辞世の句(その9)戦国時代 豊臣秀吉・細川ガラシャ・明智光秀・上杉謙信・快川紹喜

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豊臣秀吉・辞世

団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。

そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽ったりもします。

昔から多くの人々が、死期が迫った時や切腹するに際して「辞世(じせい)」(辞世の句)という形で和歌や俳句などを残しました。

「辞世」とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈(げ)、和歌・狂歌、発句・俳句またはそれに類する短型詩の類のことを指すようになりました。「絶命の詞(し)」、「辞世の頌(しょう)」とも呼ばれます。

「辞世」は、自分の人生を振り返り、この世に最後に残す言葉として、様々な教訓を私たちに与えてくれるといって良いでしょう。

そこで今回はシリーズで時代順に「辞世」を取り上げ、死に直面した人の心の風景を探って行きたいと思います。

第9回は、戦国時代の「辞世」です。

1.豊臣秀吉(とよとみひでよし)

豊臣秀吉

露と落ち 露と消へにし わが身かな なにはのことも 夢のまた夢

これは「露のようにこの世に生まれ、また露のように儚く消え去っていく我が身だ。浪速で過ごした栄華の日々もまた、まるで露のように夢のまた夢になってしまった」という意味です。

「なには」は「浪速」で「大阪城」(当時は「大城」)のことです。

豊臣秀吉(1537年~1598年)は戦国時代から安土桃山時代の日本の武将・戦国大名で、天下人、(初代)武家関白、太閤、三英傑(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)の一人です。織田信長の後を継いで天下を統一し、近世封建社会の基礎を築きました。

なお「豊臣秀吉の人たらしの極意がよくわかる長短槍試合という講談」という記事で、豊臣秀吉の人柄がよくわかるエピソードを紹介していますので、ぜひご覧ください。

2.細川ガラシャ(ほそかわがらしゃ)

細川ガラシャ

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

これは「花は散る季節を知っているからこそ、花として美しい。 私もそうありたい」という意味です。

細川ガラシャ(1563年~1600年)は、明智光秀の三女で細川忠興の正室です。法名は秀林院(しゅうりんいん)。キリスト教徒です。「ガラシャ」は洗礼名で、本名は「玉(たま)」です。

織田信長のとりなしによって、細川藤孝(ふじたか)(幽斎(ゆうさい))の嫡男与一郎(よいちろう)忠興に嫁ぎました。

丹後(たんご)(京都府)の宮津で過ごす間、聡明(そうめい)な玉は禅宗について学ぶところがありましたが、「本能寺の変」(1582年)が起こり、反逆人の娘として丹後の味土野(みとの)に幽閉されました。

やがて大坂の細川邸に戻ることを許されましたが、そこで夫の忠興からキリシタン宗門について間接的に教わるところがあり、心を惹かれます。ついで1587年(天正15年)、忠興が九州征伐に従軍のため不在の間に大坂の教会を訪れ、また侍女を通じて教理を学び続け、ガラシャの洗礼名で侍女から受洗しました。

その後、邸内でキリシタンの信仰を深めましたが、1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」において夫・忠興は徳川方についたため、ガラシャは豊臣(とよとみ)方から人質として大坂入城を強要され、大坂玉造(たまつくり)の細川邸において石田三成勢に囲まれる間、家臣の手で自らの命を絶ちました。

家臣たちがガラシャに全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出しました。その後、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃しました。

3.明智光秀(あけちみつひで)

明智光秀明智光秀・辞世

順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元
(順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば一元に帰す)

これは「順序正しい道もそれに逆らった道も、同じ一本道に変わりはない。つまり逆臣とて、武家という一本道に変わりなく、武家が従う大道は天皇でしかありえない。55年の夢のような時が覚めれば、私も一元に帰すのみ」という意味です。

明智光秀一族の菩提寺である西教寺(さいきょうじ)の明智光秀公辞世句の解説には「修行の道には順縁と逆縁の二つがある。しかしこれは二つに非ず、実は一つの門である。即ち、順境も逆境も実は一つで、窮極のところ、人間の心の源に達する大道である。而してわが五十五年の人生の夢も醒めてみれば、全て一元に帰するものだ」とあります。

また小説家の吉川英治氏の解釈では「たとえ信長は討つとも、順逆に問われるいわれはない。彼も我もひとしき武門。武門の上に仰ぎかしこむはただ一方のほかあろうや。その大道は我が心源にあること。知るものはやがて知ろう。とはいえ五十五年の夢、醒むれば我も世俗の毀誉褒貶に洩れるものではなかった。しかしその毀誉褒貶をなす者もまた一元に帰せざるを得まい」ということです。

心しらぬ 人は何とも 言はばいへ  身をも惜まじ 名をも惜まじ

これは「私の心は誰にもわからない。なんと言われても構わない。命も名誉も惜しくはない」という意味です。

明智光秀(?~1582年)は、安土桃山時代の武将で、主君である織田信長を討った「本能寺の変」で知られています。その後、山崎の戦いにおいて羽柴秀吉に破れ、天下を手中にしてからわずか13日後の1582年7月2日に亡くなりました。

なお明智光秀については「麒麟がくる(来年の大河ドラマ)の主人公は明智光秀!謎の人物像に迫ります」という記事に詳しく書きましたので、ぜひご覧ください。

4.上杉謙信(うえすぎけんしん)

上杉謙信

四十九年 一睡夢  一期栄華 一盃酒

これは「四十九年のわが生涯は、振り返ってみれば一睡の夢のようなもので、この世の栄華は一盃の美味しい酒に等しい」という意味です。

なお「嗚呼柳緑(而)花紅」と続く資料もあります。

極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし

これは「私が死んだあと極楽に行くのか地獄に行くのかはわからないが、今の私の心は雲のかかってない月のように一片の曇りもなく晴れやかである」という意味です。

上杉謙信(1530年~1578)は、「越後の虎」とも「越後の龍」とも呼ばれた武将で、甲斐の武田信玄と死闘を繰り広げた「川中島の戦い」(1553年~1564年)はあまりにも有名です。上杉謙信は私欲の少ない、清廉の人として知られ、義を重んじ大義名分のない戦をしなかったと言われています。

戦国時代屈指の戦上手であり、野戦においては戦国武将の中でも最高の指揮統率力を持つと言われています。そのあまりの強さゆえに北条氏康、武田信玄も野戦を避けて持久戦をとっていました。

軍事能力に卓越しており、生涯で約70回もの合戦を行い、敗北は僅か数回と伝えられています。神がかり的な采配で直接の戦闘では圧倒的な強さを誇っていました。そのため「越後の龍」や「軍神」と評され恐れられました。

5.快川紹喜(かいせんじょうき)

快川紹喜

安禅不必須山水 滅却心頭火亦涼
(安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し)

これは、杜荀鶴の漢詩の一部ですが、杜荀鶴の原典は「…火も自ずから涼し」です。

これは「安らかに座禅を組むには、必ずしも山水の地を必要としない。 無念無想の境地に達すれば、火もまた涼しく感じるものだ」という意味です。

快川紹喜(?~1582年)は、戦国時代、安土桃山時代の臨済宗の僧で、妙心寺の仁岫宗寿の法を継ぎました。

美濃国の寺院を経て妙心寺の43世に就任し、美濃の崇福寺住職となりました。永禄7年(1564年)には甲斐国の武田信玄に招かれて恵林寺(甲州市塩山)に入寺し、武田氏と美濃斎藤氏との外交僧も務めています。甲斐では信玄に機山の号を授けています。

織田信長の甲州征伐により武田氏が滅亡して領内が混乱すると、中世において寺院は聖域であるとする社会的観念があったため、信長に敵対した六角義弼らを恵林寺にかくまい、織田信忠の引渡し要求を拒否しましたが、その後焼討ちにあい、一山の僧とともに焼死を遂げました。

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