畠山重忠は知勇兼備の武将だが、讒言により非業の死を遂げた!

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畠山重忠

今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、イケメン俳優の中川大志さんが畠山重忠を演じており、キーパーソンの一人である予感がしますが、どのような人物だったのでしょうか?

今まで登場したシーンでは、爽やかな若武者振りで、潔さや「武衛(ぶえい)問答」(*)で教養の高さを窺わせていました。

(*)NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」での、コミカルな対話に出てきたものです。

上総広常(演:佐藤浩市)の加勢を得て一気に膨れ上がった源頼朝(演:大泉洋)の武士団でしたが、所詮は寄せ集め集団、かつて敵同士だった者や待遇に不満を持つ者など、まとめ上げるのに一苦労です。

頼朝と御家人たちの板挟みになっていた北条義時(演:小栗旬)は酒宴を企画、これによって武士団の結束は高まったのでした。

上総広常は「俺は頼朝の家来ではないのだから、左殿(すけどの)とは呼ばんぞ。頼朝でよい」と不満たらたらでした。

深酔いした広常が頼朝を呼び捨てにするのを聞いた三浦義村 (演:山本耕史)が機転を利かし「武衛(ぶえい)という呼び方もありますよ。唐の国における親しい人の呼び方です」と「武衛」を親しい間柄の愛称だと吹き込みました。しかし、実は「武衛」とは「兵衛府」を意味し「佐殿」より尊称になります。

畠山重忠は聞きとがめて「武衛は天子様の側近のことではないか」と三浦義村にささやきましたが、上総広常は「武衛」という呼び方を気に入り、下記のようなコミカルな展開となったのでした。

現れた頼朝に、広常は「こっちに来いよ、武衛。武衛、あんたとはな、一度、飲みたかったんだよ。武衛」。頼朝が皆を労うと、広常は「今日から、おまえらも武衛だ。みんな、武衛だ。(頼朝に)いいんだよ、俺のことも武衛って呼んでよ。さあ、武衛同士、飲もうぜ」――。

この話は史実かどうかわかりませんが、当時の頼朝とそこに集まった武士団との不協和音や待遇に不満を持つ者たちの様子を鮮やかに印象付ける場面です。

歴史上の人物で、肖像画などがある有名な人はイメージしやすいのですが、畠山重忠のように「(鵯越で)馬を背負う重忠」という歌川国芳の武者絵や銅像が(下の画像)あっても、他の武者絵と同様であまり個性が出ておらず、どんな人物か想像しにくいので、冒頭に中川大志さんの画像を入れました。

鵯越えで馬を背負う重忠・歌川国芳馬を背負う畠山重忠

源頼朝の「伝源頼朝像」や足利尊氏の肖像画のように、全く別人だったという話もありますので、肖像画があるからといって信用はできません。

1.畠山重忠について

(1)畠山重忠とは

畠山 重忠(はたけやま しげただ)(1164年~1205年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、鎌倉幕府の有力御家人です。

畠山氏は「坂東八平氏」(*)の一角、秩父氏」の一族武蔵国男衾(おぶすま)郡畠山郷を領有していました。同族には江戸氏、河越氏豊島氏などがあり、河内源氏の家人として百年以上も主従関係にあります。

(*)「坂東八平氏」とは、平安時代中期に坂東(関東地方)に下向して武家となった桓武平氏流の平良文を祖とする「千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏」のことで、武蔵国周辺で有力武士団を率いた代表格の家門です。

妻は正室・北条時政の娘と、足立遠元の娘です。子は重秀、重保、重政、円耀、重慶、貞嶽夫人(島津忠久室)、女?(足利義純室?)などです。

後で述べる「畠山重忠の乱」の発端となった平賀朝雅(北条時政の後妻「牧の方」の娘婿)と酒の席での口論をしたのは重保で、正室(北条時政の娘)の子です。

父の重能は1160年の「平治の乱」で源義朝が敗死すると平家に下り、以後、20年にわたり清盛に仕えることになりました。

源頼朝の挙兵に際して当初は平家について敵対しますが、のちに臣従して「治承・寿永の乱(じしょうじゅえいのらん)」(1180年~1185年)で活躍、知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなしました。女性ならば「才色兼備」といったところでしょう。

しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて子とともに討たれました(畠山重忠の乱)。

存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑(かがみ)」と称されました。

(2)頼朝に臣従

治承4年(1180年)8月17日に義朝の三男、源頼朝以仁王令旨を奉じて伊豆で挙兵します。その頃、畠山氏の当主の重能(重忠の父)は大番役として京都にいましたので、息子の重忠が一族を率いて頼朝討伐に向かいました。

頼朝は伊豆国衙(こくが)を奇襲で占領したものの、味方が少ないので、相模の三浦一族と合流しようと酒匂川(さかわがわ)へ向かう途中、石橋山で大庭景親(おおばかげちか)が率いる3,000の平家軍の夜襲を受けて壊滅します(「石橋山の戦い」)。

合流しようと酒匂川まで来ていた三浦一族ですが、大雨で川が増水して渡れず、その内に頼朝敗北を知って衣笠城へ帰還します。その途中、由比ヶ浜で畠山重忠軍と遭遇しました。

重忠の母方の祖父は三浦氏の長老・三浦義明でしたので、この場は穏便に事を収めようとしますが、小競り合いから本格的合戦になり死傷者が出て、両軍は痛み分けで引き揚げます。

重忠はその後、河越重頼江戸重長の軍勢と合流し三浦氏の本拠地衣笠城を攻めます。長老で重忠の母方の祖父でもある三浦義明は1人で城に残り、三浦一族に「城を捨てて頼朝と合流せよ」と命じて奮戦しますが、重忠によって討ち取られました。

逃げのびた頼朝は海上で三浦一族と合流、安房で再挙兵し千葉常胤(ちばつねたね)と上総広常(かずさひろつね)らを支配下に加えて2万騎の大軍に膨れ上がり、房総半島を経由して武蔵国に入りました。

畠山重忠は抵抗することなく、河越重頼(かわごえしげより)や江戸重長(えどしげなが)とともに長井渡しで頼朝に降伏しました。

そして頼朝軍の先陣を務めてて鎌倉に入城し、正式に御家人となりました。この後、重忠は北条時政の娘を妻に迎えています。

(3)「治承・寿永の乱」での活躍

寿永2年(1183年)平家を都落ちさせて京都を支配していた源義仲(みなもとのよしなか)と頼朝が対立。頼朝は弟の範頼義経に6万騎を与えて近江国に進出させ、寿永3年(1184年)正月に「宇治川の戦い」が起こります。

重忠は搦手(からめて)を担当した義経の軍勢に配属され500騎を率いて、馬を何頭も並べて馬筏(うまいかだ)を組み、宇治川を押し渡りますが、途中で馬を射られて徒歩になり、同じく馬を射られて流れてきた大串重親(おおぐししげちか)が重忠にしがみついてきて身動きが取れなくなります。

怒った重忠が怪力で大串を放り投げると、これが対岸まで届き大串は一番乗りの名乗りを挙げ、敵味方に嘲笑されたという話があります。

『源平盛衰記』では、重忠は三条河原で義仲の愛妾の女武者・巴御前(ともえごぜん)(下の画像)と一騎討ちを演じ、怪力で巴の鎧の袖を引きちぎり、巴は敵わないと見て逃げ出したとされています。

巴御前出陣図

義仲を破った義経軍はそのまま上洛し、重忠は義経等とともに後白河法皇に御簾し(みすごし)拝謁して名乗りを挙げました。

寿永3年(1184年)2月、範頼と義経は摂津国福原(現在の兵庫県神戸市)にまで勢力を回復していた平家を討つべく京都を出発。重忠は大手方の範頼の側に属し「一ノ谷の戦い」で活躍しました。

『平家物語』での重忠は義経の搦手に属したと書かれており、『源平盛衰記』ではこれを脚色して「鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)」の場面で「馬が脚を折ったら可哀想」と怪力で愛馬を背負い自分の足で急坂を駆け降りる重忠の話を書いています。

寿永4年(1185年)、平家は壇ノ浦で滅びました(「壇ノ浦の戦い」)。

(4)幕府創業の功臣

重忠は鎌倉に帰還することになりますが、途中で義経が頼朝に反旗を翻して失敗し、逃亡します。義経のだった河越重頼は連座して誅殺され、重頼が持っていた武蔵留守所惣検校職(むさしるすしょそうけんぎょうしょく)を重忠が継承します。

文治2年(1186年)、義経の愛妾の静御前(しずかごぜん)が頼朝の命で鶴岡八幡宮で白拍子の舞を披露したとき、重忠は銅拍子を打って伴奏を務めています。

下の画像は、白拍子姿の静御前を描いた葛飾北斎の肉筆画です。

白拍子姿の静御前・葛飾北斎筆

文治3年(1187年)重忠が地頭に任じられた伊勢国沼田御厨(いせのくにぬまたみくり)で、彼の代官が狼藉を働き、重忠は任命責任を問われて千葉胤正(ちばつねまさ)に囚人として預けられます。重忠は事件を恥じて食事を摂らず餓死しようとしますが、頼朝は重忠の武勇を惜しんで赦免しました。

そして重忠が一族を率いて武蔵国菅谷館(すがややかた)に戻ると、侍所所司梶原景時が怪しんで謀反の疑いありと讒言します。頼朝は重臣を集めて重忠を討つべきか審議しますが、小山朝政が重忠を弁護し、申し開きを聴くために下河辺行平(しもこうべゆきひら)が使者として派遣されます。

事情を聞いた重忠は哀しみ憤って自害しようとし、驚いた行平は自殺を思いとどまらせ鎌倉で弁明するように促しました。査問官になった景時が重忠に起請文(きしょうもん)を求めると重忠は「私に二心はなく、言葉と心に違いはないから起請文を出す必要はない」と拒否しました。

景時がこれを頼朝に取り次ぐと頼朝は何も言わずに重忠と行平を召して褒美を与え帰しました。

文治5年(1189年)の「奥州合戦」で、重忠は再び先陣を務めます。

「阿津賀志山(あつがしやま)の戦い」で三浦義村葛西重清が陣を抜け出し抜け駆けをしようとし、重忠の郎党がそれを知って重忠に知らせると「先陣を賜っている以上は、功績はすべて自分のものであるから、抜け駆けをしてまで武功を挙げたいと考えている者達を止めるのは士気を下げ、戦術に合わないだろう」と悠然として許しました。

「奥州合戦」は鎌倉軍の勝利に終わり奥州藤原氏は滅亡します。

この戦後処理で、藤原泰衡に仕えて捕縛された由利八郎が梶原景時に取り調べを受けますが、勝者として横暴な態度を取る景時に憤慨し、「貴様には何もしゃべってやらん」と頑として口をきかなくなります。

頼朝が重忠に取り調べを命じると、重忠は由利八郎を勇者として遇し、これに感激した八郎は取り調べに素直に応じ「先ほどの男とは雲泥の違いである」と語ったそうです。

建久3年(1190年)に頼朝が上洛した時には先陣を務め、重忠は右近衛大将拝賀随兵7名に北条義時(1163年~1224年)、小山朝政、和田義盛、梶原景時、土肥実平比企能員らと共に選ばれ、名実ともに鎌倉幕府の功臣の地位に就きます。

正治元年(1199年)正月、頼朝の死去に際し、重忠は「子孫を守護するように」との遺言を受けました。同年10月、結城朝光が「忠臣は二君に仕えず」と発言したのを梶原景時が将軍・源頼家を誹謗したと讒言しました。

このことを知った三浦義村、和田義盛などが怒り、諸将66名による景時弾劾の連判状が作られますが、重忠も署名しています。この御家人の怒りの背景には過去に景時が重忠を陥れようとしたことへの御家人の不満もあったようです。

清廉潔白イメージの重忠ですが、知勇兼備であり、決して単なる直情径行ではありませんでした。頼朝に子孫を守護せよと命じられた重忠ですが、建仁3年(1203年)の「比企能員の変」(比企一族と北条一族との抗争)では北条氏に味方して頼家の後ろ盾となる比企一族を滅ぼしています。

頼家は北条時政により伊豆修善寺に強制的に隠居させられた上で殺害され、3代将軍には北条政子が産んだ実朝が就き、鎌倉幕府の実権は北条氏に握られました。

ここまで仁義なき鎌倉幕府の抗争を勝ち抜いてきた重忠ですが、今度は重忠が北条時政と後妻の「牧の方」(大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、宮沢りえさんが演じています)に目をつけられることになります。

(5)仕組まれた「畠山重忠の乱」により滅亡

元久元年(1204年)11月重忠の子、重保が北条時政の後妻「牧の方」の娘婿である平賀朝雅と酒の席で口論になりました。その場は周囲がめて治まりますが、それから半年もしてから朝雅は重忠が謀反を企んでいると「牧の方」へ讒言しました。

「牧の方」にれている時政は、言われるままに息子の義時と時房に、「重忠を討とうと思うがどうだ」と諮問します。義時も時房も「重忠は忠義の人で謀反などありえない」と反対しますが、「牧の方」に押し切られました。

稲毛重成(時政の娘婿)が御所に上がり、重忠謀反を訴え、将軍実朝は重忠討伐を命じました。

元久2年(1205年)6月22日、鎌倉にいた重保(重忠の息子)は謀殺され、同時に重忠の元に「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」との虚偽の命令が出されます。

130騎を率いて急いで駆け付けた重忠は途中の武蔵二俣川(むさしふたまたがわ)で、北条義時を総大将とする数万騎の大軍と遭遇します。

すべてを悟った重忠ですが無実で捕縛されることを望まず、僅かな兵で立ち向かい愛甲季隆(あいこうすえたか)に射られて討ち死にしました。

合戦後、義時は送られてきた重忠の首を見て「年来合眼の昵を忘れず、悲涙禁じがたし」と悲嘆にくれ、「謀反を企てることすでに虚誕」「讒訴によって誅戮に逢へる」と、重忠討伐を讒訴によるものと断じ、父時政の所行を糾弾したと『吾妻鏡』には記されています。

重忠謀反を訴えた稲毛重成は殺害されました。人望のあった重忠を殺したことで、時政と「牧の方」は御家人たちから憎しみを受けることになり、同年閏7月に「牧氏事件」が起こり、時政と牧の方は失脚して伊豆国へ追放され、平賀朝雅は殺されました。

重忠の墓所(下の画像)は、埼玉県深谷市の「畠山重忠公史跡公園」の中にあります。

畠山重忠の墓所

2.畠山重忠の人物評・エピソード

畠山重忠の生きた時代は、源氏と平氏の権力闘争や合戦のほかにも、坂東武士団の間での「骨肉相食む争い」や領地をめぐっての「食うか食われるかの争い」があり、「誰についていったらいいんだろう」とか、「ここにいったらこいつは裏切るだろうな」とか、何世代にもわたって「疑心暗鬼」「謀略」「権謀術数」などのさまざまな思惑が渦巻いていた時代です。

どの人間も信用できないという「人間不信」に陥ったとしても不思議ではありません。

その中で重忠は、風見鶏のような情勢判断や、忖度のようなもので物事を判断せず、「潔い武士道の信念」というか「確固たるプリンシプル(principle)」をしっかり持った人物だったようです。

(1)愚管抄

愚管抄』によると、重忠はどんなに暑い時でも、傍らの者があぐらを組むことができないほど謹直な人物であったと評されています。鎌倉幕府北条氏編纂書である『吾妻鏡』に重忠に関する美談が多いのは、世の重忠の人物評が高かったために、それを滅ぼしたのは平賀朝雅と「牧の方」であり、義時はやむなくそれに従ったとする北条氏弁護の立場によるものと考えられます。

(2)後世の評価

後世、重忠は良識的、模範的な人間としての評価を確立しました。

吾妻鏡』『源平盛衰記』『義経記』では、模範的な武士として描かれ、流布本の『曽我物語』では曾我兄弟を讒言から救う恩人として登場します。

これらの書物は江戸時代に普及してよく読まれたことから重忠の人気も高まり、『曽我物語』などの影響を受けた浄瑠璃作品でも重忠は好人物として描かれています。謡曲『大仏供養』を基盤として作成された『出世景清』においては、常に頼朝に忠誠を尽くす模範的武士と紹介され、重忠を討とうと人足に化けた悪七兵衛景清を喝破する役として登場します。

『伽羅先代萩』においては、悪役の梶原景時を喝破する寛大で公正な人物として登場し、『ひらかな盛衰記』においては、敵の巴御前や樋口兼光らから知勇兼備、仕草の立派な武士と称えられる人物として描かれています。

後の時代では、梶原景時が「讒言を用いて同僚を陥れる悪徳的な人物」として描かれるのとは対照的に、重忠は「優れた武将、かつ誠実で思いやりのある人格者」として描かれています。

(3)「さかさ矢竹」伝説

重忠は戦死の直前に「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と矢箆を地に突きさしました。やがてこの矢は自然に根付き、年々2本ずつ生えて茂り続けて「さかさ矢竹」と呼ばれるようになったということです。

(4)傾城との恋愛伝説

重忠は宿場町・国分寺の傾城、夙妻太夫(あさづまたゆう)を気に入り、恋仲になりましたが、平家追討のため西国に旅立ちました。夙妻に横恋慕する男が重忠のことを諦めさせるため、重忠が討ち死にしたと嘘をついたところ、悲しんだ夙妻は、遊女街の近くの姿見の池に身投げしました。国分寺市には、この伝説から名がつけられたという「恋ヶ窪」という地名と、「姿見の池」があります。池は昭和に埋め立てられましたが、のちに再建されました。

なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。

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