残念な天皇の話(その13)。雄略天皇は暴君で多くの人を殺した大悪天皇!?

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雄略天皇

日本の皇室(天皇家)は「世界最長の歴史を誇る王室」と言われており、古事記や日本書紀にある神武天皇が実在していたとすると、第126代の今上天皇まで皇室は2600年以上の歴史があることになります。

応神天皇5世の孫とされる第26代継体天皇(450年?~531年)が確実に実在した初代天皇だとしても、「世界最長の歴史を誇る王室」であることに変わりはありません。

このような天皇家の長い歴史の中では、暴虐の大君や暗愚な天皇、好色な天皇、間抜けな天皇もいました。今回ご紹介する雄略天皇は暴虐な大君の一人です。

1.雄略天皇とは

雄略天皇系図

雄略天皇(允恭天皇7年~雄略天皇23年)は第19代允恭天皇の息子で、第16代仁徳天皇の孫です。古墳時代の5世紀後半に在位した第21代天皇です。

2.雄略天皇の暴虐ぶり

(1)大悪天皇

雄略天皇は「大悪天皇」(はなはだあしきすめらみこと)と呼ばれるほど残虐な天皇だったと伝わっています。

「日本書紀」によれば、その人となりは「天皇は自分の心だけが正しいとしており、誤りで人を殺すことが多く、天下の人々は誹謗して『大悪天皇』と言っていた」そうです。

自らの権勢のためには苛烈な行いも躊躇せず、あまりにも独善的で、人を誤った独断によって処刑することも多かったということです。

天皇、以心爲師、誤殺人衆、天下誹謗言「太惡天皇也。」

(2)後継者争いで同母兄らを殺害

先代の第20代安康天皇が後継者を決めずに亡くなったことで、案の定「後継者争い」が起こります。

まず同母兄で先代天皇である安康天皇を暗殺した眉輪王(まよわのおおきみ)とそれに加担したとみられる同母兄の坂合黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)を誅殺しました。

さらに野心家の彼(当時は「大泊瀬皇子(おおはつせのみこ)」と呼ばれていました)は安康天皇暗殺の黒幕と見られた同母兄の八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)を生き埋めにして殺害しました。

立ったままの八釣白彦皇子を埋めていくと、腰まで埋まったところで両目が飛び出して亡くなったと「古事記」は伝えています。

掘穴而隨立埋者、至埋腰時、兩目走拔而死。

さらに同じく、従兄弟の市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)を狩りに誘い出し、猪を撃つふりをして皇子を射殺しました。そして皇子が死んでしまって嘆き悲しむ皇子の弟・御馬皇子(みまのみこ)や従者も謀殺しました。

こうして安康天皇暗殺の混乱に乗じて競争相手を一掃した彼は、晴れて天皇の座に就いたのです。

猪狩りをする雄略天皇

(3)浮気相手を殺害

天皇になった彼は、朝鮮半島の百済(くだら)からやって来た池津媛を妃にしようとしていました。しかし池津媛は石河楯という人物と密通していたことが発覚します。

「日本書紀」によると、愛妾の浮気を知った彼は激怒し、大伴室屋大連という部下に命じて、2人のもとに来目部を遣わします。そして2人の両手足を木に縛り付け、床に置いて焼き殺したということです。

百濟・池津媛、違天皇將幸、婬於石河楯。舊本云「石河股合首祖、楯。」天皇大怒、詔大伴室屋大連、使來目部、張夫婦四支於木、置假庪上、以火燒死。

(4)天皇の殿舎に擬して鰹魚木(かつおぎ)を上げた大県主の家を焼き払う

河内の志幾大県主(しきのおおあがたぬし)が、天皇の殿舎に擬して鰹魚木(かつおぎ)を上げたことに激怒し、大県主の家を焼き払ったそうです。

まさに「暴君」「絶対専制君主」と言えそうです。しかし一面では、反抗的な地方豪族を武力でねじ伏せ、ヤマト王権の力を飛躍的に向上させ、各地の有力豪族の連合体を脱して天皇を中心とする中央集権体制の基礎を築いたた立役者とも言えます。

この暴虐な雄略天皇は、何となく第25代武烈天皇に似ています。それもそのはずで、武烈天皇の母親は雄略天皇の皇女です。

こんな人徳のない悪逆非道な天皇がいたことを、日本の正式な歴史書である「古事記」や「日本書紀」で遠慮なく克明に記述しているのは不思議な気もします。天皇家の先祖の恥をさらすようなものだからです。

武烈天皇系図

ただし、第26代天皇の継体天皇が、武烈天皇の「仁徳天皇系」とは血統が異なる全く別の地方の一豪族の血統の可能性が高いことから、継体天皇の正統性を強調するために武烈天皇の悪行がそのまま記載されているのかもしれません。「歴史は勝者によって作られる」とも言われますので。

雄略天皇や武烈天皇は、あたかも古代中国の王朝滅亡時の王(夏の桀王や、妲己を寵愛した殷の紂王など)を彷彿とさせます。

継体天皇の後に続く天皇は、一応「応神天皇系」となりますがかなりの「傍系」なので、血統の途絶えた「仁徳天皇系」の武烈天皇の悪行の記録をそのまま残したとも考えられます。

ただ継体天皇が直接「日本書紀」の編纂に関与したわけではありませんし、その後の天皇が古くからある天皇に関する史料を改ざんしたり捏造したとも考えにくいので、やはり雄略天皇や武烈天皇が「暴君」だったのは確かなようです。



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