残念な天皇の話(その9)。白河天皇は上皇になって女性関係が奔放になった!?

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白河上皇

「白河天皇」というよりも「白河法皇(白河上皇)」と言った方がなじみがあるかもしれません。

白河法皇と言えば、「初めて院政を行った法皇」で、「天下三不如意」の話で有名ですが、「奔放な女性関係」や「雨水の禁獄」という面白い話もあります。

1.白河天皇とは

白河天皇系図

第72代白河天皇(1053年~1129年、在位:1073年~1086年)は第71代後三条天皇の第一皇子で、母は中納言藤原公成の娘・藤原茂子です。

彼は父の後三条天皇が即位した1068年の翌年に皇太子となり、1073年には父の譲位を受けて即位しています。しかしこの時、皇太子となったのが異母弟の実仁親王でした。

後三条天皇の譲位の目的は、実仁親王を皇太子とすることだったようで、このままでは彼の子孫が皇位継承から除外されることは明らかで、彼はそれを恐れました。

彼にとって幸いだったのは1085年に実仁親王が病死したことです。そこで彼は急いで息子に譲位して上皇となるのですが、これについては次の2.(1)で詳しく述べます。

父の後三条天皇は、1069年に「(延久の)荘園整理令」を出して、藤原氏の経済的基盤であった「荘園」を規制し、藤原氏の勢力抑制を図りました。これまでにも醍醐天皇による902年の「延喜の荘園整理令」も出されていましたが、効果は今一つでした

しかし「延久の荘園整理令」は、寄進地系荘園や不輸・不入の権で既得権益を持つ藤原氏などの有力貴族や大寺院の荘園に大きくメスを入れた本格的なものでした。

その効果もあって当時藤原摂関家の勢力が減退したのに乗じて、彼は実権を握ることに成功しました。

「北面の武士」を置いて、御所と僧兵の騒乱に備えたほか、仏教に帰依し、1077年には法勝寺(ほっしょうじ)を建立しています。

天皇在位中に、「後三年の役」(1083年~1087年)や「富士山の噴火」(1083年)がありました。

ちなみに「後三年の役」とは、源義家が「前九年の役」(1051年~1062年)後に奥州に勢力を伸ばした出羽の豪族清原氏を、内紛に乗じて滅ぼした戦いです。

2.白河法皇(白河上皇)とは

(1)院政の開始

院政の系図

1086年に第三皇子で8歳の善仁親王に「譲位」して第73代堀河天皇として即位させ、1107年に堀河天皇が亡くなると4歳の孫の宗仁親王を第74代鳥羽天皇として即位させました。

さらに鳥羽天皇が成人して扱いにくくなると、1123年には4歳のひ孫の顕仁親王を第75代崇徳天皇として即位させました。

そしてこの三代にわたる43年間「上皇」として政務を執りました。これが「院政」の始まりです。

1096年には出家して「法皇」となりました。深く仏教に帰依し、法勝寺以外にも多くの造寺・造仏を行いました。また1090年~1128年の間に9回も「熊野詣(くまのもうで)」を行ったことで、熊野信仰の熱狂的な高まり(熊野ブーム)を生み出しました。

ちなみに、「上皇」と「法皇」の違いですが、「上皇」とは「太上天皇」の略で、「天皇の位を後継者に譲った天皇の称号」です。「院」と呼ぶ場合もあり、平安・鎌倉時代にあった「院政」はここから来ています。一方「法皇」とは「太上法皇」の略で、「出家した太上天皇の称号」です。

(2)奔放な女性関係

彼は皇太子時代の1071年に関白藤原師実の養女・藤原賢子を中宮に迎えています。賢子との仲は非常に睦まじく、賢子の生前に彼と関係を持った女性は女御の藤原道子と典侍の藤原経子ぐらいでした。

しかし1084年に賢子が27歳で亡くなると、正式な后や女御を入れず、側近に仕える多数の女官・女房らと関係を持ちました。

晩年の寵妃となり権勢を誇った祇園女御など、下級貴族の生まれでも公然と寵愛しました。その上、関係を持った女性を次々と寵臣に与えたことから、崇徳天皇や平清盛が「白河法皇の御落胤」であるという噂が当時から広く信じられる原因となりました。

①待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)

彼は愛人だった待賢門院璋子(1101年~1145年)を、孫の鳥羽天皇の后として与えています。しかも、その時すでに待賢門院璋子は彼の子供を妊娠していたというのですから驚きです。

ちなみに、待賢門院璋子は大納言藤原公実の娘ですが、7歳の時に父が亡くなったため、幼少時から白河法皇とその寵姫の祇園女御に養われていました。

②祇園女御(ぎおんのにょうご)

彼はまた晩年に寵愛した祇園女御(生没年不詳)を、平忠盛に褒美として与えています。この時も祇園女御は彼の子供を妊娠していて、生まれた子供が平清盛だと言われています。

3.「天下三不如意」と「雨水の禁獄」の逸話

(1)天下三不如意(てんかさんふにょい)

平家物語」に、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽(さい)、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話があります。

「賀茂川がもたらす水害」と「盤双六(ばんすごろく)の二つのサイコロが出す賽の目」と「比叡山延暦寺の僧兵」だけは、何でも意のままになる白河法皇でもどうにもならないことだったようです。

(2)雨水の禁獄(うすいのきんごく)

白河法皇が法勝寺で「金泥一切経」を供養するための行幸を、雨に三度も妨げられて延期となり、最終的に行幸して供養を行った当日も雨が降ったため、怒って雨を器に入れて獄舎に下したという故事です。

「雨禁獄」とも言います。



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