源頼朝の長女・大姫は木曾義高との悲恋の末、心を病み20歳で世を去った!

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大姫南沙良

今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、南沙良さん(幼少期は落井実結子さん)が源頼朝の長女で後に木曾義仲の嫡男・義高と婚約する大姫を演じることになっており、重要な役どころである予感がします。

彼女はどのような人物だったのでしょうか?

ところで歴史上の人物で、肖像画などがある有名な人はイメージしやすいのですが、大姫のように没個性的な浮世絵(下の画像)しかない場合は想像しにくいので、冒頭に落井実結子さんと南沙良さんの画像を入れました。

大姫君

1.大姫とは

頼朝兄弟家系図

大姫(おおひめ)(1178年~1197年)は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の長女で母は北条政子です。大姫というのは長女を意味する通称であり、本名は「一幡(いちまん)」とする説がありますが不明です。

6歳の時に頼朝と対立した木曾義仲(源義仲)との和睦のため、義仲の嫡男・義高と婚約しますが、義仲の敗北に伴い義高が処刑されたことに衝撃を受け心を病みます。その後の縁談も拒み通し、後鳥羽天皇への入内の話も持ち上がりましたが実現すること無く20歳で早世しました。

大姫は父・頼朝の政略に翻弄され続けて、心まで病んでしまい、失意のうちに20歳で亡くなったのです。

大姫は治承2年(1178年)、 頼朝が伊豆の流人だった頃に、夫婦の間の最初の子として誕生しました。母の政子はその父・時政に結婚を反対され、幽閉されましたがそれを振り切り、大雨の夜を凌いで頼朝の元へ走ったということです。

治承4年(1180年)8月、大姫が数え3歳の時に父・頼朝が挙兵、東国を制圧して鎌倉殿と称されるようになりました。

2.木曽義高との婚姻

寿永2年(1183年)春、頼朝と対立していた木曾義仲(源義仲)は、長男で当時11歳の木曾義高(源義高)を人質として鎌倉に送り、当時6歳の大姫の婿とすることで頼朝と和議を結びました。(なお、義高と大姫は又従兄妹にあたります)。

当時は婚約者といっても二人ともまだ子供で、義高と大姫は仲の良い兄妹のようでした。

しかし頼朝と義仲の関係は破局し、翌年の寿永3年(1184年)正月、義仲は頼朝の送った軍によって都の郊外で敗死します。

義仲を討ち取った知らせを受けた頼朝は、義高の処遇を考えなくてはなりませんでした。愛娘の幼い恋人(婚約者)の父を殺してしまったら、残された息子がどうなるかを、頼朝はよく知っていました。なにしろ、今まさに平家を打ち滅ぼさんとしている頼朝は、平家によって父を殺され、平家によって助命されたのですから。「生かしておけば、必ず鎌倉幕府を滅ぼそうとするだろう」と頼朝は考えました。

同年(改元して元暦元年)4月21日、頼朝は将来の禍根を断つべく義高の殺害を決めます。それを漏れ聞いた侍女たちから知らせを受けた大姫は、明け方に義高を女房姿にさせ、侍女たちが取り囲んで邸内から出し、ひづめに綿を巻いた馬を用意して鎌倉を脱出させます。

義高と同年の側近であった海野幸氏(うんのゆきうじ)を身代わりとして、義高の寝床から髻を出し、義高が好んで幸氏といつも双六勝負していた場所で双六を打ち、その間殿中の人々はいつも通り義高が座っているように思っていましたが、夜になって事が露見します。

頼朝は激怒して幸氏を召し捕り、堀親家以下軍を各所に派遣して義高を討ち取るように命じます。

周章した大姫は嘆き悲しみ、打ちしおれてしまいます。4月26日、親家の郎党である藤内光澄が鎌倉に戻り、入間河原で義高を討ち取った旨を報告します。

このことは内密にされていましたが、大姫の耳に入り、悲嘆のあまり水も喉を通らなくなるほどでした。

6月27日、政子は大姫が病床に伏し、日を追って憔悴していくのは義高を討ったためだと憤り、ひとえに討ち取った男の配慮が足りなかったせいだと頼朝に強く迫り、藤内光澄は晒し首にされました。とんだとばっちりですね。

7歳であった大姫の心は深く傷付き、その後十余年を経ても義高への思いに囚われては床に伏す日々が続きました。

義高のための追善供養や読経、各寺院への祈祷などあらゆる手が尽くされましたが効果はありませんでした。

3.入内問題

源義高が殺害された直後の元暦元年(1184年)8月、後白河法皇は台頭する頼朝との関係を強化すべく、摂政・近衛基通に頼朝の娘を嫁がせる意向を示しました(『玉葉』同年8月23日条)。

近衛家には頼朝の乳母である比企尼の外孫である惟宗忠久(島津氏の祖)が仕えており、法皇や基通が惟宗忠久を介して頼朝周辺に働きかけた可能性があります。

しかし、基通に代えて叔父の九条兼実を摂政として推す意向に傾いていた頼朝は最終的には拒絶しています。

建久5年(1194年)8月、頼朝の甥で貴族である一条高能が鎌倉へ下ってきます。17歳になった大姫の病状が一時小康状態となった際、頼朝と政子は高能との縁談を勧めます。

しかし大姫が「そんな事をするくらいなら深淵に身を投げる」と一言のもとに拒絶したため、頼朝はそれ以上話を進めることを断念します。

頼朝はその年の10月から上洛の準備を始め、翌建久6年(1195年)2月、政子と大姫・頼家らの子女を伴って京へ上ります。

表向きの目的は東大寺の落慶供養でしたが、都では大姫を後鳥羽天皇への妃にするべく入内工作を行っていました。頼朝は宮廷の実力者である土御門通親丹後局にさかんに接触を図ります。

3月29日には丹後局を招いて政子と大姫と対面させ、銀製の蒔絵の箱に砂金300両を納め、白綾30反など多くの派手な贈り物をし、その従者たちにまで引き出物を贈りました。

前回の上洛では胸襟を開いて語り合った盟友の九条兼実には一度しか面会せず、雑事ばかりを語って政治的な話はせず、贈り物は馬2頭のみでした。

兼実は娘がすでに後鳥羽天皇の中宮になっており、土御門通親・丹後局とは政敵でした。頼朝は妹婿で重用していた一条能保との参詣の予定も突然反故にし、丹後局に同行しています。

頼朝はかつて後白河法皇の死去の直前、院近臣の通親や丹後局が勝手に院の荘園として分捕ろうとした国衙領を、兼実とともに断固たる処置で元に戻しました。丹後局と接触した頼朝は、この兼実の決定を突然取り消したのです。翌年、兼実は一門と共に失脚します(建久七年の政変)。

頼朝は多大な犠牲を払って大姫の入内を図りましたが、結局大姫は病から回復することなく建久8年(1197年)7月14日に死去しました。享年20。

「大姫入内運動」は、頼朝が通親・丹後局に利用され、結果的に朝廷の反幕府派の台頭を招く重大な結果をもたらしました。

頼朝は大姫の死後、次女・三幡(さんまん)の入内工作を進めて女御としましたが、自身と三幡の相次ぐ病死で頓挫しました。

これらは、それまで常に冷徹な政治家であった頼朝の最大の失策とされ、それは父親としての思いからとも、娘を天皇の后に立て自らが外戚になるという、中央貴族の末裔としての意識を捨てきれなかった限界とも評されています。

その一方で、政権基盤の脆弱な通親が頼朝と敵対したらひとたまりもなく、通親は実際には頼朝や頼家に最大限の配慮をしており、反幕的公卿の指摘は当たらないとする見解もあります。

御家人統制に王朝権威を利用し始めた頼朝にとって朝廷統制は不可欠であって、その最も直截的な方策こそ娘の入内と外孫の即位であり、入内の頓挫は娘たち及び頼朝自身の相次ぐ病死という想定外の事態によるものに過ぎません。

3度目の上洛が実現していたら頼朝は三幡を後鳥羽の後宮に送り込むことに成功していただろうとする見解もあります。

鎌倉市の常楽寺に大姫の墓と伝えられる塚が残るほか、大姫の守り本尊であった地蔵を祭った地蔵堂(岩船地蔵堂)が扇ヶ谷(鎌倉市)に残っています。

なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。



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