<四代目市川小團次の鼠小僧 安政4年正月(1857年2月)、江戸市村座初演の『鼠小紋東君新形』より>(2代目歌川豊国画)
「鼠小僧」と言えば、私のような団塊世代以上の年配者には「石川五右衛門」や「日本左衛門」と並んで時代劇でもおなじみの盗賊で、「義賊」としても有名ですが、若い方はどうなのでしょうか?
鼠小僧も石川五右衛門も日本左衛門も、架空の人物ではなく、実在の盗賊です。しかし芝居による脚色もあって、虚像と実像が綯(な)い交(ま)ぜになっています。
そこで今回は鼠小僧の虚像と実像について、わかりやすくご紹介したいと思います。
1.『甲子夜話』に描かれた鼠小僧の話
肥前国平戸藩主の松浦静山(まつら せいざん)の随筆『甲子夜話(かっしやわ)』に、鼠小僧の逮捕から処刑までの見聞録が記されています。
(1)『甲子夜話』の鼠小僧にかんする記述
①「正編巻43の10」――鼠小僧(盗の名)
ここに、鼠小僧が初登場します。盗っ人現役時代の噂話です。短いので、その全文をご紹介します。
或人言ふ。頃ろ(このごろ)都下に盗ありて、貴族の第より始め、国主の邸にも処々入たりと云ふ。然ども人に疵(きず)つくること無く、一切器物の類を取らず。唯金銀をのみ取去ると。去れども、何れより入ると云こと曾(かつ)て知る者なし。因(よつ)て人、鼠小僧と呼ぶと。
テレビの連続時代劇の冒頭ナレーションに使用できる感じですね。
②「続編巻78の5」――鼠小僧之一件
鼠小僧が捕縛され、奉行所の取り調べ中の調書の写しがあります。取り調べ調書の外部持ち出しは禁止ですが、世間の大きな関心事なので、複数の人が内密に書き写し持ち出したようです。内密作業のため、数字等に違いが多く発生しました。
「続編巻78の5」は、長文なので、要点のみご紹介します。
鼠と謂(い)ふゆゑは、この男小穴人の通ふべからざる処に出入し、屏壁を上り、架梁を走る等、鼠の如きを以てなり。小僧とは総じて盗を啁(ちょう)するの称なり。※「啁する」は、「あざける、ばかにする」という意味。
盗んだ金の一覧がズラリと記されています。前述したように、随所に数字の差があります。それを松浦静山は几帳面に書いています。
一、金八両(九両)真田伊豆守
※(九両)は、八両の横に朱書きされているもので、外部へ持ち出す際に、書き写し間違いによるものか?どちらが正しいかは、公式の自白調書『鼠賊白状記』を見ないとわからない。
一、金五両(三両弐歩)土井大炊頭
一、金百三拾両(百二拾両)上杉弾正大弼
一、金四拾両 松平伊賀守
以下、ズラリと記されているので、記載省略。
次に捕縛時のドタバタ劇。次郎吉の過去、大名屋敷の「奥」での鼠小僧関連ドタバタ劇。
次いで、また、盗んだ金の一覧。
③「続編巻81の1」――鼠小僧異聞
これは、3話のみで、すべて鼠小僧です。「続編巻81の1」は、9つの鼠小僧異聞が記されています。
そのひとつを、現代文にして紹介しておきます。
ある大名の「奥」に忍び込み、縁の下に3日隠れていた。このとき、お殿様が愛妾と酒宴をしていた様子、正妻の名、後宮の微事を密かに覗きみて覚えていたことを、奉行所にて、その大名の留守居役の前にて明細に白状し、あわてた留守居役が赤面した、という。
④「続編巻81の2」――同引廻之話 獄門首の容躰
8月19日、能を見に行く途中、駕籠かきが「引き回しが来る。どうしましょうか」と問う。予は「少しも苦しからず。こんなことでもないかぎり、引き回しを見ることができない。このまま行け」と命じた。日本橋まで来たが、引き回しが来ない。見物人は大勢いるのに、まだ来ない。予は駕籠かきに「罪人は如何なる者か」を見物人に尋ねさせた。見物人は「鼠小僧です」と言う。予は手を拍って喜んだ。今、鼠小僧の原稿を書いている最中だ。千載一遇だ。待って見るぞ。しかし、待てど暮らせど、ついに逢えなかった。
帰宅後、千住で刑されたと聞く。獄門の様子を見にやらせた。
獄門首の容躰
一、平顔にて円き方肥肉の方
一、色白の方
一、うすあばた有り
一、髪うすく月代のびゐたれど目だたず
一、眉常人より薄き方
一、目は小さく見へし
一体見たる所、悪党の顔色柳も無く、いかにも柔和に人物好く、職人体に見へし
そして、千住の獄門の見物人の噂話が、いくつか記されています。さらに、後日知った噂話が記されています。あえて言えば、好意的な噂話ばかりです。
⑤「続編巻81の3」――鼠刑せられし即日、奉行所より留守居呼有て、渡されし書付。
これは、要するに判決文です。
なお、「正編巻43」は平凡社東洋文庫『甲子夜話3』に、「続編巻78」「続編巻81」は平凡社東洋文庫『甲子夜話続編7』に、収められています。
(2)盗っ人になるまで
鼠小僧次郎吉は、捕縛され、北町奉行所で取り調べを受けました。その自白調書『鼠賊白状記』(そぞく・はくじょうき)に生涯が詳しく記録されています。
現役の盗っ人の頃から、「噂の人気者」だったので、世間は「鼠小僧はどこの誰だろう?」「どこの大名屋敷から、どれだけ盗んだのだろうか?」と大きな関心事でした。捕縛後の取り調べ情報が、奉行所の役人から内緒で漏れ伝わって、そのたびに世間は「へぇー」「ホォー」と唸りました。現代ならば、テレビのワイドショーは、連日、鼠小僧特集だったでしょう。
1797年(寛政9年)に生まれる。父親は、新和泉町(現在の日本橋人形町)に住まいし、職業は「歌舞伎芝居出方」であった。新和泉町の隣町に歌舞伎の中村座があり、その雑用・トラブル処理など何でもこなす便利屋であった。
当時の中村座の座長は12代目中村勘三郎でした。
まったくの余談ですが、18代目中村勘三郎(1955年~2012年)の長男が6代目中村勘九郎です。平成・令和の時代にあっても、歌舞伎界の血統重視、家柄重視に違和感を覚えます。
所詮は「カブク=変わり者」「封建的伝統と密着した演劇」ですが、歌舞伎界の家柄は、以下のようになっています。
最上位――市川團十郎家(成田家)
名門―――尾上菊五郎家(音羽家)、松本幸四郎家(高麗屋)、中村勘三郎(中村屋)、坂東三津五郎家(大和家)、中村歌右衛門家(成駒屋)、片岡仁左衛門(松嶋屋)
歌舞伎界の家柄と役者の実力は、イコールではあり得ません。やはり家柄に関係なく実力本位の世界に脱皮してほしいと思ってしまいます。
要するに、次郎吉は、江戸の歓楽街のド真ん中で生まれ育ったのです。
10歳のとき、木具(きぐ)職人の弟子に出された。数年の修行をして、木具職人として独立した。商家や武家屋敷に出入りし、木具の修繕をした。自然と商家・武家屋敷の内部を見知ることになった。そうこうするうちに、遊びや博打が好きになり、盗みの道へ一直線。
(3)大名屋敷の「奥」専門
次郎吉の盗みは、1823年(文政6年)2月、26歳頃から始まった。
1825年(文政8年)2月に逮捕されたが、ウソが通用して、賭博罪で犯罪印の入れ墨、江戸追放となった。しかし、江戸へ舞い戻り、犯罪印の入れ墨の上に、雲竜の入れ墨をして、犯罪印を消した。そして、1825年(文政8年)7月、盗っ人再開。
1832年(天保3年)5月に現行犯逮捕され、3ヵ月間の取り調べ後、8月に市中引き回し獄門となった。
次郎吉は大名屋敷の「奥」専門の盗っ人でした。
貧乏人の長屋、用心の薄い商家に盗みに入っても、盗む金がありません。金がいっぱいある商家は警戒厳重です。その点、武家屋敷は塀を乗り越えれば、内部はガランと広大です。とりわけ「奥」は、女性しかいません。
江戸時代では,大名・旗本など大身の武家の屋敷は,当主を中心として家政処理や対外的応接などを処理する「表」と、当主の妻を中心に子女たち家族が生活する「奥」とが明確に区別されていました。
もし、「奥」で見つかっても、女性しかいないので、たやすく逃げられます。しかも、大身の武家は、盗難にあっても、対面を重んじて奉行所へ被害届を出しません。現代でも、金融機関などは、内部の不祥事は信用失墜を心配して内々で処理しているようです。そんな理由で、次郎吉は、大名屋敷の「奥」専門の盗っ人となりました。
(4)現金主義
「奥」には、高価なかんざし・櫛・鏡・衣装などがたくさんあるのですが、次郎吉はそれらには一切目もくれず、現金だけを盗みました。物品は、質屋・古道具屋などで現金化しなければならず、頻繁に物品を持ち込めば、当然、「盗っ人らしい」と疑われます。もちろん、盗品売買専門の故買屋もありますが、故買屋は、盗っ人の弱みにつけこんで、二束三文で買うのが常識です。故買屋としても、江戸で盗んだ物品を江戸市中で販売したら、すぐバレるから、遠い地方へ転売します。必然的に故買屋のシンジケートが形成されます。村外れの一軒家が、数年で資産家になった場合、それは故買屋シンジケートになったからと推測されます。
それでは、鼠小僧は、どれだけ現金を盗んだのでしょうか?
次郎吉は、1823年(文政6年)27歳~1832年(天保3年)36歳の9年間に、122回の犯行で、3121両を盗みました。これは、あくまでも取り調べ結果で、本当は、もっと多いと思われます。奉行所の役人にしても、途中から記憶があやふやな事件は面倒になって省略した可能性があります。調書に記載するには大名屋敷へ連絡したり、大名屋敷のしかるべき人物の説明を受けたりで、大変なのです。どうせ、判決は、市中引き回し獄門に決まっています。
年平均は[3121両÷9年≒347両]となります。当時の中流庶民の年収を30両と想定すると、その10倍です。
その金は、何に使っていたのでしょうか?
(5)博打、遊郭、義賊
明確な証拠がないので、断言できることは、「博打にも少しは使っただろう」「遊郭・女遊びにも少しは使っただろう」「義賊的なことにも少しは使っただろう」ということぐらいです。
周辺から見れば、働いていないのに金回りがいい。盗っ人と怪しまれないためには、マネーロンダリング(資金洗浄)しなければなりません。それには、博打です。博打にのめり込めばすかんぴんになるから、博打場へ時々出かけ少しだけ賭ける。勝てばいいし、負けても、世間には「博打で大勝ちした」とアリバイ工作になります。賭場の主催者は、口が堅いのです。
横道に外れますが、世界的にカジノで繁栄する秘訣は、そこのカジノでマネーロンダリング(資金洗浄)が確実にできるかどうかです。その機能がないカジノは青息吐息となります。
賭博の主催者は口が堅いですが、吉原などの遊郭は奉行所の事情聴取に正直に応じる義務があります。次郎吉は、「獄門首の容躰」で書いたように、ブサイクな容姿ではありませんでした。それに金回りもいいので、モテたに違いありません。
遊郭で連日散財豪遊していれば、すぐ目をつけられます。ですから、たまには吉原などで遊んでいても、目立つほどの豪遊はしません。女性に関しては、愛人・妾が4人いたと記録されています。逮捕以前に、離縁状が渡されていたので、連座しませんでした。大名屋敷には迷惑をかけましたが、それ以外、誰一人として傷つけなかった、誰一人迷惑かけなかった、ということが、鼠小僧人気のひとつの要因となっています。
ところで、義賊っぽいことを何かしたのでしょうか?
「続編巻81の1」の鼠小僧異聞のひとつに、次の話があります。
4人の愛人・妾のひとりが、盗っ人であることを悟り、しばしば意見をした。しかし、次郎吉は聞かなかった。それで、婦は暇を乞い家を去る。その後、この婦は独居して男を入れなかった。次郎吉は何を思ったか、婦の住む長屋の大家、長屋のみんなに、1年に1回以上は必ず、音物(いんもつ、贈り物)を携えて、かの独婦を心配していると挨拶していった。みな、何者だろうと不審がった。後日、大家、長屋のみんなは、あれが鼠小僧とわかった。仁か智か。
「続編巻81の2」の追記の要約。
盗っ人家業を始めた頃、ある商店から70両を盗んだ。数日後、その商店の前を通ったら店が閉まっていた。通行人に尋ねたら、数日前に70両を盗まれて、どうにもならず、店を畳むことになった。次郎吉は「さても町人の身上は朝露の如し。それを取るは情けなし」と嘆息し、その夜また忍び入り、70両を元の所に置いていった。
そして、次郎吉は思った。大名の身上は町家とは違う、これよりは、町家からは盗まず、大名家のみから盗む。
(この話に対して、松浦静山の反応は次の文章)人徳慈悲を知って敬忠を知らざる者なり。ほとんど禽獣と同じ。憐れむべし。
鼠小僧次郎吉が、貧乏人に金を施したかどうかは不明ですが、どうやら「心優しき盗っ人」だったようです。
(6)仁盗の時代
時代の雰囲気の変化というものがある。葵小僧(?~1791年)と鼠小僧(1797年~1832年)を比較してみる。葵小僧の盗賊のやり方は、残虐・強引で女性がいれば必ずレイプする、逆らえば殺すというものでした。
鼠小僧は、人を傷つけず、迷惑がかからない大名屋敷から盗みました。どうやら、この30年間の間に時代の雰囲気が大きく変化したのかも知れません。
極度に血を流すのを嫌うようになりました。武士の切腹さえも、ほとんどなくなりました。その理由はともかくとして、盗賊の世界も、格好いい盗賊とは「残虐・強引な盗賊」から「心優しき盗賊」に変化したようです。
そのターニングポイントの盗っ人は、「大阪の仁盗」かも知れません。『甲子夜話』の「正編巻18の13」に「大阪仁盗の事」があります。その全文は、次のとおりです。
大阪に巨盗あり。その盗常とは違(ちがひ)たるは、物を取れば必ず人に与ふ。始めは人しらず、唯恵施すると思しが、後は人稍(やや)これを知れども、己も利あることゆゑ其(その)ままにして年を経しに、次第に此道を以て家富(とめ)り。然(しか)どもついには露顕して召捕(めしとら)れたりしに、赦免を請出し者ことに多かりしとなり。世をこれを称して仁盗と云しと。
この盗っ人の家業は質屋で、奉公人も多くいました。貧しい人には質草も取らず無利子で貸していました。逮捕される直前には、債権債務の証文類をすべて焼き捨て、逮捕後に貧乏人が借金の取り立てにあわないようにしました。そんな人物だから多くの人から助命嘆願がなされましたが、処刑されました。多くの人々が供養に訪れました。1803年(享和3年)のことです。この実話は、さっそく江戸市村座で歌舞伎「花雲曙曾我」というお芝居になりました。
『甲子夜話』の「正編巻22の20」に、もうひとりの「仁盗」が登場します。この盗っ人は、盗んだ家に後日、次のような手紙を投げ入れるのです。
私は金持ちから借りて貧民を救うことを多年にわたって行っています。返済は必ずいたしています。そのお陰で50歳になりますが、逮捕されることもなく暮らしています。貴殿のお家からお金を借りたのは私ですから、どうか他の人に疑いを持って行かないでください。倉田吉右衛門
盗んだのではない、無断でお借りした。借りたお金で貧民を救済しています。必ず返します……というわけです。心優しき盗っ人ですね。
どうも、1803年(享和3年)の「大阪の仁盗」以後、続々と「仁盗」または「仁盗らしき盗っ人」が出現したようです。鼠小僧次郎吉も、そんな盗っ人だったと推測されます。
そして、歌舞伎の世界は、仁盗=白波ブームとなります。白波五人男の日本駄右衛門の「盗みはすれども非道はせず」へと昇華していきました。
2.鼠小僧とは
鼠小僧(ねずみこぞう)こと次郎吉(じろきち)( 1797年~1832年〉は、江戸時代後期(化政期)の盗賊で、一般には鼠小僧次郎吉として知られています。
大名屋敷のみを狙って盗みに入り、人を疵つけることもなかったことから、後世に義賊として伝説化されました。
本業は鳶職であったといわれています。
3.鼠小僧の生涯
以下は「鼠賊白状記」と呼ばれる鼠小僧自身の自白調書によります。
(1)生い立ち・盗賊稼業・一度目の捕縛
寛政9年(1797年)に、歌舞伎小屋・中村座の便利屋稼業を勤める貞次郎(定吉・定七とも)の息子として元吉原(現在の日本橋人形町)に生まれました。
10歳前後で木具職人の家へ奉公に上がり、16歳で親元へ帰りました。その後は鳶人足となりましたが、不行跡のため父親から25歳の時に勘当されます。
その後は賭博で身を持ち崩し、その資金稼ぎのために盗人稼業に手を染めるようになったと伝わります。
文政6年(1823年)以降、武家屋敷の奥向に忍び込むこと28箇所・32回に及びましたが、文政8年(1825年)に土浦藩上屋敷(現:日本橋蛎殻町二丁目。当時の藩主は奏者番の土屋彦直)に忍び込んだところを捕縛されました。
南町奉行所の尋問を受けましたが、「初めて盗みに入った」と嘘をついて切り抜け、入墨の上で追放の刑を受けました。
(2)なおも続く盗賊稼業・二度目の捕縛・処刑
一時は上方へ姿を消したものの、江戸に密かに舞い戻り、父親の住んでいる長屋に身を寄せます。しかし、賭博の資金欲しさにまたもや盗人稼業を始めました。
その後7年にもわたって武家屋敷71箇所・90回にわたって忍び込み、ついに天保3年5月5日(1832年6月3日)(日付については8日(6日)などの諸説あり)、日本橋浜町の上野国小幡藩屋敷(当時の藩主は松平忠恵)で捕縛されました。
五尺に満たぬ小男で、動作敏捷といい、捕まったときは碌な家財道具もなく金もありませんでした。
北町奉行・榊原忠之の尋問に対し、十年間に荒らした屋敷95箇所・839回、盗んだ金三千両余り、と鼠小僧は供述しました。
これは前述の数字と一致しません(839回というのは嘘八百かも?)が、本人が記憶していない部分もあり、諸書によっても違うので正確な金額は未だに不明です。
3ヵ月後の8月19日(9月13日)に市中引き回しの上での獄門の判決が下されました。
引き回しの際には牢屋敷のある伝馬町から日本橋、京橋のあたりまで、既に有名人であった鼠小僧を一目見ようと野次馬が大挙して押し寄せたということです。
市中引き回しは当時一種の見世物となっており、みすぼらしい外見だと見物人の反感を買いかねなかった為、特に有名な罪人であった鼠小僧には美しい着物を身に付けさせ、薄化粧をして口紅まで注していたということです。
処刑は小塚原刑場で行われました。
(3)その後
<鼠小僧墓(両国回向院)>
当時の重罪には連座制が適用されていましたが、鼠小僧は勘当されていたために肉親とは縁が切れており、数人いたという妻や妾にも捕縛直前に離縁状を渡していたため、天涯孤独の身として刑を受けました。
この自らの行いに対し他人を巻き込まずに済ませたという点も、鼠小僧が義賊扱いされる要因の一つとなっています。
墓は両国の回向院にあります。参拝客は長年捕まらなかった幸運にあやかろうと、墓のお前立ちを削って持ち帰り、お守りにしています。
また愛知県蒲郡市の委空寺にも母親の手によるとされる墓を移設したものがあります。その他、南千住の小塚原回向院、愛媛県松山市、岐阜県各務原市等にも鼠小僧に恩義を受けた人々が建てた等と伝えられる墓があります。
4.義賊伝説をめぐる虚像と実像
鼠小僧について「金に困った貧しい者に、汚職大名や悪徳商家から盗んだ金銭を分け与えた」という義賊伝説があります。
事実、次郎吉が捕縛された後に役人による家宅捜索が行われましたが、盗まれた金銭はほとんど発見されませんでした。
しかし鼠小僧の記録を見ると盗んだ金銭を分け与えた事実はどこにも記されておらず、新聞記者経験もある作家の矢田挿雲は「(盗んだ金の大半は)衣食住の贅沢に費ひ其他は酒色遊興又は博奕の資本に使ひ際立って貧民に施した形跡は無い」と義賊伝説を否定しています。
また鼠小僧は武士階級が絶対であった江戸時代に於いて、大名屋敷を専門に徒党を組むことなく一人で盗みに入ったことから、歌舞伎や時代劇などでは江戸時代における反権力の具現者のように描かれています。
しかし、次郎吉が大名屋敷に限って盗みに入った理由については自身で説明しており、武家屋敷は外見が厳重なばかりで、屋敷内は警備が手薄で出入りが容易あったこと、屋敷内の奥向、長局は役人たちも遠慮して入らないため、万一見とがめられても逃げるのに都合がいいことなどを挙げています。
これを受け江戸学の祖として知られる三田村鳶魚は「便宜上武家屋敷を選定したのであって、決して被害者の境遇に対する思慮を有する訳ではなかったのが知れる。武家屋敷と云った処が男禁制の奥向ばかりを目掛けて這入ったのを見れば恐れず怯まぬ胆胸があったのではない」と人物像そのものにも疑問を呈しています。
一方で鼠小僧が義賊として民衆にイメージされたこのこと自体はひとつの歴史的事実であり、ハンガリーの国民的義賊ロージャ・シャーンドルに詳しい歴史学者の南塚信吾は『義賊伝説』などで鼠小僧について取り上げ、鼠小僧が主として大名屋敷から盗んだことについては「その理由がなんであれ、単純ではあるが意外に重要なことであろう。民衆の大名に対する潜在的不満が癒され、民衆の正義感につながる側面があったはずだからである」と述べています。
なお、鼠小僧より50年ほど前に処刑された稲葉小僧(*)と混同されて伝説化、英雄視されるようになった面もあるようです。
(*)江戸時代・天明(てんめい)(1781~89)の初めごろ、巷間に稲葉小僧とあだ名された盗賊。一説に親は稲葉丹後守(たんごのかみ)の家臣であり、本人は幼少からの盗癖のため勘当されたということですが、実のところ本名は不明です。
大名屋敷を専門に荒らし、刀、脇差などを盗み、天明5年(1785)には21歳であったと伝わります。この年に36歳で引廻(ひきまわ)しのうえ獄門となった夜盗田舎(いなか)小僧新助と混同され、また「稲葉小僧新助」という1人の泥棒として語られることが多いようです。
稲葉小僧が捕縛されて町奉行所へ赴く途中、縄抜けして不忍の池に飛び込み、姿を消した話は有名で、お染久松の世話狂言に取り入れられもしました。
上州(群馬県)まで逃げ延びたものの、潜伏中に病死したといわれます。
5.鼠小僧を扱った作品
実録本『鼠小僧実記』をはじめ、白浪物を得意として、「泥棒伯円」の異名を取った2代松林伯円が『緑林五漢録―鼠小僧』として脚色したものが名高く、これをもとに河竹黙阿弥が「鼠小紋東君新形」に歌舞伎として仕組み、同時に同名の合巻(柳水亭種清編、2代歌川国貞画)も出版されています。
(1)歌舞伎
・『鼠小紋東君新形(ねずみこもん はるの しんがた)』(通称『鼠小僧』) 二代目河竹新七(黙阿弥)作、安政4年(1857年)初演
・『治郎吉懺悔』 鈴木泉三郎作、大正12年(1923年)初演
・『怪盗鼠小僧』 菊田一夫作、昭和37年(1962年)初演
・『野田版鼠小僧』 野田秀樹作、平成15年(2003年)初演
(2)落語
・『蜆売り』(しじみ うり)
(3)小説
・『鼠小僧唄祭』 長谷川伸 著
・『鼠小僧次郎吉』 芥川龍之介 著
・『鼠小僧次郎吉』 大佛次郎 著
・『鼠小僧次郎吉』 吉行淳之介 著
・『鼠小僧別伝』 江見水蔭 著
・『鼠小僧別伝』 直木三十五 著
・『鼠小僧外伝』 菊池寛 著
・『次郎吉格子』吉川英治著
・『鼠シリーズ』 赤川次郎著
(4)映画
・『鼠小僧次郎吉』(2部作) 昭和7年(1932年)、松竹、監督:衣笠貞之助・秋山耕作、主演:林長二郎
・『鼠小僧次郎吉』(3部作) 昭和8年(1933年)、日活、監督:山中貞雄、主演:大河内伝次郎
・『鼠小僧次郎吉』 昭和40年(1965年)、大映、監督:三隅研次、主演:林与一
・『ねずみ小僧怪盗伝』 昭和59年(1984年)、松竹、監督:野村芳太郎、主演:中村雅俊
(5)テレビドラマ
・『怪盗ねずみ小僧』 昭和40年(1965年)-昭和41年(1966年)、TBS、鼠小僧:三木のり平
・『鼠小僧次郎吉 必殺の白刃』 昭和58年(1983年)、フジテレビ、鼠小僧:林与一
・『鼠、江戸を疾る』平成26年(2014年)、NHK、鼠小僧:滝沢秀明