葛飾北斎 江戸時代の長寿の老人の老後の過ごし方(その4)

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葛飾北斎・82歳頃の自画像

前に「江戸時代も実は『高齢化社会』だった!?江戸のご隠居の生き方に学ぶ」という記事を書きましたが、前回に引き続いて江戸時代の長寿の老人(長寿者)の老後の過ごし方・生き方を具体的に辿ってみたいと思います。

第4回は「葛飾北斎」です。

前に「葛飾北斎とは?改名30回・転居93回で88歳まで生きた彼は隠密だった!?」「鳥獣戯画を描いた鳥羽僧正や、北斎漫画の葛飾北斎は時代や洋の東西を超えた天才」という記事を書きましたが、彼は「途轍もない怪物のような美の巨人」で、死ぬまで創作欲が衰えない「『画狂人(がきょうじん)北斎』と自称するだけある画家」だと私は感じます。

冒頭の画像は、彼が82歳頃の「自画像」ですが、大変迫力のある絵で、鬼気迫るものがあります。なお下の画像は79歳頃の「自画像」ですが、冒頭の自画像とは画風が随分違いますね。

葛飾北斎・自画像

余談ですが、江戸時代の浮世絵師の「自画像」は珍しいと思います。歌川国芳の「後ろ姿」や、「何かで顔を隠した」自画像があるくらいではないでしょうか?

歌川国芳の後ろ姿の自画像歌川国芳の顔を隠した自画像

1.葛飾北斎とは

葛飾北斎(かつしかほくさい)(1760年~1849年)は、江戸時代末期の浮世絵師です。江戸・本所割下水(わりげすい)に川村某の子として生まれました。幼年時についてはあまり明らかではありませんが、幼名を時太郎といい、後年鉄蔵と改めました。4~5歳の頃に一時、幕府御用鏡師中島伊勢(いせ)の養子となったと言われますが、その間の事情は伝わっていません。

絵は6歳ごろから好んで描いていたと自ら後年に述懐しています。

14~15歳頃、木版彫刻師の徒弟となり、安永7 年(1778)年)に当時役者絵の大家として知られていた勝川春章に入門。翌8年勝川春朗(かつかわしゅんろう)と称しました。

ひそかに狩野派を学んで春章門を追われ、堤派の堤等琳、土佐派の住吉内記に師事。また司馬江漢の銅版画に感化を受け、和漢洋のあらゆる画法を体得しました。

画域役者絵・美人画・風景画・花鳥画・社会風俗画・挿絵・版本など広い分野にわたり、「画狂人」の自称どおり生涯に3万枚以上の作品を描きました。

改名癖があって30回も改号し、その都度画風も異なります。北斎と号したのは寛政10年(1798)年)からで、この号を用いて風景版画を発表しました。

『富嶽三十六景』 (1830年から出版) が評判となり,浮世絵における「風景版画創始者」の地位を確立しました。作品は早くから海外にも知られ、マネ、モネらフランス印象派の画家に大きな影響を与えました。

また文化年間 (1804年~1818年) には読本挿絵に専念し、次いで『北斎漫画』を続刊しました。

その他の主要作品には、狂歌本『東都名所一覧』挿絵、絵本『隅田川両岸一覧』挿絵、錦絵『近江八景』『諸国滝廻り』『千絵 (ちえ) の海』、肉筆画『二美人図』などがあります。

なお、彼は生涯に93回も転居を繰り返していますが、一時期、曲亭馬琴宅に居候(いそうろう)していたことがあります。曲亭馬琴の読本の挿絵を盛んに描いていた頃だと思います。

極端な例では一日に3回引っ越したこともあるそうです。75歳の時には既に56回に達していたようです。当時の人名録『広益諸家人名録』の付録では天保7・13年版ともに「居所不定」と記されており、これは住所を欠いた一名を除くと473名中北斎ただ一人です。

彼が転居を繰り返したのは、彼自身と、離縁して父のもとに出戻った娘のお栄(葛飾応為)とが、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからです。また、北斎は生涯百回引っ越すことを目標とした百庵という人物に倣い、自分も百回引っ越してから死にたいと言ったという説もあります。

最終的に、93回目の引っ越しで以前暮らしていた借家に入居した際、部屋が引き払ったときとなんら変わらず散らかったままであったため、これを境に転居生活はやめにしたとのことです。

2.葛飾北斎の老後の過ごし方

彼は浮世絵師のなかで最も長い70年余の作画期間中、画風を次々と変転させながらも各分野に一流を樹立した浮世絵派を代表する絵師です。

彼の長い作画生活は終生刻苦勉学に貫かれていて、その情熱は当時の絵師としては稀にみるところでした。

金銭に無頓着で身なりかまわず、人を驚かすことが好きであった彼は、自らの造形力の向上を信じて画業一筋に生きた“画狂人”でした。『富岳百景』初編には自ら「九十歳にして猶其奥意を極め一百歳にして正に神妙ならん歟百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん」云々と記しています。

「老後」を50歳以降としますと、1810年以降の彼の活動となります。

1814年に、弟子たちのためのお手本集として描かれた『北斎漫画』の初編を刊行しています。『北斎漫画』は全巻を通して約3000余図が載せられており、まさに絵の百科事典ともいえる性格をもっていて、日本はむろん、古くからヨーロッパにも「ホクサイスケッチ」とよばれ、多大な影響を及ぼしています。

1817年春頃から名古屋に滞在し、秋に、名古屋西掛所(西本願寺別院)境内で120畳大の達磨半身像を描いています。年末頃、大坂・伊勢・紀州・吉野などへ旅行しています。

1823年には『富嶽三十六景』初版の制作が始まり、1831年に開版、1833年に完結しています。

1834年、「画狂老人(がきょうろうじん)」「卍(まんじ)」の号を用い、『富嶽百景』を手がけています。

1842年 秋、初めて、信濃国高井郡小布施の高井鴻山(*)邸を訪ねています。この時、鴻山は、自宅に碧漪軒(へきいけん)を建てて、北斎を厚遇しました。北斎82歳、鴻山36歳でした。

(*)高井鴻山(たかいこうざん)(1806年~1883年)とは、信濃国高井郡小布施村(幕府領・松代藩)の豪農商で儒学者・浮世絵師でもあり、北斎と交遊がありました。陽明学の教え「知行合一」の精神で「国利民福」の信条を貫きました。

三十代の頃、上田の活文(かつもん)禅師について禅を学んでおり、葛飾北斎と交遊が始まったのもこの頃でした。そして1842年の秋、北斎82歳のとき初めて小布施の鴻山(時に36歳)のもとを訪れました。このとき鴻山は北斎の卓越した画才を見抜き、自宅に碧漪軒というアトリエを建てて厚遇し、北斎に入門しました。北斎はこの時、一年余りも鴻山邸に滞在したということです。鴻山は北斎を「先生」と呼び、北斎は、鴻山のことを「旦那様」と呼び合いました。そして、1848年、北斎(89歳)は四度目の小布施来訪時、岩松院の天井絵を完成させています。

1843年ごろから日課として描いた『日新除魔(にっしんじょま)』と題されているおびただしい数の獅子(しし)の図には、老年期の画風とは思えないみずみずしい作品が多数含まれています。

1844年 向島小梅村に、また浅草寺前に住んでいます。大塚同庵の紹介により歌川国芳と出会っています。また信濃国高井郡小布施に旅し、1848年まで滞在しています。『怒涛図』などを描いています。

1849年、 江戸・浅草聖天町にある遍照院(浅草寺の子院)境内の仮宅において88歳で亡くなりました。墓所は台東区元浅草の誓教寺にあります。法名は南牕院奇誉北斎居士です。

臨終の時の様子は次のように伝えられています。

翁死に臨み、大息し天我をして十年の命を長ふせしめバといひ、暫くして更に謂て曰く、天我をして五年の命を保たしめバ、真正の画工となるを得べしと、言吃りて死す。

つまり「死を目前にした(北斎)翁は大きく息をして『天が私の命をあと10年伸ばしてくれたら』と言い、しばらくしてさらに言うことには『天が私の命をあと5年保ってくれたら、私は本当の絵描きになることができるだろう』と言吃って死んだ」とのことです。

辞世の句は、

悲と魂て ゆくきさんじや 夏の原

つまり「人魂(ひとだま)になって夏の野原にでも気晴らしに出かけようか」というものでした。

北斎亡き後、その名はヨーロッパに広まります。その斬新な作品はゴッホやモネ、ドガといった印象派の画家を驚かせ、19世紀に欧米を席巻した〝ジャポニスム〟に与えた影響は多大なものでした。
そのようなことから、アメリカの『LIFE』誌が「この1000年で最も偉大な業績を残した世界の100人」という特集を組んだ際に日本人で選出されたのは唯一北斎だけ。日本よりもむしろ世界で高い評価を受けているのです。

3.葛飾北斎の作品

(1)20歳代の「勝川春朗(かつかわしゅんろう)」期の作品

正宗娘・おれん

『正宗娘・おれん』

(2)30歳代の「俵屋宗理(たわらやそうり)」期の作品

隅田川渡の雪

『隅田川 渡の雪』

(3)40歳代の「葛飾北斎(かつしかほくさい)」期の作品

酔余美人図

『酔余美人図』

五美人図

『五美人図』

二美人図

『二美人図』

潮干狩図

『潮干狩図』

鯉図

『鯉図』

(4)50歳代の「戴斗(たいと)」期の作品

北斎漫画1北斎漫画2

『群盲撫象』

遠近法とその描き方

『遠近法とその描き方』

(5)60歳代の「為一(いいつ)」期の作品

凱風快晴

『凱風快晴』

蛸と海女・北斎

『蛸と海女』

(6)70歳代以降の「画狂老人(がきょうろうじん)」「卍(まんじ)」期の作品

神奈川沖浪裏

『神奈川沖浪裏』

千絵の海

『千絵の海』

諸国名橋奇覧 飛越の堺つりはし

『諸国名橋奇覧 飛越の堺つりはし』

勝景奇覧 信州諏訪湖

『勝景奇覧 信州諏訪湖』

肉筆画帖・鷹

『肉筆画帖 鷹』

肉筆画帖 塩鮭と鼠

『肉筆画帖 塩鮭と鼠』

肉筆画帖鮎と紅葉

『肉筆画帖 鮎と紅葉』

肉筆画帖 蛙とゆきのした

『肉筆画帖 蛙とゆきのした』

肉筆画帖 鰈と撫子

『肉筆画帖 鰈と撫子』

北斎漫画・風

『北斎漫画 風』

芥子

『芥子』

龍図

『龍図』

岩松院・八方睨み鳳凰図

『岩松院 八方睨み鳳凰図』下絵

八方睨み鳳凰図・葛飾北斎

『八方睨み鳳凰図』

百物語 お岩さん

『百物語 お岩さん』

百物語 さらやし記

『百物語 さらやし記』

布袋図

『布袋図』

鍾馗騎獅図

『鍾馗騎獅図』

八十三歳自画像

『八十三歳自画像』

富士越龍図

『富士越龍図』

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