残念な天皇の話(その8)。聖武天皇は仏教に帰依し大仏造立で国家財政が窮乏!

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奈良の大仏

前に聖武天皇の祖母の「元明天皇」の記事を書きましたが、聖武天皇も残念なところのある天皇です。

1.聖武天皇とは

聖武天皇

第45代聖武(しょうむ)天皇(701年~756年、在位:724年~749年)は、文武天皇の第一皇子で幼名は首皇子(おびとのみこ)です。母は藤原不比等(ふじわらのふひと)(659年~720年)の娘・宮子です。

彼は「皇族から皇后を選ぶ」という従来の慣例を破って、藤原不比等の娘・安宿媛を皇后(光明皇后)としました。これは藤原氏による勢力拡大戦略のようで、これに反対していた長屋王(高市皇子の息子で天武天皇の孫)は729年、「謀反の疑いがある」との密告によって、一族が自害に追い込まれています(長屋王の変)。

ちなみに藤原不比等は、中大兄皇子(後の天智天皇)とともに「乙巳の変(いっしのへん)」を起こした中臣鎌足(藤原鎌足)の息子です。

下の天皇家と藤原氏の系図を見ると、藤原氏が天皇家と結びつきを強めていく様子がよくわかります。

聖武天皇と藤原氏家系図

2.仏教への過度の帰依と多くの仏教寺院の建立

彼は仏教に過度に帰依して、国ごとに国分寺・国分尼寺を建立し、みずから経文を書写してこれに納めました。

また、東大寺を建立して、像高約15mの大仏である盧舎那仏(るしゃなぶつ)を鋳造させました。

彼には二人の男の子がいましたが、二人とも早世し、後継者を失った彼は絶望しました。基王(もといおう)は2歳未満で亡くなり、安積親王(あさかしんのう)は16歳で亡くなっています。そのため、749年に受戒して勝満と号し、第二皇女(後の孝謙天皇)に譲位しました。

ちなみに孝謙天皇(718年~770年、在位:749年~758年)は、譲位して上皇になった時、悪名高い弓削道鏡との禁断の愛で皇位を簒奪されそうになったことで有名です。

彼が強く仏教に救いを求めたのは、毎年のように続いた旱魃・飢饉のほか地震や噴火もあり、737年には天然痘(疫病)の大流行で、当時の政治の中枢にいた藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟が相次いで死去したこともあって、強い不安を感じたからのようです。

彼は情緒不安定となって、災いから逃げるように恭仁(くに)京・紫香楽(しがらき)宮・難波(なにわ)京と遷都を繰り返し、政治は迷走しました。

3.大仏の造立による国家財政の窮乏

さらに740年には九州で「藤原広嗣の乱」が発生するなど社会不安にさらされた時代であったため、こうした社会不安を取り除き、国を安定させたいという願いが背景にあって、大仏造立に至ったようです。

しかし、この大仏造立の大事業やその他寺院の建立のために国家財政は窮乏し、人心は朝廷から離反し、宮廷内の抗争も激しくなっていきました。

また大仏の鋳造に伴う「鉱毒問題」も発生しました。これは銅に含まれていたヒ素やメッキの溶剤として用いられた水銀の中毒によって、多くの人が中毒になったり亡くなったようです。巨大な大仏製造のための銅の鋳造過程で、鉱毒による環境破壊も起きたようです。

創建当時の大仏と大仏殿の建造費は、現在の価格で約4657億円もかかったそうです。745年に工事が開始され、752年に「開眼供養会(かいげんくようえ)」が行われました。工事には延べ260万人が使役されています。

4.天平文化の開花

正倉院御物

一方、仏教の興隆に伴って美術工芸が著しく発達し、いわゆる「天平文化」が現出しました。聖武天皇の遺品は正倉院御物として現存しています。

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