辞世の句(その12)戦国時代 豊臣秀次・駒姫・黒田如水・武田信玄

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豊臣秀次らの処刑

団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。

そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽ったりもします。

昔から多くの人々が、死期が迫った時や切腹するに際して「辞世(じせい)」(辞世の句)という形で和歌や俳句などを残しました。

「辞世」とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈(げ)、和歌・狂歌、発句・俳句またはそれに類する短型詩の類のことを指すようになりました。「絶命の詞(し)」、「辞世の頌(しょう)」とも呼ばれます。

「辞世」は、自分の人生を振り返り、この世に最後に残す言葉として、様々な教訓を私たちに与えてくれるといって良いでしょう。

そこで今回はシリーズで時代順に「辞世」を取り上げ、死に直面した人の心の風景を探って行きたいと思います。

第12回は、引き続き戦国時代の「辞世」です。

1.豊臣秀次(とよとみひでつぐ)

豊臣秀次

月花を 心のままに 見尽くしぬ なにか浮き世に 思ひ残さむ

これは「月も花も思う存分見ることができた。浮世に思い残すことはもう、何もない」という意味です。

磯かげの 松のあらしや 友ちどり いきてなくねの すみにしの浦

これは「海辺でただならぬ嵐にあったが、仲の良い千鳥たちの澄んだ鳴き声を聞くと心が穏やかになる」という意味です。

豊臣秀次(1568年~1595年)は、天下人となった豊臣秀吉の甥(姉の子)で、豊臣氏の第2代関白です。

幼少時、戦国大名・浅井長政の家臣・宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉とし、宮部吉継(みやべ よしつぐ)と名乗りました。

次いで畿内の有力勢力だった三好一族の三好康長(笑岩)の養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通称は孫七郎とし、三好信吉(みよし のぶよし)と名乗って三好家の名跡を継ぎました。

秀吉が天下人の道を歩み始めると、羽柴姓に復氏して、名も秀次と改名。豊臣姓も下賜されました。

鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、「文禄の役」の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続しました。

ところが秀吉に嫡子・秀頼が誕生すると、謀反の嫌疑を掛けられて強制的に出家させられ、高野山青巌寺に蟄居となった後1595年8月20日に切腹させられました。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に眷族もことごとく処刑されました。

「殺生関白(せっしょうかんぱく)」(摂政と関白という役職名にかけたあだ名)と呼ばれるほど猟奇的で悪逆非道な人物だったと言われる豊臣秀次ですが、後世の創作であるとする説もあります。

「殺生関白」と呼ばれる行為とは、次のようなものです。

・力自慢の試し斬りをするために往来の人に辻斬りを行った
・鉄砲の稽古で農民を撃ち殺した
・手足を縛り付けた罪人に対して胴斬りをして楽しんだ
・妊婦の腹を切って胎児を引きずり出した
女人禁制の比叡山に女房らを連れて行き、遊宴をおこない、殺生が禁じられているにもかかわらず鹿や猿などの狩猟をした

2.駒姫(こまひめ)

駒姫

罪なき身を世の曇りにさへられて共に冥土に赴くは五常(ごじょう)のつみもはらひなんと思ひて

罪をきる 弥陀(みだ)の剣(つるぎ)に かかる身の なにか五つの 障りあるべき

これは「罪のない身の上であるけれど、こうしてみんなと冥土へ行く事となった。五つの得目に背いた事になっているけれど、きっとみんなとなら極楽浄土へいけるはず」という意味です。

うつつとも 夢とも知らぬ 世の中に す(住・澄)までぞ帰る 白河の水

これは「関白様の側室となるために京まで赴いたはずなのに、今私は処刑されようとしている。これは本当の出来事なのでしょうか。もし夢であるなら覚めてほしい。そして、美しい白河のある山形へ帰りたい」という意味です。

駒姫(1581年~1595年)(別名「伊万(いま)」)は、出羽国の大名・最上義光の次女で、豊臣秀次の側室候補でした。伊達政宗の従妹に当たります。

彼女は東国一の美女として知られていました。その噂を聞きつけた豊臣秀次が、自身の側室に差し出すよう義光に迫り、そしてそのため出羽から京へ送り出されたのです。

しかし、その直前に肝心の豊臣秀次が切腹して果ててしまいました。

それだけならまだしも、怒り狂った豊臣秀吉が、秀次の妻や側室、子供たちだけでなく侍女らなど約40名を処刑しました。その中に、駒姫も含まれていたのです。

武家の男子は、たとえどんなに幼くても父に連座して処刑されるのは通例となっていました。平清盛が、幼い源頼朝・源義経を助命して、のちに復讐された先例があるためともされます。しかし女子の場合、助命されるのが通例でした。

例えばこのルールが適用された例として、大坂の陣での豊臣一族も挙げられます。豊臣秀頼の幼い息子は処刑されましたが、娘は出家させられ、尼として天寿を全うしています。

徳川家康が宿敵である豊臣にとった処置と比較すると、秀吉の秀次に対する仕打ちがいかに異様であったかがわかります。

駒姫の処刑は11番目でした。一説には、助命嘆願が聞き入れられたともいわれています。上洛したばかりの駒姫を処刑するとはあまりにもひどいと、父の最上義光はじめ各方面から助命嘆願の声が上がったのです。淀殿の口添えもあって、最終的に秀吉は助命を決断し「鎌倉で尼になるように」と、処刑場に早馬を出したということです。しかし、あと一歩のところ、正確には一町(100メートル弱)の僅差で間に合わずに処刑されてしまいました。

3.黒田如水(くろだじょすい)

黒田如水

思ひ置く 言の葉なくて つひに行く 道は迷はじ なるにまかせて

これは「思い残す言葉もなく、ついにあの世に行くことになったが、道には迷わずに行けるだろう 成り行きに任せることにしよう」という意味です。

黒田如水(1546年~1604年)は、安土桃山時代の武将で、キリシタン大名です。名は官兵衛孝高(よしたか)、洗礼名ドン・シメオン。

初め小寺氏に属して小寺姓を名乗り姫路城にいましたが、織田信長・豊臣秀吉に仕え,特に秀吉の謀将として中国征伐・九州征伐に従軍しました。

1587年豊前(ぶぜん)中津城主として12万石を領し、「文禄の役」(1592年~1593年)と「慶長の役」(1597年~1598年)に出陣しました。

豊臣秀吉が死去(1598年)した後の「関ヶ原の戦い」(1600年)では徳川方に属しました。

なお黒田如水については「黒田官兵衛とは?豊臣秀吉をも恐れさせた天才軍師!」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

4.武田信玄(たけだしんげん)

武田信玄

大ていは 地(つち)に任せて 肌骨(きこつ)好(よ)し 紅粉(べにこ)を塗らず 自ら風流

これは「世の中は世相に任せて生きるものである。そして、その中で自分を見つけ出して死んでいくのだ。だから見せかけで生きるようなことはしてはならない。自分の本音・本心で生きることが一番楽で良いことだ」という意味です。

武田信玄(1521年~1573年)は、甲斐・信濃を治めた有名な戦国大名の一人です。上杉謙信との「川中島の戦い」での死闘などを経て領土を拡大し、将軍・足利義昭の織田信長討伐令の呼びかけに応じて上洛を目指す途中、病気が悪化し、1573年5月13日(元亀4年4月12日)病死しました。

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