辞世の句(その3)平安時代 在原業平・菅原道真・安倍晴明の母

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在原業平・辞世

団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。

そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽ったりもします。

昔から多くの人々が、死期が迫った時や切腹するに際して「辞世(じせい)」(辞世の句)という形で和歌や俳句などを残しました。

「辞世」とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈(げ)、和歌・狂歌、発句・俳句またはそれに類する短型詩の類のことを指すようになりました。「絶命の詞(し)」、「辞世の頌(しょう)」とも呼ばれます。

「辞世」は、自分の人生を振り返り、この世に最後に残す言葉として、様々な教訓を私たちに与えてくれるといって良いでしょう。

そこで今回はシリーズで時代順に「辞世」を取り上げ、死に直面した人の心の風景を探って行きたいと思います。

第3回は、平安時代の「辞世」です。

1.在原業平(ありわらのなりひら)

在原業平

つひにゆく 道とはかねて聞きしかど 昨日今日(きのふけふ)とは 思はざりしを

『古今和歌集』にあるこの歌は「死出の道は誰しも最後に通る道とは前々から聞いていたが、まさかそれが自分の身に、間近に差し迫っているものだとは思いもしなかった」という意味です。

「病して弱くなりにける時よめる」という詞書(ことばがき)があります。

この歌は、平安時代の歌とは思えないほど、現代の我々にもすんなり納得できるものです。

在原業平(825年~880年)は、平安前期の歌人です。平城(へいぜい)天皇皇子阿保(あぼ)親王の五男で、母は桓武(かんむ)天皇皇女伊登(伊都)(いと)内親王です。

在原氏の五男の意で「在五(ざいご)中将」、「在中将」とも呼ばれます。六歌仙・三十六歌仙の一人で、『伊勢物語』(全百二十五段)の主人公のモデルとされています。

2.菅原道真(すがわらのみちざね)

菅原道真

東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅花(むめのはな) 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ

『拾遺和歌集』にあるこの歌は「春風が吹いたら、匂いを(京から太宰府まで)送っておくれ、梅の花よ。主人(菅原道真)がいないからといって、春を忘れてはならないぞ」という意味です。

「流され侍(はべり)ける時、家の梅の花を見侍て」という詞書があります。

菅原道真(845年~903年)は、平安時代の公卿・漢学者・文人で、菅原家は代々学者一家です。平安前期の学者である菅原是善(812年~880年)の三男で、母(?~872年)は伴氏です。従二位・右大臣にまで上り詰めますが最後は太宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され大宰府の地で亡くなりました。

彼は幼少の頃から詩歌の才能を見せ、11歳の時には漢詩を詠んでいます。862年に「文章生(もんじょうしょう)」となり、877年には抜きん出た学識が認められて32歳の若さで「文章博士(もんじょうはかせ)」に昇進しています。

「文章生」とは、律令制で、大学寮で詩文・歴史を学ぶ学生のことですが、平安時代になると「擬文章生を経て、式部省の文章生試に合格した者」を指すようになります。このうち2名が「文章得業生」となり、「秀才」「文章博士」となりました。

「文章博士」の定員は2名で、天皇・皇太子の侍講も兼ねました。9世紀末には菅原氏と大江氏の独占状態になっていました。

「文章博士」となって以降、彼は宇多天皇(867年~931年、在位:887年~897年)の信任を得て、藤原氏の勢力を抑えるために重用され、宇多天皇の「寛平の治(かんぴょうのち)」を支えます。

彼はまた母の期待と圧力もあって、菅原家を代表して藤原氏と対抗する運命を背負わされることになります。彼の母の歌につぎのようなものがあります。

「久方の 月の桂も 折るばかり 家の風をも 吹かせてしがな」

意味は、「(こうして元服した上は)月に生えているという桂の木も折るばかりに、大いに才名を上げて学問の家としての我が一族の名を高めてほしい」ということで、母と菅原一族の彼への期待がいかに大きかったかを率直に表しています。

彼は藤原道長のように、天皇家の外戚になって権力を握ろうとする政治的野心があったとは思えませんが、宇多天皇の信頼を得てその治世を補佐しようとする意欲はあったようです。

学者一家からのし上がった彼は、いわば「成り上がり者」として関白家の藤原氏や他の上流貴族たちから嫉妬や反感を受けることになり、結果的に大宰府に左遷され配流の地で亡くなります。もし彼が右大臣になることを辞退して、宇多上皇の「茶飲み友達」のような地位に甘んじていれば、このような悲劇的な人生を送ることはなかったでしょうが、「天神様」にもなれなかったでしょう。

3.安倍晴明(あべのせいめい)の母

葛の葉信太妻

恋しくば 尋ね来て見よ 和泉(いづみ)なる 信太(しのだ)の森の うらみ葛の葉

伝説的な陰陽師安倍晴明(921年~1005年)の出生をめぐる物語『信太妻(しのだづま)』(『葛の葉物語』とも言う)に出てくる歌です。

『信太妻』の「葛の葉子別れの段」は特に有名で、今日まで多くの人々に愛好されてきました。

昔、村上天皇(10世紀)のとき、摂津の国に安倍保名(あべのやすな)という人が住んでいました。ある日、信太大明神に参詣し、禊(みそぎ)をしようと池のほとりに立っていると、狩人に追われ傷ついた狐が逃げてきました。保名は、狐をかくまい逃がしてやりました。追ってきた狩人たちは、保名をさんざん責め、深い傷を負わせてしまいました。傷で苦しんでいる保名のもとへ、若い女がたずねて来ました。女の名は、「葛の葉」といい、甲斐甲斐しく保名の傷の手当をしました。

やがて、保名の傷も治り、2人がともに暮らすうち、かわいい童子も誕生し幸せな日々が過ぎていきました。6年目のある秋の日、「葛の葉」は、庭に咲く美しい菊に心をうばわれ、自分が狐であることをつい忘れ、うっかり正体の尻尾を出していました。童子にその正体を見つけられた「葛の葉」は、ともに暮らすのもこれまでと、

恋しくば 尋ね来きて見よ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉

の一首を残して信太の森へと去って行きました。保名と童子は母を求めて信太の森を探し歩きました。森の奥深くまで来た時、保名がふと振り向くと、1匹の狐が涙を流してじっと2人を見つめていました。はっと気がついた保名は、「その姿では子どもが怖がる、もとの葛の葉になっておくれ。」保名の声に、狐は傍らの池に自分の姿を映したかと思うとたちまち「葛の葉」の姿となりました。

「わたしは、この森に住む白狐です、危ない命を助けられた優しさに惹かれ、今まで、お仕えさせていただきました。ひとたび狐に戻った以上、もはや、人間の世界には戻れません。」と、とりすがる童子を諭しながら、形見に白い玉を与え、最後の別れを惜しみつつ、再び狐の姿となって森の奥へと消えていきました。この童子こそ、やがて成人して陰陽道の始祖・天文博士に任じられた安倍晴明だと語られています。

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