御台所がいなかった吉宗は、美人の大奥の女中を優先解雇して大奥を大整理!?

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徳川吉宗

1.紀州藩主時代の正室・真宮理子(寛徳院)

「真宮理子(さなのみやさとこ)」(1691年~1710年)は、伏見宮貞致親王(伏見宮13代当主)の王女で、後に江戸幕府8代将軍となった徳川吉宗が紀州藩5代藩主だった頃の御簾中(正室)です。

紀州藩2代藩主・徳川光貞の御簾中・照子女王は伯母、4代将軍・徳川家綱の御台所・顕子女王は叔母、9代将軍・徳川家重の将軍世子時代の御簾中・増子女王は姪に当たります。幼称は真宮(さなのみや)、院号は寛徳院(かんとくいん)です。

吉宗が紀州藩主になった翌年の宝永3年(1706年)に16歳で輿入れしました。吉宗は23歳でした。

京から江戸に下り、赤阪の紀州藩屋敷に入りました。当時、吉宗にはすでに「お須磨の方」や「お古牟(こん)の方」など数人の側室がいました。

宝永7年(1710年)に理子は懐妊しましたが死産となり、産後の肥立ちが悪く同年死去しました。

理子の死後、吉宗は将軍になってからも「御台所(正室)」を迎えていません

2.吉宗が美人の大奥の女中を優先解雇した理由

「権力者は美人が好き」というステレオタイプの考え方を覆す吉宗のエピソードです。

吉宗が将軍に就任した当時、御台所として江戸城内で最高権力を誇っていた天英院は、将軍生母として権力を増してきた月光院を脅威に感じていたため、これに目をつけ 絵島や月光院派の関係者ら1,500人を処罰して大奥から排斥しました。

彼はこのような大奥を大胆にリストラすることにし、4,000人から1,300人に一気に削減しました。

吉宗は将軍職に就いたばかりのある日、大奥の女中の中から「みめかたちうるわしき者」を50人集めるように言いつけます。

当時の彼は正室・真宮理子(寛徳院)を亡くして独身だったため、大奥の女性たちは次期将軍の生母選びと受け止め、色めき立ったようです。

家来たちも当然、「集めた美人の中から側室を選ぶのだろう」と考えました。ところが集まった美人たちを前に吉宗が言い渡したのは、「解雇」でした。美女たちも密かに期待していたでしょうに・・・

では、この吉宗の行動の真意は何だったのでしょうか?

それは「みめうるわしくない者」たちの職を守るためでした。

吉宗は代替わりに伴って大奥女中の人員整理をしようとしたのですが、美しい女中ならすぐに嫁ぎ先や再就職先が見つかるだろうが、美しくない女中がいきなり解雇されたら困るだろうと考えたのです。

3.側室・お須磨の方(深徳院)

「お須磨の方」こと「深徳院(しんとくいん)」(1688年~1713年)は、9代将軍家重の母となった側室です。

父は紀州藩士の大久保忠直で、母は同じく紀州藩士内藤幸右衛門守政の娘です。俗名は須磨(須摩)

吉宗の紀州時代に侍妾(じしょう)となりました。世子となった吉宗に従って江戸に入り、正徳元年(1711年)に長福丸(後の九代将軍家重)を生みました。

吉宗は正室・真宮理子との間に子がなかったため、長福丸が世子となりました。

お須磨の方は、側室の筆頭の地位にあり、正徳3年(1713年)に再び懐妊しましたが、難産のため母子ともに亡くなりました。

4.側室・お古牟の方(本徳院)

「お古牟(こん)の方」こと「本徳院(ほんとくいん)」(1696年~1723年)は、紀州藩の大番組頭である竹本正長の娘として生まれました。

正徳3年(1713年)に、当時紀州藩主であった吉宗の側室・お須磨の方が死去すると、古牟が須磨の又従姉妹であることから、家臣の間では吉宗の側室候補として挙げられました。

しかし『徳川実紀』によると、古牟を訪ねた家臣が「枕席に侍らすべきさまにあらず」と心配するほどの醜女であったとされています。

古牟は赤坂の紀州藩邸に入って、正徳5年(1715年)に第二子の小次郎(後の田安徳川家初代当主・徳川宗武)を生みました。

翌享保元年(1716年)、吉宗は将軍に就き、古牟も側室お梅の方と共に江戸城大奥に入りました。

5.徳川吉宗とは

徳川吉宗(1684年~1751年、在職:1716年~1745年)とは、紀州藩2代藩主徳川光貞(1627年~1705年)の四男で、徳川家康の曽孫に当たります。

父と二人の兄の死後、紀州藩5代藩主となって藩財政の再建に努め、成果を挙げました。

7代将軍徳川家継の死によって、秀忠の男系子孫である徳川将軍家の血脈が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名によって、御三家出身では初の養子として宗家を相続し、8代将軍に就任しました。

紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、家宣時代に間部詮房や新井白石が推進した文治政策である「正徳の治」を改める幕政改革を実施しました。

幕府権力の再興に努め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発などの公共政策、「公事方御定書」の制定、庶民の意見を取り入れるための「目安箱」の設置などの「享保の改革」を実行しました。

息子の家重に将軍の座を譲った後も、「大御所」として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行したことから「米将軍(八十八将軍、米公方)」と呼ばれました。

これらの改革で、破綻しかけていた幕府財政を立て直したことから、「中興の祖」と呼ばれますが、年貢率を引き上げるなど農民に負担を強いる改革であったため、百姓一揆の頻発を招きました。

また庶民にも倹約を強制したため、景気は悪化し文化は停滞しました。



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