北条政子は鬼畜過ぎる悪女・鬼嫁だったのか?それとも優れた政治家だったのか?

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北条政子

今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、小池栄子さんが北条義時の姉で源頼朝の正妻の「北条政子」を演じており、重要な役どころです。

彼女は「日本三大悪女」の一人に数えられていますが、どのような人物だったのでしょうか?

鬼畜過ぎる悪女・鬼嫁だったのでしょうか?それとも優れた政治家だったのでしょうか?

ところで歴史上の人物で、肖像画などがある有名な人はイメージしやすいのですが、「北条政子」のように肖像画がない場合は想像しにくいので、冒頭に小池栄子さんの画像を入れました。

鎌倉殿の13人・相関図1

1.北条政子とは

北条政子

「北条 政子(ほうじょう まさこ)、平政子(たいらの まさこ)」(1157年~1225年)は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の御台所で、子は頼家実朝大姫、三幡の4人です。

周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となりました。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれました。法名は安養院(あんにょういん)です。

頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、鎌倉殿として京から招いた幼い三寅(後の藤原頼経)の後見となって幕政の実権を握り、世に「尼将軍」と称されました。

2.北条政子の生涯と人物像

北条政子・家系図

(1)生い立ち

北条政子は、伊豆の国の有力者である北条時政(ほうじょうときまさ)(1138年~1215年)の長女として生まれました。

(2)周囲の反対を押し切っての源頼朝との結婚

当時「平治の乱」(1160年)に敗れた源氏は処刑されたり流罪にされたりし、北条政子の父・北条時政は罪人である源頼朝の監視役としてあてがわれました。

時政が大番役のため在京中の間に政子は頼朝と恋仲になってしまい、周囲の反対を押し切って結婚します。

当時の結婚と言えば、政治の世界で力を増すための「政略結婚」が当たり前です。豪族の娘である北条政子が罪人と結婚するとなっては、周囲は当然結婚を反対するでしょう。

しかし、北条政子は父親があてがった婚約者のもとから逃げ出し、頼朝とともに歩む道を選びました。父親は北条政子の情熱と行動力に負け、二人の結婚を許し、二人は結婚しました。

この結婚によって、北条氏は頼朝の重要な後援者となります。政子は、まもなく長女・大姫を出産します。

『曽我物語』によると二人の馴れ初めとして、政子の妹(後に頼朝の弟・阿野全成の妻となる阿波局)が日月を掌につかむ奇妙な夢を見ました。妹がその夢について政子に話すと、政子はそれは禍をもたらす夢であるので、自分に売るように勧めました。

当時、不吉な夢を売ると禍が転嫁するという考え方がありました。妹は政子に夢を売り、政子は代わりに小袖を与えました。政子は吉夢と知って妹の夢を買ったのです。吉夢の通りに政子は後に天下を治める頼朝と結ばれる「夢買い」をしたわけです。

また『源平盛衰記』には次の内容の記載があります。頼朝と政子の関係を知った時政は平家一門への聞こえを恐れ、政子を伊豆目代の山木兼隆と結婚させようとしました。山木兼隆も元は流人でしたが、平家の一族であり、平家政権の成立とともに目代となり伊豆での平家の代官となっていました。

政子は山木の邸へ輿入れさせられようとしますが、屋敷を抜け出した政子は山を一つ越え、頼朝の元へ走ったということです。二人は伊豆山権現(伊豆山神社)に匿われました。政子が21歳のときです。伊豆山は僧兵の力が強く目代の山木も手を出せなかったのです。しかしながら山木兼隆の伊豆配流は治承3年(1179年)であり、政子との婚姻話は物語上の創作とみるのが妥当と思われます。

治承4年(1180年)、以仁王が源頼政と平家打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に挙兵を呼びかけました。伊豆の頼朝にも以仁王の令旨が届けられましたが、慎重な頼朝は即座には応じませんでした。

しかし、計画が露見して以仁王が敗死したことにより、頼朝にも危機が迫り挙兵せざるを得なくなりました。頼朝は目代・山木兼隆の邸を襲撃してこれを討ち取りますが、続く「石橋山の戦い」で惨敗します。この戦いで政子の長兄・北条宗時が討死しています。政子は伊豆山に留まり、頼朝の安否を心配して不安の日々を送ることになりました。

頼朝は北条時政、義時とともに安房国に逃れて再挙し、東国の武士たちは続々と頼朝の元に参じ、数万騎の大軍に膨れ上がり、源氏ゆかりの地である鎌倉に入り居を定めました。政子も鎌倉に移り住みました。

頼朝は「富士川の戦い」で勝利し、各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧しました。頼朝は東国の主となり「鎌倉殿」と呼ばれ、政子は「御台所(みだいどころ)」と呼ばれるようになりました。

(3)御台所として夫の愛妾・亀の前に「後妻打ち」を行う

鎌倉将軍三代の系図

養和2年(1182年)初めに政子は二人目の子を懐妊しました。頼朝は三浦義澄の願いにより政子の安産祈願として、平家方の豪族で鎌倉方に捕らえられていた伊東祐親(時政の舅で義時の母方の祖父)の恩赦を命じました。祐親はこの赦免を恥として自害してしまいます。

『源平闘諍録』『曽我物語』などによると、頼朝は政子と結ばれる以前に祐親の三女(八重姫)と恋仲になり男子までなしましたが、平氏の怒りを恐れた祐親はこの子を殺し、頼朝と三女の仲を裂き他の武士(江馬次郎)と強引に結婚させてしまいました。ただしこれは同時代史料や『吾妻鏡』など後世の編纂史料では確認できません。

同年8月に政子は男子(万寿)を出産。後の2代将軍・源頼家です。

政子の妊娠中に頼朝は亀の前という妾を寵愛するようになり、近くに呼び寄せて通うようになりました。これを時政の後妻の牧の方から知らされた政子は嫉妬にかられて激怒します。

11月、牧の方の兄の牧宗親に命じて亀の前が住んでいた伏見広綱の邸を打ち壊す「後妻打ち(うわなりうち)」を行い、亀の前はほうほうの体で逃げ出しました。

頼朝は激怒して牧宗親を詰問し、自らの手で宗親の髻(もとどり)を切り落とす恥辱を与えました。頼朝のこの仕打ちに時政が怒り、一族を連れて伊豆へ引き揚げる騒ぎになっています。政子の怒りは収まらず、伏見広綱を遠江国へ流罪にさせました。

政子の嫉妬深さは「一夫多妻」が当然だった当時の女性としては異例でした。頼朝は他の女性とも通じましたが、政子を恐れて半ば隠れるように通っています。

当時の貴族は複数の妻妾の家に通うのが一般的でしたが、有力武家も本妻の他に多くの妾を持ち子を産ませて一族を増やすのが当然でした。

政子の父・時政も複数の妻妾がおり、政子と腹違いの弟妹を多く産ませています。頼朝の父・源義朝も多くの妾がおり、祖父・源為義は子福者で20人以上もの子を産ませています。京で生まれ育ち、源氏の棟梁であった頼朝にとって、多くの女の家に通うのは常識・義務の範疇であり、社会的にも当然の行為でしたが、政子はそんな夫の行動を容認できませんでした

その背景としては、政子の嫉妬深さだけではなく、伊豆の小土豪に過ぎない北条氏の出である政子は貴種である頼朝の正室としてはあまりに出自が低く、その地位は必ずしも安定したものではなかったためと考えられます。

頼朝は寿永元年(1182年)7月に兄・源義平の未亡人で源氏一族である新田義重の娘(祥寿姫)を妻に迎えようとしましたが、政子の怒りを恐れた義重が娘を他に嫁がせたため実現しませんでした。

政子が亀の前の邸を襲撃させて実力行使に出たのは、この4ヶ月後です。このため政子は嫉妬深く気性の激しい奸婦のイメージを持たれるようになりました。

寿永2年(1183年)、頼朝は対立していた源義仲と和睦し、その条件として義仲の嫡子・義高と頼朝と政子の長女・大姫の婚約が成立しました。義高は大姫の婿という名目の人質として鎌倉へ下りました。義高は11歳、大姫は6歳前後でしたが、幼いながらも大姫は義高を慕うようになります。

義仲は平家を破り、頼朝より早く入京しました。しかし義仲は京の統治に失敗し、平家と戦って敗北、さらに後白河法皇とも対立しました。

元暦元年(1184年)、頼朝は弟の源範頼、義経を派遣して義仲を滅ぼしました。頼朝は禍根を断つべく鎌倉にいた義高の殺害を決めますが、これを侍女達から漏れ聞いた大姫が義高を鎌倉から脱出させます。激怒した頼朝の命により堀親家がこれを追い、義高は親家の郎党である藤内光澄の手によって斬られました。

大姫は悲嘆の余り病の床につきます。政子は義高を討った為に大姫が病になったと憤り、親家の郎党の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、頼朝はやむなく藤内光澄を晒し首にしています。

その後大姫は心の病となり、長く憂愁に沈む身となりました。政子は大姫の快癒を願ってしばしば寺社に参詣しましたが、大姫が立ち直ることはありませんでした。

範頼と義経は「一ノ谷の戦い」で平家に大勝し、捕虜になった平重衡が鎌倉に送られてきました。頼朝は重衡を厚遇し、政子もこの貴人を慰めるため侍女の千手の前を差し出しています。重衡は後に彼が焼き討ちした東大寺へ送られて斬られますが、千手の前は重衡の死を悲しみ、ほどなく死去しています。

範頼と義経が平家と戦っている間、頼朝は東国の経営を進め、政子も参詣祈願や、寺社の造営式など諸行事に頼朝と同席しています。元暦2年(1185年)、義経は「壇ノ浦の戦い」で平家を滅ぼしました。

平家滅亡後、頼朝と義経は対立し、挙兵に失敗した義経は郎党や妻妾を連れて都を落ちます。文治2年(1186年)、義経の愛妾の静御前が捕らえられ、鎌倉へ送られました

政子は白拍子の名手である静に舞を所望し、渋る静を説得しています。度重なる要請に折れた静は鶴岡八幡宮で白拍子の舞いを披露し、頼朝の目の前で「吉野山峯の白雪ふみ分て 入りにし人の跡ぞ恋しき 」「しづやしづしずのをたまきをくり返し 昔を今になすよしもがな 」と義経を慕う歌を詠いました。これに頼朝は激怒しますが、政子は流人であった頼朝との辛い馴れ初めと挙兵のときの不安の日々を語り「私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません」ととりなしました。政子のこの言葉に頼朝は怒りを鎮めて静に褒美を与えました。

政子は大姫を慰めるために南御堂に参詣し、静は政子と大姫のために南御堂に舞を納めています。静は義経の子を身ごもっており、頼朝は女子なら生かすが男子ならば禍根を断つために殺すよう命じます。

静は男子を生み、政子は子の助命を頼朝に願いましたが許されず、子は由比ヶ浜に遺棄されました。政子と大姫は静を憐れみ、京へ帰る静と母の磯禅師に多くの重宝を与えました。

同年、政子は次女三幡を産みました。政子の妊娠中に頼朝はまたも大進局という妾のもとへ通い、大進局は頼朝の男子(貞暁)を産みますが、政子を憚って出産の儀式は省略されています。大進局は政子の嫉妬を恐れて身を隠し、子は政子を恐れて乳母のなり手がないなど、人目を憚るようにして育てられました。

奥州へ逃れた義経は文治5年(1189年)4月、藤原泰衡に攻められ自害しました。頼朝は奥州征伐のため出陣します。政子は鶴岡八幡宮にお百度参りして戦勝を祈願しました。頼朝は奥州藤原氏を滅ぼして、鎌倉に凱旋します。

建久元年(1190年)に頼朝は大軍を率いて入京し、後白河法皇に拝謁して右近衛大将に任じられました。

建久3年(1192年)、政子は男子(千幡)を産みました。後の三代将軍・源実朝です。その数日前に頼朝は征夷大将軍に任じられています。同年、大進局が産んだ貞暁は7歳になった時、政子を憚って出家させるため京の仁和寺へ送られました。出発の日に頼朝は大進局と貞暁のもとへ密かに会いに訪れています。

建久4年(1193年)、頼朝は富士の裾野で大規模な巻狩りを催しました。頼家が鹿を射ると喜んだ頼朝は使者を立てて政子へ知らせますが、政子は「武家の跡取が鹿を獲ったぐらい騒ぐことではない」と使者を追い返しています。

政子の気の強さを表す逸話ですが、これについては、頼家の鹿狩りは神によって彼が頼朝の後継者とみなされたことを人々に認めさせる効果を持ち、そのために頼朝はことのほか喜んだのですが、政子にはそれが理解できなかったとする解釈もなされています。

一方で、政子の発言は頼家を貶めるための『吾妻鏡』の曲筆で、実際にはそのような発言はなかったとする説もあります。

この富士の巻狩りの最後の夜に曾我兄弟が父の仇の工藤祐経を討つ事件が起きました(曾我兄弟の仇討ち)。その後、頼朝が鎌倉に帰還すると、範頼が頼朝の不興を買い伊豆に流される事件が起きています。

『保暦間記』によると、鎌倉では頼朝が殺されたとの流言があり、政子は大層心配しましたが鎌倉に残っていた範頼が「源氏には私がおりますから御安心ください」と政子を慰めたため、鎌倉に帰った頼朝が政子から範頼の言葉を聞いて猜疑にかられたためとしています。

大姫は相変わらず病が癒えず、しばしば床に伏していました。建久5年(1194年)、政子は大姫と頼朝の甥にあたる公家の一条高能との縁談を勧めますが、大姫は義高を慕い頑なに拒びました。政子は大姫を慰めるために義高の追善供養を盛大に催しました。

建久6年(1195年)、政子は東大寺再建供養に出席する頼朝と共に上洛し、宣陽門院(父親は後白河法皇)の生母の丹後局や源通親と会って大姫の後鳥羽天皇への入内を協議しました。

頼朝は政治的に大きな意味のあるこの入内を強く望み、政子も相手が帝なら大姫も喜ぶだろうと考えましたが、大姫は重い病の床につきます。政子と頼朝は快癒を願って加持祈祷をさせますが、建久8年(1197年)に大姫は20歳で死去しました

『承久記』によれば政子は自分も死のうと思うほどに悲しみ、頼朝が母まで死んでしまっては大姫の後生に悪いからと諌めています。

次いで頼朝は次女の三幡を入内させようと図り、三幡は女御の宣旨を受けますが、頼朝は建久10年(1199年)1月に急死しました。政子は「大姫と頼朝が死んで自分も最期だと思ったが、年端も行かぬ頼家が二人の親を失ってしまう。子供たちを見捨てることはできなかった」と述懐しています。

(4)尼御台として息子・頼家を伊豆の修善寺に幽閉し、死に至らしめる

長子の頼家が家督を継ぎ、政子は出家して尼になり「尼御台(あまみだい)」と呼ばれます。三幡の入内工作は続けられましたが、頼朝の死から2ヶ月ほどして三幡が重病に陥りました。

政子は鎌倉中の寺社に命じて加持祈祷をさせ、後鳥羽上皇に院宣まで出させて京の名医を鎌倉に呼び寄せます。三幡は医師の処方した薬で一時保ち直したように見えましたが、容態が急変して6月に僅か14歳で死去しました。

若い頼家による独裁に御家人たちの反発が起き、正治2年(1200年)に頼家の専制を抑制すべく大江広元梶原景時比企能員、北条時政、北条義時ら老臣による「十三人の合議制」が定められました。

しかしこれについては、13人全員で合議された例がなく、数名の評議の結果を参考に頼家が最終的判断を下す政治制度であり、頼家の権力を補完する機能を果たしていたとする見解もあります。

その後、頼家が安達景盛の愛妾を奪う不祥事が起きました。景盛が怨んでいると知らされた頼家は兵を発して討とうとします。政子は調停のため景盛の邸に入り、使者を送って頼家を強く諌めて「景盛を討つならば、まずわたしに矢を射ろ」と申し送りました。政子は景盛を宥めて謀叛の意思のない起請文を書かせ、一方で頼家を重ねて訓戒して騒ぎを収めさせました

頼家と老臣との対立は続き、頼家が父に引き続いて重用していた梶原景時は失脚して滅ぼされました(梶原景時の変)。

玉葉』(正治2年正月2日条)によると、他の武士たちに嫉まれ恨まれた景時は、頼家の弟実朝を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決しましたが言い負かされ、讒言が露見した結果、一族とともに追放されてしまいました。『愚管抄』では景時滅亡と後の頼家殺害の因果関係を強く指摘しています。

頼家は遊興にふけり、ことに蹴鞠を好みました政子はこの蹴鞠狂いを諌めますが、頼家は聞きません。訴訟での失政が続き、御家人の不満が高まっていました。更に頼家は乳母の夫の比企能員を重用し、能員の娘は頼家の長子・一幡を生んで、権勢を誇っていました。比企氏の台頭は北条氏にとって脅威でした

建仁3年(1203年)、頼家が病の床につき危篤に陥りました。政子と時政は一幡と実朝で日本を分割することを決めます。これを不満に思う能員は病床の頼家に北条氏の専断を訴えました。

頼家もこれを知って怒り、北条氏討伐を命じました。これを障子越し聞いていた政子は、使者を時政に送り、時政は策を講じて能員を謀殺。政子の名で兵を起こして比企氏を滅ぼしてしまいました。一幡も比企氏とともに死にました(比企能員の変)。

頼家は危篤から回復し、比企氏の滅亡と一幡の死を知って激怒し、時政討伐を命じますが、既に主導権は北条氏に完全に握られており、頼家は政子の命で出家させられて将軍職を奪われ、伊豆の修善寺に幽閉されてしまいます。頼家は翌元久元年(1204年)に死去しています。

しかし比企氏滅亡や頼家の死に関して鎌倉幕府編纂書である『吾妻鏡』には明らかな曲筆が見られ、頼家の悪評や比企氏の陰謀については北条氏による政治的作為と考えられるため、そのまま鵜呑みには出来ません。

『愚管抄』によれば、頼家は大江広元の屋敷に滞在中に病が重くなったので自分から出家し、あとは全て子の一幡に譲ろうとしました。これでは比企能員の全盛時代になると恐れた時政が能員を呼び出して謀殺し、同時に一幡を殺そうと軍勢を差し向けました。一幡はようやく母が抱いて逃げ延びましたが、残る一族は皆討たれました。やがて回復した頼家はこれを聞いて激怒、太刀を手に立ち上がりましたが、政子がこれを押さえ付け、修禅寺に押し込めてしまいました。

逃げ延びた一幡も捕らえられ、北条義時の手勢に殺されたということです。また頼家の死についても『愚管抄』によれば、頼家は義時の送った手勢により入浴中を襲撃され、激しく抵抗した所を首に紐を巻き付け陰嚢をとって刺し殺されたということです。

頼家に代って将軍宣下を受けたのは実朝で、政子の父の時政が初代執権に就任します。時政とその妻の牧の方は政権を独占しようと図り、政子は時政の邸にいた実朝を急ぎ連れ戻しています。

(5)実朝打倒の陰謀を図った父・時政と後妻・牧の方を追放

元久2年(1205年)時政と牧の方は実朝を廃して女婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようと画策します。政子と義時はこの陰謀を阻止して、時政を出家させて伊豆へ追放しました。代って義時が執権となりました(牧氏事件)。

実朝は専横が目立った頼家と違って教養に富んだ文人肌で朝廷を重んじて公家政権との融和を図りました後鳥羽上皇もこれに期待して実朝を優遇して昇進を重ねさせました。しかし、公家政権との過度の融和は御家人たちの利益と対立し、不満が募っていました

政子は後難を断つために頼家の子たちを仏門に入れました。その中に鶴岡八幡宮別当となった公暁もいます

建保6年(1218年)、政子は病がちな実朝の平癒を願って熊野を参詣し、京に滞在して後鳥羽上皇の乳母で権勢並びなき藤原兼子と会談を重ねました。

この上洛で兼子の斡旋によって政子は従三位に叙されています(4月14日。同年10月13日には従二位に昇叙)。

『愚管抄』によれば、このとき政子は兼子と病弱で子がない実朝の後の将軍として後鳥羽上皇の皇子を東下させることを相談しています

同年12月、実朝の官職は更に昇進して右大臣に登りました。義時や大江広元は実朝が朝廷に取り込まれて御家人たちから遊離することを恐れ諫言しましたが、実朝は従いません。

建保7年(1219年)、右大臣拝賀の式のために鶴岡八幡宮に入った実朝は甥の公暁に暗殺されました

『承久記』によると、政子はこの悲報に深く嘆き「子供たちの中でただ一人残った大臣殿(実朝)を失いこれでもう終わりだと思いました。尼一人が憂いの多いこの世に生きねばならないのか。淵瀬に身を投げようとさえ思い立ちました」と述懐しています

実朝の葬儀が終わると、政子は鎌倉殿としての任務を代行する形で使者を京へ送り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願いました。上皇は「そのようなことをすれば日本を二分することになる」とこれを拒否しました。

上皇は使者を鎌倉へ送り、皇子東下の条件として上皇の愛妾の荘園の地頭の罷免を提示しました。義時はこれを幕府の根幹を揺るがすと拒否しました。弟の時房に兵を与えて上洛させ、重ねて皇子の東下を交渉させますが、上皇はこれを拒否しました。

(6)幼児の4代将軍・三寅(藤原頼経)を後見して尼将軍となる

義時は皇族将軍を諦めて摂関家から三寅(藤原頼経)を迎えることにしました。時房は三寅を連れて鎌倉へ帰還しました。

三寅はまだ2歳の幼児であり、三寅を後見した政子が将軍の代行をすることになり、「尼将軍」と呼ばれるようになります。『吾妻鏡』では建保7年(1219年)の実朝死去から嘉禄元年(1225年)の政子死去まで北条政子を鎌倉殿と扱っています

(7)後鳥羽上皇の反乱(承久の乱)に際し、御家人の動揺を抑える

承久3年(1221年)、皇権の回復を望む後鳥羽上皇と幕府との対立は深まり、遂に上皇は京都守護・伊賀光季を攻め殺して挙兵に踏み切りました(承久の乱)。上皇は「義時追討の院宣」を諸国の守護と地頭に下します。武士たちの朝廷への畏れは依然として大きく、上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人たちは動揺しました。

政子は御家人たちを前に「最期の詞(ことば)」として「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよいとの声明を発表。これで御家人の動揺は収まりました

政子の「優れた政治家」としての一面を物語るエピソードです。

これは、エリザベス1世エリザベス2世が国民を鼓舞するために行った演説を彷彿とさせます。

『承久記』では政子自身が鎌倉の武士を前に演説を行ったとし、『吾妻鏡』では安達景盛が演説文を代読したとしています。

軍議が開かれ箱根・足柄で迎撃しようとする防御策が強かったのですが、大江広元は出撃して京へ進軍する積極策を強く求め、御家人に動員令が下ります。またも消極策が持ち上がりますが、三善康信が重ねて出撃を説き、政子がこれを支持して幕府軍は出撃しました。幕府軍は19万騎の大軍に膨れ上がりました。

後鳥羽上皇は院宣の効果を絶対視して幕府軍の出撃を予想しておらず狼狽します。京方は幕府の大軍の前に各地で敗退して、幕府軍は京を占領。後鳥羽上皇は義時追討の院宣を取り下げて事実上降伏し、隠岐島へ流されました。政子は義時とともに戦後処理にあたりました。

(8)弟・義時の後室・伊賀の方の陰謀に対し、三浦義村を味方にして未然に防ぐ

貞応3年(1224年)、義時が急死します。長男の北条泰時は見識も実績もあり期待されていましたが、義時の後室の伊賀の方は実子の北条政村の執権擁立を画策して、有力御家人の三浦義村と結ぼうとしました。

義村謀叛の噂が広まり騒然としますが、政子は義村の邸を訪ねて泰時が後継者となるべき理を説き、義村が政村擁立の陰謀に加わっているか詰問しました。義村は平伏して泰時への忠誠を誓いました鎌倉は依然として騒然としますが政子がこれを鎮めさせました。伊賀の方は伊豆へ追放されました(伊賀氏の変)。

だが伊賀氏謀反の風聞については泰時が否定しており、『吾妻鏡』でも伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言しておらず、政子に伊賀氏が処分されたことのみが記されています。

そのため「伊賀氏の変」は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後室・伊賀の方の実家である伊賀氏を強引に潰すためにでっち上げた事件とする説もあります。

泰時は義時の遺領配分を政子と相談し、弟たちのために自らの配分が格段に少ない案を提示し、政子を感心させました。

嘉禄元年(1225年)、政子は病の床につき、死去しました。享年69。戒名は安養院殿如実妙観大禅定尼。墓所は神奈川県鎌倉市の寿福寺に実朝の胴墓の隣にあります。

3.後世の評価

『吾妻鏡』は「前漢の呂后と同じように天下を治めた。または神功皇后が再生して我が国の皇基を擁護させ給わった」と政子を称賛しています。

慈円は『愚管抄』で政子の権勢をして「女人入眼の日本国」と評しました。

『承久記』では「女房(女性)の目出度い例である」と評していますが、この評に対して政子に「尼ほど深い悲しみを持った者はこの世にいません」と述懐させています。

室町時代の一条兼良は「この日本国は姫氏国という。女が治めるべき国と言えよう」と政子をはじめ奈良時代の女帝(元正天皇や孝謙天皇)の故事をひいています。

北畠親房の『神皇正統記』や今川了俊の『難太平記』でも鎌倉幕府を主導した政子を高く評価しています。

江戸時代になると儒学の影響で人倫道徳観に重きを置かれるようになり、『大日本史』や新井白石、頼山陽などが政子を評していますが、頼朝亡き後に鎌倉幕府を主導したことは評価しつつも、子(頼家、実朝)が変死して婚家(源氏)が滅びて、実家(北条氏)がこれにとって代ったことが婦人としての人倫に欠くと批判を加えています。

またこの頃から政子の嫉妬深さも批判の対象となります。政子を日野富子や淀殿と並ぶ悪女とする評価も出るようになりました。

なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。



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