「三鷹事件」は単独犯か共産党の共同謀議か?国鉄三大ミステリー事件の謎に迫る!

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三鷹事件列車転覆

前に「国鉄三大ミステリー事件」の一つである「下山事件」の記事を書きましたが、今回は「三鷹事件」について考えてみたいと思います。

1.「三鷹事件」とは

「三鷹事件」とは、「1949年7月15日に国鉄(現在のJR)中央本線三鷹駅構内で起きた無人列車暴走事件」です。

GHQが占領中の1949年7月15日午後9時23分(当時は「夏時間」のため、現在の午後8時23分)に、国鉄三鷹電車区(現在のJR東日本三鷹車両センター)から、無人の63系電車4両を含む7両編成が暴走し、三鷹駅の下り1番線に進入した後、時速約60kmのスピードで車止めに激突し、そのまま車止めを突き破って脱線転覆したものです。

この脱線転覆で線路脇の商店街などで、6人が死亡し20人が負傷する大惨事となりました。

この事件は、国鉄労働組合(国労)の「大量解雇反対闘争」に大打撃を与え、国労中央委員会がストを含む実力行使の方針を撤回する一方、解雇は順調に進むという結果をもたらしました。

2.「単独犯」か?それとも「共産党の共同謀議」か?

(1)捜査

翌日、吉田茂首相は、「一部の組合や共産党が社会不安を挑発、扇動している」と断じました。

捜査当局も、「共産系勢力による組織的犯行である可能性」を想定しました。動機としては同年9月に国鉄労働組合(国労)によるストライキが計画されていたことです。

「共産革命を狙う政治的な共同謀議による犯行」として、「国労」組合員の共産党員10人と非共産党員の元運転士竹内景介が逮捕され、アリバイがあった共産党員1人を除く10人が起訴されました。竹内が「死刑」ではなく「無期懲役」とされたのは、解雇されたことへの反発があったこと、計画性がなかったこと、人命を奪うという結果を想定していなかったことです。

(2)裁判

①一審

1950年、東京地裁は、非共産党員の竹内の単独犯行として、「往来危険電車転覆致死罪」によって「無期懲役」とする一方、共同謀議の存在を「空中楼閣」と断じ、共産党員9人全員を「無罪」としました。

「死刑」とせず「無期懲役」としたこの判決に対して、読売新聞、毎日新聞、産経新聞などのマスコミは被害者や遺族の意見などを紹介して批判しました。朝日新聞は無期懲役に肯定的見解でした。今と違って、当時は各新聞が裁判の判決に対して意見表明や批判を展開したようです。

②二審

検察が「全員有罪」を求めて控訴しました。1951年、東京高裁は、書面審理のみで一審判決を破棄して竹内を「死刑」とし、他の9人は無罪としました。これで9人の無罪は確定しました。

③最高裁

弁護人は上告しましたが、最高裁は1955年、口頭弁論も開かないまま上告を退け、竹内の死刑判決が確定しました。ただこの票決が8対7の1票差であったため、物議を醸しました。そのためか、以後の最高裁の上告審理では、口頭弁論を開くことが慣例となりました。

なお、竹内は脳腫瘍のため、45歳で獄死しています。彼の供述は、「無実」「単独犯」「複数犯」など様々な変遷を重ね、最高裁まで7回変更しているそうです。

竹内は「再審請求補充書」で、「弁護士から、罪を認めても大した刑にならない。必ず近いうちに人民政府が樹立される。一人で罪を認めて他の共産党員を助ければ、あなたは英雄になると説得された」と主張しています。

また、竹内と面会した加賀乙彦は、彼が「おれは弱い人間なんですね。弱いからすぐ人を信用してしまう。党だって労組だって、大勢でお前を全面的に信用すると言われれば、すっかり嬉しくなって信用してしまった。(中略)結局、党によって死刑にされたようなもんです。」と語ったと述べています。

私は、竹内という犯人が、「聖戦(ジハード)の英雄になると唆されて自爆テロをしたイスラム教の少年」や「有名になって歴史に残ると唆されて大統領などの要人を暗殺した犯人」と同様、「共産党員の国労組合員に唆されて犯行に及んだ」ようで、可哀そうな面もあるように思います。

3.「三鷹事件」を扱った小説など

片島紀男:「三鷹事件ー1949年夏に何が起きたのか」

高見澤昭治:「無実の死刑囚 三鷹事件竹内景介」

小松良郎:「三鷹事件」