神」になり、天皇を超える存在になろうとしていたのです。

そのため、朝廷が光秀に信長暗殺を唆した可能性は十分にあります

ちなみに、細川藤孝(細川幽斎)の従兄弟で公家の吉田兼見(よしだかねみ)(1535年~1610年)は秀吉ととても良好な関係にあったそうです。そう考えると、「朝廷&豊臣秀吉」が共同で黒幕になったという説も考えられます。

(4)仏教勢力

信長は比叡山延暦寺や石山本願寺など仏教勢力と戦い続けてきました。
当時、日本の中で一番信長に恨みを抱いていたのは間違いなく彼ら(仏教勢力)といえます。

そう考えると、仏教勢力が信仰心の篤い光秀に信長暗殺を煽ったという「仏教勢力 黒幕説」は十分に考えられます。

(5)毛利輝元

武田氏が滅んだ後、信長が最も脅威と感じていたのが、中国地方を支配していた毛利輝元(1553年~1625年)でした。

事実、毛利氏は信長の家臣である秀吉と戦闘状態にありましたから、その後信長本隊がやってくるのは当然の流れであり、これに大きな危機感を感じていたはずです。

そこで、毛利氏は安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)(生年不詳~1600年)を仲介役として光秀や秀吉に全面協力することを条件に信長暗殺を嗾(けしか)けたという説です。

この密約があれば、秀吉の「中国大返し」も理解できますし、「本能寺の変」の後に天下を取った秀吉が、毛利氏と安国寺恵瓊を優遇したのも理解できます。

(6)長宗我部元親

当時、四国の阿波国(徳島県)には信長に敵対する三好康長(みよし やすなが)(生没年不詳)がいました。

そこで、信長は光秀を仲介役にして長曾我部元親(ちょうそかべ もとちか)(1539年~1599年)と同盟を結び、三好を攻めさせました。

「三好を討てば、四国は長曾我部一族が支配していい」という条件付きでした。

ところが、その後なぜか信長は三好と組んで、四国征伐を決定しました。これでは光秀の面目は丸つぶれです。

その後、織田軍の四国攻めが準備され、長宗我部元親は絶体絶命の危機に陥いります。しかし、「本能寺の変」によって信長が死に、四国出兵がなくなりました。

長曾我部元親が「本能寺の変」の黒幕であったかどうはわかりませんが、この出来事が光秀を信長暗殺に走らせた一因になったことは間違いありません。

(7)足利義昭

室町幕府最後の将軍である足利義昭(あしかがよしあき)(1537年~1597年、将軍在職:1568年~1588年)自分を京都から追放した信長に対して恨みを抱いていました

いつか信長を討ち、再び将軍として京都に行くことを考えたのは当然です。また、義昭は光秀を家臣として従えていたこともあり、光秀は義昭を将軍として敬っていました。

そこで、光秀をそそのかして「本能寺の変」を実行させたという説です。

その当時、義昭は鞆の浦(とものうら・広島県福山市)で毛利氏の庇護を受けていました。
「本能寺の変」の後、秀吉は毛利氏と停戦協定を結んで「中国大返し」を敢行し、光秀を討つことになるのですが、ここで疑問点があります。

秀吉が京都に戻れば光秀が危険になることはわかっていたので、毛利氏と仲が良かった義昭が秀吉の動きを止めることもできたはずです。

しかし「本能寺の変」で信長が死んだ後、義昭は目立った動きをしていません。なぜなのでしょうか?

それは、義昭にとっては「信長の死」こそが悲願だったからかもしれません。そう考えると、義昭からうまい具合に利用されただけで、はしごを外された光秀は不憫にも思えます。

(8)堺商人

今井宗久(いまいそうきゅう)(1520年~1593年)をはじめとする堺の商人たちが、信長の天下統一を阻止し、自治都市・堺の権益を守るために光秀に謀反を起こすよう仕向けたとする説です。

商人たちは光秀に資金や武器の提供を約束したとする説です。千利休が単独で光秀を動かしたとするバリエーションもあります。

(9)イエズス会

天下取りを目前とする信長が自らの神格化を図ったことに危機感を覚えたイエズス会、あるいは宣教師のルイス・フロイス個人が事件の黒幕だったとする説です。

光秀の娘の玉(ガラシャ)を通じて光秀に接近し、信長暗殺を実行に移させたと推理する説です。

(10)オランダ

ハプスブルク家と手を組んだ信長と、ローマ教皇と結んだ本願寺が、日本で代理戦争を繰り広げたという説です。

ハプスブルクと対立するイギリスとオランダが、徳川家康を通じて光秀と接触し、自陣に引き入れて信長を討たせたとする、壮大なスケールの設定です。

(11)森蘭丸

信長の側近である森蘭丸は、信長の寵愛を集めた寵童ではなかったとする説です。

信長に心酔する蘭丸は、信長と心中することで、その心と体を独占することを願い、その実現のため、蘭丸は光秀を陥れて自らの地位に不安を抱かせ、ついに謀叛へと至らせたとする説です。石原慎太郎が著書『信長記』で示しました。

いずれにしても、実際に信長に不満を持ち、信長を暗殺したいと思っている者は多くいたのですが、光秀が「信長を暗殺すれば、自分に賛同して、信長のような武力によって政治を行う覇道ではない新しい世を作るのに協力してくれる者が大勢いるはず」と考えていたのが、甘かったというか大きな勘違い・誤算でした。

余談ですが、信長の覇業を表す言葉として「天下布武(てんかふぶ)」があります。これは「武力によって天下を平定する」という意味ではありません。

この「武」というのは、「戦いを止める」という意味(*)であり、また「武」は「七徳の武」のことであるとも言われています。

(*)「武」と言う文字は、「矛(ほこ)」の象形と「立ち止まる足」の象形から、元来は「矛を持って戦いに行く」いう意味でした。しかし、「止」は後に「ストップ」の意味を持つようになり、最古の部首別漢字字典である「説文解字(せつもんかいじ)」には、「武は戈を止めこと」つまりは「武は戦を止めること」だと書かれています。

この「七徳の武」とは、古代中国の古典である「春秋左氏伝」に、武の7つの目的を備えたものが天下を治めるのにふさわしいと記されているものです。

7つの目的とは

・暴力を禁じる
・戦を止める
・大国を保つ
・功績を成し遂げる
・大衆を仲良くさせる
・民を安心させる
・財を豊かにする

であり、この7つを備えたものが天下人にふさわしいと言われているのです。

そのため、天下布武とは織田信長による「天下に七徳の武を布く」という思い、天下泰平の世界を築くという強い意志の表れだったのではないかと言われています。

光秀は、最後の頼みとした細川藤孝(ほそかわふじたか)(1534年~1610年)や娘婿の細川忠興(ほそかわただおき)(1563年~1646年)にすら味方になることを拒否され、完全に梯子をはずされた形です。

2.「本能寺の変」とは

本能寺の変

本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、明智光秀が謀反を起こし、京都本能寺に滞在する主君・織田信長を襲撃した事件です。

信長は寝込みを襲われ、包囲されたことを悟ると、寺に火を放ち、自害して果てたと言われています

信長の嫡男で織田家当主の信忠も襲われ、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に移って抗戦しましたが、やはり建物に火を放って自害しました。

信長と信忠の死によって織田政権は瓦解しますが、光秀もまた6月13日の山崎の戦いで羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れて命を落としたと言われています。

事件は秀吉が台頭して豊臣政権を構築する契機となり、戦国乱世は終焉に向かいました。

なお、光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、多種多様な説があります。

本能寺の変の際、信長は公家などの文化人と茶会を開いていたそうです。そのため自身を警護する者も、多くとも200人未満だったと言われています。

光秀は領地である近江・坂本から中国地方で毛利攻めをしていた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の援軍へ13,000人の軍勢を率いて向かう最中でした。

その道中、彼は突如として軍勢の行き先を変更し、本能寺へと進んだと言われています。大河ドラマなどで有名な「敵は本能寺にあり!」というセリフはこのときのものです。

当時の本能寺は現代の寺社のイメージと異なり、石垣が存在するなど城塞のような様相を呈していたと言われています。

実際、光秀が本能寺へ攻め込んだときにも本能寺はすぐには陥落せず、わずかな人数でも抵抗を見せたそうです。

しかしさすがに10,000人を超える軍勢に百人程度の人数では攻撃を防ぎきることはできなかったようです。

この謀反によって本能寺に宿泊していた織田信長は討ち死にし、さらに妙覚寺にいた信長の嫡男・信忠も二条御所に立てこもりますが、最終的には討ち取られてしまいました。