辞世の句(その2)奈良時代 大伴家持・山上憶良

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大伴家持・辞世

団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。

そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽ったりもします。

昔から多くの人々が、死期が迫った時や切腹するに際して「辞世(じせい)」(辞世の句)という形で和歌や俳句などを残しました。

「辞世」とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈(げ)、和歌・狂歌、発句・俳句またはそれに類する短型詩の類のことを指すようになりました。「絶命の詞(し)」、「辞世の頌(しょう)」とも呼ばれます。

「辞世」は、自分の人生を振り返り、この世に最後に残す言葉として、様々な教訓を私たちに与えてくれるといって良いでしょう。

そこで今回はシリーズで時代順に「辞世」を取り上げ、死に直面した人の心の風景を探って行きたいと思います。

第2回は、奈良時代の「辞世」です。

1.大伴家持(おおとものやかもち)

大伴家持

新しき 年の始の 初春の 今日ふる雪の いや重(し)け吉事(よごと)

これは『万葉集』の掉尾を飾る一首で、「新しい年の初めの初春の今日降る雪のように、積もれよ、良いことが」という意味です。

「天平宝字3年(759年)の正月に因幡国の庁舎で、地方の役人らを招いて、新年の祝賀の宴会をしたときの歌」です。

これは、厳密に言えば「辞世」ではありませんが、この歌を最後に「歌わぬ人」となりました。

大伴家持(718年頃~785年)は、奈良時代の貴族・歌人で、大納言・大伴旅人(おおとものたびと)の子です。官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言家持。

『万葉集』の編纂に関わった歌人として有名大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残し、延暦年間には中納言にまで昇りました。

余談ですが、「海ゆかば」という軍歌の歌詞は、彼の歌をもとにしています。

2.山上憶良(やまのうえのおくら)

山上憶良

士(をのこ)やも 空しくあるべき 万代(よろづよ)に 語り継ぐべき 名は立てずして

『万葉集』にあるこの歌は「男として生まれた身として無為に終わって良いものか。後世長く語り継ぐに足る英名を立てることもなく」という意味です。

この歌は、山上憶良が重病になった時に藤原朝臣八束が使いを遣わして病状を尋ねさせた折に、返答し終えた憶良がしばらくして涙を拭き、悲しみ嘆きながら口ずさんだということです。そしてこの歌が憶良の辞世歌とみなされています。

『貧窮問答歌』で有名な山上憶良(やまのうえのおくら)(660年~733年頃)は奈良時代の官人・歌人で、出自については不明ですが「百済からの渡来人」という説もあります。

「百済系渡来人説」を唱えたのは、「令和」の元号考案者として有名になった万葉学者の中西進氏(1929年~ )です。憶良は、天智・天武両天皇の侍医を務めた百済人・憶仁の子で、百済の滅亡に際して父とともに日本に渡来し、近江国甲賀郡山直郷に住みつき、山上氏を称するようになったということです。

702年、42歳の時に遣唐使の随員(無位山於憶良)として唐に渡り、704年に帰国後は伯耆守・東宮侍講を経て筑前守となり、大宰府で太宰帥(だざいのそち)の大伴旅人(おおとものたびと)(665年~731年)らと交わり「筑前歌壇」を形成しています。

遣唐使の随員に選ばれたのは、漢文学の学識を認められたからだと思われますが、官位もなく、下級役人でした。

しかし、唐で最新の学問を修めて帰国した彼は、伯耆守に任じられ、さらには皇太子(後の聖武天皇)に学問を教える東宮侍講に抜擢されています。

聖武に仕えた彼は出世のパスポートを手に入れたように見えます。しかし、何かの失敗をしたのか、天皇や藤原氏から嫌われたのか不明ですが、聖武天皇が即位直後の726年頃に筑前守として九州に左遷され、中央政界から遠ざかります。

一般的に官人は地方で蓄財して都に戻るものですが、彼は後に都に戻っても貧困のままだったようです。彼の清廉で真面目なところが藤原氏に嫌われたのかもしれません。

余談ですが、菅原道真は学者一族出身ですが、出世意欲・上昇志向が強く、藤原氏と競って右大臣にまで上り詰めますが、藤原氏の讒言によって太宰府に左遷されました。

憶良は道真ほど出世することもなく、大宰府に左遷され、都に戻った翌年に不遇のうちに亡くなったようです。

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