家継の婚約者・八十宮吉子。「史上初の武家への皇女降嫁と関東下向」は幻となる

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徳川家継

1.八十宮吉子とは

吉子内親王(よしこ ないしんのう)(1714年~1758年)は、霊元法皇の第十三皇女です。生母は右衛門佐局松室敦子。幼名八十宮(やその みや)。異母兄に東山天皇、同母兄に有栖川宮職仁親王がいます。

正徳5年(1715年)、時の江戸幕府7代将軍徳川家継と1歳で婚約します。当時夫となる家継もわずか6歳でした。

「公武合体」の発想は、何も「皇女和宮降嫁」が最初ではなかったのです。形式的には官位を授けたり、征夷大将軍に任命したり、勅許の権限は天皇・朝廷にありましたが、実質的には武力で全国を制圧し天下人となった家康とそれに続く将軍家にとっては、自らの政権の正統性や権威付けのために、天皇・朝廷が必要でした。

それをもっとも端的に示すのが「公武合体」です。そのため、3代家光は公家から、4代家綱は皇族から正室を迎えたのでしょう。その後も正室は公家や皇族から迎えるようになります。

しかし、その婚姻関係が形式的なものであった証拠に、正室から次期将軍が生まれることは全くありませんでした。

正徳6年(1716年)2月には「納采の儀」を済ませますが、そのわずか2か月後の享保元年(1716年)4月に家継が亡くなったため、「史上初の武家への皇女降嫁と関東下向は幻となりました。しかも本人は僅か1歳7か月で後家となったのです。「嫁がざる幻の正室」です。

享保11年(1726年)、親王宣下があり吉子内親王となりました。

享保17年(1732年)出家し、法号を浄琳院宮(じょうりんいんのみや)といいました。

宝暦8年(1758年)、44歳で亡くなりました。墓所は京都市東山区の知恩院にあります。

2.徳川家継とは

徳川家継(とくがわいえつぐ)(1709年~1716年、在職:1713年~1716年)は、江戸幕府7代将軍です。6代将軍家宣(いえのぶ)の三男。母は家宣の側室輝子(てるこ)(月光院)。

兄2人の夭死(ようし)により、家宣没後、1713年(正徳3)4歳で将軍となりました。在職わずか4年でしたが、間部詮房(まなべあきふさ)、新井白石(あらいはくせき)の補佐により、父家宣の遺業である、金銀貨改良、長崎貿易改革(海舶互市新例(かいはくごししんれい))を完成したほか、評定所(ひょうじょうしょ)の公平な運営により多くの名判決を残しました。

室鳩巣(むろきゅうそう)の手紙によれば、聡明(そうめい)仁慈でふるまいも静かで上品だったということです。1715年に正室として皇女八十宮(やそのみや)との婚約がなりましたが、翌年家継が没したため、降嫁は実現しませんでした。法号有章院。

3.徳川宗春とは

なお、「八十宮吉子は出家せずに徳川宗春の側室・阿薫となった」とする説もあります。

徳川宗春(とくがわむねはる)(1696年~1764年)は、江戸中期の尾張藩第7代藩主です。初名通春、幼名万五郎、求馬と称しました。同藩3代藩主綱誠の第二十子として名古屋で生まれました。

享保元年(1716年)従五位下主計頭、さらに従四位下となっています。同14年陸奥国梁川3万石を与えられました。同15年兄継友の急死によって尾張藩主となりました。従四位下少将から従三位左近衛権中将、参議を経て権中納言になっています。

その9年間の政治は尾張藩政史上一時期を画するもので、初入国の際、自らの施政方針を示した著書『温知政要』1巻を著し、法令が多いのはよくないとか、倹約はかえって無駄を生ずることになると、おりからの8代将軍徳川吉宗の「享保の改革」を批判しています。

このような方針のもと、死刑を行わず罪人を入牢のまま放置。自ら奇抜な装束をし、城下南部の西小路、富士見ケ原、葛町の3カ所に藩祖以来禁止されていた遊郭の設置を認めたので、名古屋城下には全国から1,000人を超える遊女たちが集まりました。

常設の芝居小屋も57座にのぼり、江戸・上方の役者が流入、興行は387回を数えたということです。

さらに商工業を振興し、のちに三家衆といわれる伊藤・関戸・内田家の商業発展の基礎を築きました。

しかし、こうした積極策は緊縮・尚武・法治の政策を進める吉宗の政治とまっ向から対立したため。17年には幕府からの詰問を受けました。このときは言いのがれたものの、藩の士風は乱れ、財政赤字が増加したため。20年ごろ引き締めを行い、藩士の遊郭出入りを禁止、遊郭を整理し、芝居小屋の新設を禁止しました。

しかし元文4年(1739年)に、ついに「隠居謹慎」を命じられ、名古屋城で幽閉生活に入りました。

あとには金1万8000両余、米3万6000石余の財政赤字が残りました。死後も墓石に金網がかぶせられるという処分を受けましたが、天保10年(1839年)にようやく許され、従二位権大納言が追贈されました。なお宗春は生涯「正室」を迎えませんでした。

ただし、「側室」には海津、民部、伊予、左近、おはる、阿薫がいました。

ちなみに「阿薫(おくん)」(1715年~1780年)は、宗春隠居後と共に暮らした唯一の側室です。霊元天皇第十三皇女の吉子内親王本人であるとする説がありますが、没年がかなり異なっています。

『金府紀較抄』によると、阿薫は次のような女性だったようです。

享保17(1732)年10月、徳川宗春の側室となる。父、猪甘宗貞。母は鈴木氏。猪甘氏は、近江の出で織田・豊臣の家臣だったが後は都で代々浪人だった。容貌優れて、徳があり、きらりと光るものがある。宗春が藩主であった時から末期まで側にあり夫人としての務めを果たした。宗勝は特にその労を賞で正室同様に遇した。宗睦も同じく厚遇した。 冷泉宗家、為村、為泰によって添削された4,200首が死後に編纂され「阿薫和歌集」として伝わる。



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