辞世の句(その5)平安時代末期 平忠度・平維盛・二位尼・近衛天皇

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平忠度

団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。

そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽ったりもします。

昔から多くの人々が、死期が迫った時や切腹するに際して「辞世(じせい)」(辞世の句)という形で和歌や俳句などを残しました。

「辞世」とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈(げ)、和歌・狂歌、発句・俳句またはそれに類する短型詩の類のことを指すようになりました。「絶命の詞(し)」、「辞世の頌(しょう)」とも呼ばれます。

「辞世」は、自分の人生を振り返り、この世に最後に残す言葉として、様々な教訓を私たちに与えてくれるといって良いでしょう。

そこで今回はシリーズで時代順に「辞世」を取り上げ、死に直面した人の心の風景を探って行きたいと思います。

第5回は、平安時代末期・源平合戦の時代の「辞世」です。

1.平忠度(たいらのただのり)

平忠度

行き暮れて 木(こ)の下かげを 宿とせば 花や今宵の 主(あるじ)ならまし

平家物語』にあるこの歌は「行くうちに日が暮れて、桜の木の下を今夜の宿とするならば、花が今夜の主となってこの悔しさを慰めてくれるだろう」という意味です。

一の谷の戦いで敗れて落ち行く途中、仮屋を探している時、敵方に討たれました。この時、箙(えびら)にこの歌が結ばれていました。

敗者の悲しみとして、明治の唱歌「青葉の笛」になっています。

一の谷の 戦(いくさ)敗れ
討たれし平家の 公達(きんだち)あわれ
暁寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛

更くる夜半に 門を敲(たた)き
わが師に託せし
言の葉あわれ
今はの際(きわ)まで
持ちし箙(えびら)に
残れるは「花や今宵」の歌

平忠度(1144年~1184年)は 平安時代後期の平家一門の武将。平忠盛の六男で、平清盛の異母弟です。

源平の争乱で「富士川の戦い」、「墨俣(すのまた)川の戦い」などの大将軍の一人です。寿永3年(1184年)2月7日「一ノ谷の戦い」で源氏方の岡部忠澄に討たれました。

彼が討たれた際、「文武に優れた人物だったのに」と敵味方に惜しまれました。戦の後、岡部忠澄は忠度の菩提を弔うため、埼玉県深谷市の清心寺に供養塔を建立しています。

歌人としても優れており、藤原俊成に師事し、歌は『千載和歌集』などに見えます。平家一門と都落ちした後、6人の従者と都へ戻り俊成の屋敷に赴き自分の歌が百余首おさめられた巻物を俊成に託しました。

『千載和歌集』の撰者・俊成は、朝敵となった忠度の名を憚り「故郷の花」という題で詠まれた下の歌を一首のみ「詠み人知らず」として掲載しています。

さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな

2.平維盛(たいらのこれもり)

平維盛

生れては つひに死ぬてふ 事のみぞ 定めなき世に 定めありける

『源平盛衰記』にあるこの歌は、いかに戦乱に明け暮れる諸行無常の世でも「生老病死」の死は、人間にとって逃れ難い不変の定めであることを嘆いたものです。

平維盛については、前に「平維盛とは?光源氏の再来・桜梅少将と称された美貌の誉れ高き貴公子の生涯」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

平維盛(1158年~1184年)は平安時代末期の平家一門の武将。平重盛の嫡男で、平清盛の嫡孫です。「倶利伽羅峠の戦い」後、入水自殺しました。

寿永2年(1183年)4月、維盛を総大将として木曾義仲追討軍が逐次出発し、平氏の総力を結集した総勢10万(4万とも)の軍勢が北陸に向かいました。

5月、「倶利伽羅峠の戦い」で義仲軍に大敗。『玉葉』によると、4万の平氏軍で甲冑を付けていたのは4、5騎で平氏軍の過半数が死亡、残りは物具を捨てて山林に逃げましたが討ち取られました。

平氏第一の勇士であった侍大将の平盛俊、藤原景家、忠経(伊藤忠清の子)らは一人の供もなく敗走しました。敵軍はわずかに5千、かの三人の侍大将と大将軍(維盛)らで権威を争っている間に敗北に及びました。

同年7月、平氏は都を落ちて西走します。『平家物語』の「一門都落ち」では、嫡男六代を都に残し、妻子との名残を惜しんで遅れた維盛とその弟たち重盛系一族の変心を、宗盛や知盛が疑うような場面があります。

寿永3年(1184年)2月、維盛は「一ノ谷の戦い」前後、密かに陣中から逃亡します。『玉葉』によると、30艘ばかりを率いて南海に向かったということです。

のちに高野山に入って出家し、熊野三山を参詣して3月末、船で那智の沖の山成島に渡り、松の木に清盛・重盛と自らの名籍を書き付けた後、沖に漕ぎだして入水自殺しました。享年27。

3.二位尼(にいのあま)

二位尼

今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは

『平家物語』にあるこの歌は、わずか8歳で入水することになった幼帝・安徳天皇(第81代天皇)に、二位尼が「波の下にも都があるのですよ」と話したことを表していますが、覚悟の入水を自分に納得させるものでもあったのでしょう

二位尼こと平 時子(たいら の ときこ)(1126年~1185年)は、下級公家の平時信の娘で、平清盛の正室(継室)です。位階が従二位のため、「二位尼(にいのあま)」と称されます。

権大納言・平時忠の同母姉、平滋子(建春門院)の異母姉で、能円の異父姉にもあたります。

清盛との間に宗盛、知盛、徳子(建礼門院)、重衡らを生みました。

二位尼・安徳天皇入水

「御裳川 」と書いて 「みもすそがわ」 と読ませています。「みもすそ川」とは、伊勢神宮の境内を流れる「御裳濯(みもすそ)川」(別名・五十鈴川)です。

清盛の平家は伊勢平氏とよばれる血流で、安徳天皇は清盛と時子の娘・徳子の子なので、
「伊勢の血を引く末流」と「伊勢の五十鈴川から流れをくむ壇之浦」とを掛けているのだろうということです。自らの血統のプライドを失わなかったということでしょうか?

安徳天皇入水

屋島ではわが子いとしさに取り乱した二位尼は、ここ壇ノ浦では一代の英傑・清盛の妻らしく、決然とした姿で登場します。

彼女は孫の安徳天皇や娘の中宮徳子らとともに、味方の船に守られて御座船に乗っていましたが、今や義経軍に追い詰められて、敗色濃厚です。

二位尼は、すでに覚悟をきめています。喪服を身にまとって勾玉(まがたま)を脇に抱え、草(くさなぎ)薙の剣を腰にさし、八歳になる安徳を抱き上げました。

「われは女なれど、敵の手にはかかるまじ。帝のお供に参るなり。御こころざし思ひまいらせ給はん人々は、急ぎ続きたまへ」と船端へ歩み出ました。

安徳が驚いた様子で、「尼ぜ、われをばいづちへ具して行かんとするぞ」と聞くと、二位尼は「あの波の下に、極楽浄土という素晴らしい都があります。そこへ、お連れして参ります」と答えました。

安徳は小さな手を合わせて、まず東へ向かって伊勢神宮を拝み、それから西の空へ向かって念仏を唱えました。

「浪のしたにも都のさぶらふぞ」二位尼は安徳を抱いたまま、海面に向かって身を翻(ひるがえ)しました。

千尋(ちひろ)の海の底へ、二人の身体はゆっくりゆっくり沈んで行きました。

4.近衛天皇(このえてんのう)

近衛天皇

虫の音の よわるのみかは 過ぐる秋を 惜しむ我が身ぞ まづ消えぬべき

『玉葉集』にあるこの歌は「衰え弱ってゆくのは虫の音だけだろうか、いや、過ぎてゆく秋を惜しむ私の身こそ、先に消えてしまいそうだ」という意味です。

近衛天皇(1139年~1155年)は、第76代天皇(在位: 1142年~1155年)です。鳥羽天皇の第九皇子で、母は藤原得子(美福門院)です。

ちなみに、崇徳天皇・後白河天皇・覚性法親王は異母兄です。

後白河法皇関係図

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