辞世の句(その22) 昭和時代・戦後 三島由紀夫・檀一雄・三波春夫・島 秋人

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三島事件

団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。

そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽ったりもします。

昔から多くの人々が、死期が迫った時や切腹するに際して「辞世(じせい)」(辞世の句)という形で和歌や俳句などを残しました。

「辞世」とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈(げ)、和歌・狂歌、発句・俳句またはそれに類する短型詩の類のことを指すようになりました。「絶命の詞(し)」、「辞世の頌(しょう)」とも呼ばれます。

「辞世」は、自分の人生を振り返り、この世に最後に残す言葉として、様々な教訓を私たちに与えてくれるといって良いでしょう。

そこで今回はシリーズで時代順に「辞世」を取り上げ、死に直面した人の心の風景を探って行きたいと思います。

第22回は、昭和時代・戦後の「辞世」です。

1.三島由紀夫(みしまゆきお)

三島由紀夫

益荒男(ますらを)が たばさむ太刀の 鞘(さや)鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜

これは「誇り高き日本男児(武人)である私が手に持っている太刀の鞘が心の高ぶりを伝えて鳴る。逸(はや)る心を必死に幾年も耐えてきて、今日の初霜の日を迎えた」という意味です。

散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐(さよあらし)

これは「(現代のように)散るのをうこの世であっても、人に先駆けて散ることこそが花なのだと言うかのように、花を散らすべく吹きつける小夜の嵐よ」という意味です。

三島由紀夫(1925年~1970年)は、小説家・劇作家・随筆家・評論家・政治活動家です。本名は平岡 公威(ひらおか きみたけ)。

戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、「ノーベル文学賞」候補になるなど、日本語の枠を超え、日本国外においても広く認められた作家です。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもあります。

三島由紀夫は1968年憲法改正を求める組織「楯(たて)の会」(元の名称は「祖国防衛隊」)を結成し、1970年11月25日東京市ヶ谷の自衛隊総監部を襲いましたが事成らず、割腹自殺しました。『豊饒の海』四部作が絶筆です。

ちなみに「楯の会」の名前の由来は、『万葉集』防人歌の「今日よりは 顧みなくて大君(おおきみ)の(しこの御楯(みたて)と出で立つ吾は」です。

なお三島由紀夫については、「三島由紀夫とはどんな人物だったのか?三島事件での自決に至る生涯とは?」「三島由紀夫の持論・思想について」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

2. 檀一雄(だんかずお)

檀一雄

モガリ笛 幾夜もがらせ 花二逢はん

これは、「幾晩も虎落笛(もがりぶえ)が襲ってきて困ったことだがそのうちに必ず春がやってきて桜が咲くことだろう。この苦しみはそんなに続くものではない、春はもうすぐそこまで来ている」という意味です。

虎落笛は冬の季語です。虎落笛は、冬の寒風がビルや柵、垣根などに吹きつけて、笛のような音を出すことをいいます。ピーピー鳴ってそれは耳を聾するような音です。「もがる」は、逆らうとかゆするとかの意味合いで使われます。

檀一雄(1912年~1976年)は、小説家・作詞家・料理家で、私小説や歴史小説、料理の本などで知られます。「最後の無頼派」作家・文士とも言われました。また、西遊記の日本語抄訳もあります(東京創元社ほか)。

同じ東京帝国大学の学生だった太宰治と親友関係にあり、放蕩無頼に振る舞い、文壇の先輩である井伏鱒二などにたびたび尻拭いをさせるなど迷惑をかけていたそうです。

代表作は、律子夫人の没後に描いた『リツ子 その愛』『リツ子 その死』で、時代娯楽作品も人気があり『真説石川五右衛門』(1950年、第24回直木賞受賞)、『夕日と拳銃』など、また20年以上に亘り、書き継がれライフワークとなった遺作『火宅の人』(1986年、東映で異父弟のプロデューサーの高岩淡の企画、深作欣二監督、緒形拳主演により映画化)などがあります。

長女は女優の檀ふみ。長男はエッセイストの檀太郎です。妹は左翼活動家でイラストレーターの檀寿美です。作家の嵐山光三郎とは嵐山が編集者時代から親交が厚かったそうです。

3.三波春夫(みなみはるお)

三波春夫

ふるさとを 見せてやろうと 窓の雪

逝く空に 桜の花が あれば佳し

2001年、東京に大雪が降った日の病床での句です。新潟県生まれの三波春夫にとって、珍しく大雪となった都内の雪化粧が故郷を思わせたのでしょう。「ふるさとを 見せてやろうと 窓の雪」と詠んだ後、辞世の句を意識したのか、続けて「逝く空に 桜の花が あれば佳し」と詠みました。

西行法師ではありませんが、家族たちは、桜の花が咲くと一緒に永眠するのかと思ったそうです。奇しくも、同年4月14日、桜の時期に、眠るように息を引き取りました。

三波春夫(1923年~2001年)は、新潟県長岡市出身で「お客様は神様です」のフレーズでも有名な昭和を代表する演歌歌手の一人です。

7歳の時に母が腸チフスで死去しましたが、父から民謡を習いました。

13歳で上京し、築地魚河岸で丁稚奉公をしました。16歳で「日本浪曲学校」に入学。「南条文若」と名乗り、浪曲師デビューしました。21歳で陸軍に召集され、満州に渡りました。満州で敗戦となり、「ハバロスフク収容所」で4年間抑留生活を送り、1949年に帰国しました。

帰国と同時に復帰しましたが、三味線曲師野村ゆきと結婚し、歌謡曲歌手に転身しました、歌謡曲の衣装に初めて和服を使用した男性歌手となりました。1957年、芸名を「三波春夫」に改名し、「チャンチキおけさ」が大ヒットしました。

1963年の「東京五輪音頭」(売上250万枚)、そして1967年には大阪万博(EXPO’70 )テーマソング「世界の国からこんにちは」(売上130万枚)と、歌で日本国民を鼓舞し高度成長を後押ししました。「NHK紅白歌合戦」連続29回出場で、国民的大歌手の地位を確立しました。

芸能界でも有数の読書家であるとともに、北桃子の俳号で知られる俳人でした。晩年は、前立腺がんで闘病を余儀なくされましたが、歌手活動を続け、闘病から約7年後の2001年4月14日、都内の病院で亡くなりました。

お客様は神様です」の意味は、「お客様に自分が引き出され、舞台に生かされる、お客様の力に自然に神の姿を見るのです、お客様は神様のつもりでやらなければ、芸ではない」ということだそうです。

酒、たばこもやらないストイックな人生が、あの笑顔の裏にはありました。軍隊でも、抑留中も、浪曲のおかげで歓迎され、あだ名は「浪曲上等兵」でした。

ソ連抑留中のことに関しては、「国際法を無視して、捕虜の人権を蹂躙、これは国家的犯罪であって、そのうえ、謝罪も賠償も全くしていない」と、強く非難しています。

4.島 秋人(しまあきと)

この澄める こころ在るとは 識らず来て 刑死の明日に 迫る夜温(ぬく)し

島 秋人(本名:中村 覚)(1934年~1967年)は、新潟県で強盗殺人事件を引き起こした元死刑囚であり、1960年の一審の死刑判決後、1967年の死刑執行までの7年間、獄中で短歌を詠みつづけた歌人です。1963年に毎日歌壇賞を受賞しました。

1960年の新潟地方裁判所での死刑判決後、拘置所で開高健著の「裸の王様」を読み、絵を描くことによって暗い孤独感の強い少年の心が少しずつひらかれてゆくという話から、「絵を描きたい、そして童心を覚ましたい、昔に帰りたいという思い」がよぎりました。

しかし絵を描く事は出来なかったため、せめて児童図画を見たいという思いから、かつて自分の人生で唯一、中学1年生時の担任が図画の時間に「君は絵は下手だが、構図が良い」と褒めてくれたことを思い出し、その教師に児童図画を求める手紙を送りました。

教師は差出主の元生徒を覚えてはいませんでしたが、手紙に返事を書き、その際教師の妻が短歌を3首同封しました。

しばらく文通を続け、この妻から勧められたことをきっかけに短歌を詠みはじめました。松山刑務所で得た俳句の素養が助けにもなり、1960年末に小説新潮歌壇で佳作となり、1962年からは毎日歌壇の窪田空穂選に投稿を開始。同年1月28日に初入選を果たし、その後も入選を繰り返し、その存在が広く知れ渡ることとなりました。

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