「敗走路想像のRUN」や「里山一周」の「トレイルラン」が今注目です!

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西郷隆盛敗走路

<2020/9/1追記>「トレイルラン」イベントでのトラブル事例発生の報道

能勢妙見山パワートレイルラン

大阪府の能勢妙見山を走る「能勢妙見山パワートレイルラン」(*)の2019年のイベントで、吉川八幡神社に事前の了解もなく無断で、この神社の敷地を通るトレイルランのコースを設定してイベントを実施しました。

この神社では、ランナーの接触による灯篭の倒壊などの被害も発生したそうですが、主催者からは「謝罪」はなく、「保険で弁償する」との回答があっただけで不誠実な態度に憤慨しているとのことでした。

(*)「能勢妙見山パワートレイルラン」とは、2017年から始まった大会で、関西随一の日蓮宗霊場である能勢妙見山をはじめ、高代寺・吉川八幡神社・本滝寺などのパワースポットを巡る里山一周のトレイルランです。2020年は12月5日(土)に実施予定とのことです。

2020年のNHK大河ドラマは敗者明智光秀(?~1582年)を主人公にした「麒麟がくる」です。2018年のNHK大河ドラマ「西郷どん」の主人公西郷隆盛(1828年~1877年)は、江戸城無血開城など幕末から明治にかけて大活躍した「維新の十傑」の一人ですが、西南戦争(1877年)に敗れて最後は敗者となりました。

最近、このような敗者が最後にたどった獣道(けものみち)の「敗走路」を、歴史の敗者に思いを馳せながら走る「想像のRUN」が注目されているそうです。

1.西郷隆盛の敗走路

日経MJ(2019/11/30)には、「敗走路RUN」について次のように紹介されています。

忍び寄る追っ手。部下は減りゆき、兵糧は今にも尽きんとする。敗軍の将は一体どんな気持ちで逃げ延びたのだろう。想像するだけで胸がしめつけられ、感傷に浸りたくなる。そんなエモさに魅せられてか、武将の敗走路に今注目が集まっている。当時のルートを実際にたどり、彼の見た景色、胸中に思いをはせる。ああ、あの人もここを通ったんだな、と。

トレイルランニング大会「SAIGŌ Trail 1877(西郷トレイル1877)」を通して、西郷隆盛ゆかりの古道「西郷隆盛敗走路」の復活を目指す「クラウドファンディング」が、2019年10月2日の募集開始後20日間で目標金額70万円を突破したそうです。

「SAIGŌ Trail 1877実行委員会」(事務局:宮崎市/実行委員長:小池拓哉氏)では、今後は大会の開催を通じて古道整備・PRに努め、誰もがハイキングなどを楽しめるロングトレイルを目指しています。

1877年8月17日、西南戦争に敗れた西郷隆盛率いる薩摩軍約500名は、宮崎県北部の小村・俵野(ひょうの、現・延岡市)で政府軍の包囲網を突破し、故郷・鹿児島に向けて400kmもの逃避行を敢行しました。西郷らは16日間かけて鹿児島・城山に辿り着き、最期の時を迎えます。この西郷の最期の足跡を刻む古道の一部が、宮崎県北部を中心に「西郷隆盛敗走路(帰還路)」として現代に残されています。

2.その他の敗走路

(1)明智光秀

明智光秀は「本能寺の変」(1582年)で織田信長を討った後、味方を糾合しようとしますが思うように進まず、逆に羽柴秀吉の「中国大返し」によって追われる身となり、「山崎の戦い」(1582年)に敗れて坂本城へ落ち延びる途中で、落ち武者狩りに会って深手を負い、自害しました。

(2)大友皇子

大友皇子(648年~672年)は、天智天皇の第一皇子ですが、弟の大海人皇子(後の天武天皇)との「皇位継承紛争」である「壬申の乱」(672年)で、反乱者である大海人皇子に敗れ敗走の末に自害しました。

(3)島津豊久

島津豊久(1570年~1600年)は、安土桃山時代の武将で、「関ケ原の戦い」(1600年)では叔父の島津義弘(1535年~1619年)と共に「西軍」として参陣しますが、乱戦の中で東軍優位となり、叔父と共に東軍の追撃を受けて退路を断たれます。そこで何としても叔父を生きて薩摩に帰還させるべく自らは殿軍を務め、討ち死にしました。

彼の奮戦のおかげで叔父の島津義弘は、家康本陣をかすめる形で伊勢街道方面へ無事に撤退することができました(島津の退き口)。

この島津軍による徳川軍中央突破作戦は、主君島津義弘一人を逃がすため全軍が命を捨てる「捨てかまり戦法」(トカゲの尻尾切り戦法)を取り、1000人が60人になったと言われてきました。ただこの中央突破成功の要因は、薩摩武士の精神力だけではなく、足軽はもちろん上級武士も携行していた「腰さし鉄砲」という火器の威力も大きかったようです。

当時の武士は、鉄砲を卑怯な飛び道具と考え足軽に持たせていましたが、薩摩にはこの考えは薄く、身分のある武士も鉄砲を用いる合理性を持っていました。このころから薩摩藩には「変通」(その場その時に応じて、自由自在に変化・適応していくこと。過去にとらわれずに自らを変えること)という合理的精神が息づいていたようです。

島津義弘は最初、徳川家康からの援軍要請を受けて、鳥居元忠が籠城する伏見城へ「徳川の援軍」として駆け付けました。しかし、鳥居元忠が「島津家に援軍要請したことは聞いていない」として入城を拒否したため、伏見城に押し寄せた石田三成ら西軍の大軍の中で孤立します。そこで「西軍」に味方する決心をしたそうです。

余談ですが、「関ヶ原の戦い」の後、土佐の長宗我部氏は潰されましたが、薩摩の島津氏は潰されませんでした。これは当時まだ大坂城には豊臣秀頼がおり、西国には豊臣系大名がひしめいているので、関東から長い補給線を引っ張って薩摩を征伐するのは危険だと徳川家康が判断したからのようです。

しかし皮肉なことに360年あまり後に、徳川幕府はその薩摩藩を中心とした討幕派勢力によって滅ぼされることになります。