辞世の句(その21) 昭和時代 大西瀧治郎・東條英機・左近允尚正・牛島 満・松岡洋右・永井隆

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神風特攻隊

団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。

そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽ったりもします。

昔から多くの人々が、死期が迫った時や切腹するに際して「辞世(じせい)」(辞世の句)という形で和歌や俳句などを残しました。

「辞世」とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈(げ)、和歌・狂歌、発句・俳句またはそれに類する短型詩の類のことを指すようになりました。「絶命の詞(し)」、「辞世の頌(しょう)」とも呼ばれます。

「辞世」は、自分の人生を振り返り、この世に最後に残す言葉として、様々な教訓を私たちに与えてくれるといって良いでしょう。

そこで今回はシリーズで時代順に「辞世」を取り上げ、死に直面した人の心の風景を探って行きたいと思います。

第21回は、昭和時代の「辞世」です。

1.大西瀧治郎(おおにしたきじろう)

大西瀧治郎

これでよし 百万年の 仮寝かな

すがすがし 暴風のあと 月清し

1番目の「これでよし」の「これ」は、大西の置かれた情況や句を詠んだ動機から「自決」を指します。

「仮寝」というのは、「うたた寝」や「旅に出て泊まる旅寝」のことですが、大西が句を詠んだ背景から「百万年の仮寝」とは、「死出の旅」のことです。

戦も終わったのに わざわざ自分から死ぬのは、「特攻隊の英霊と遺族に対して詫びる、十死零生の戦法をとった道義的責任を指揮官も果たす」ということです。 「特攻隊を送り出した人間としてけじめをつけるのであるから 自分の死にざまはこれでよい」ということです。

2番目は、「自分の宿命を呪うようなことはなく清々しい気持ちである」という意味です。

なお、大西瀧治郎の「遺書」は次のようなものです。

特攻隊の英霊に申す。善く戦いたり、感謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。然れどもその信念は遂に達成し得ざるに至れり。吾死を以て旧部下の英霊とその遣族に謝せんとす。次に一般青壮年に告ぐ。我が死にして、軽挙は利敵行為となるを思い、聖旨にそい奉り、自重忍苦するの戒めともならぱ幸いなり。隠忍するとも日本人たるの衿持を失うなかれ。諸子は国の宝なり。平時に処し、なおよく特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平のため、最善を尽くせよ。

大西瀧治郎(1891年~1945年)は、海軍軍人(海兵40期)で、「神風特別攻撃隊」の創始者の一人です。終戦時に自決。最終階級は海軍中将。笹井醇一(海軍少佐、太平洋戦争のエース・パイロット)は甥(大西の妻・淑恵の姉である久栄の息子が笹井)です。

なお大西瀧治郎については、「神風特別攻撃隊(特攻隊)は誰が発案したのか?創設者の大西瀧治郎とは?」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

2.東條英機(とうじょうひでき)

東条英機

我ゆくも またこの土地に かへり来ん 國に酬ゆる ことの足らねば

これは「私はあの世に行くが、また再びこの土地に戻ってこよう。この国への恩返しが足りていないから」という意味です。

東條英機(1884年~1948年)は、陸軍軍人であり、太平洋戦争開戦時の首相として知られています。アメリカとの衝突を避けようとした中、開戦強硬派の陸軍幹部を抑えることができる人物として東條英機が首相に選ばれました。

彼自身も戦争回避への努力を続けていましたが、アメリカ側の強硬姿勢を変えられず、1941年12月8日にアメリカ・イギリスに対して宣戦布告し、太平洋戦争に突入しました。

その後、序盤は有利に進んだ戦局も次第に悪化し、重要拠点であったサイパン島を失陥して本土空襲が視野に入ってきた1944年7月18日、責任を取る形で内閣を総辞職し、そのまま敗戦を迎えました。

そして、敗戦後の1945年9月11日、彼は米軍による逮捕を前に拳銃自殺を図ったものの、米軍のMPによって救命され、主要戦犯容疑者の一人として「東京裁判」(極東軍事裁判)に出廷することになります。

東京裁判では、自己保身に走らず国家と天皇の擁護に徹した彼は死刑判決を受け、1948年12月23日、巣鴨拘置所で死刑に処せられました。

3.左近允尚正(さこんじょうなおまさ)

左近允尚正

絞首台何のその 敵を見て立つ 艦橋ぞ

左近允尚正(1890年~1948年)は、鹿児島県出身の海軍軍人(海兵40期。専攻は水雷)です。

タイ王国大使館付武官の時に太平洋戦争開戦を迎えました。1943年9月、第16戦隊司令官に就任し南方戦線に従軍。渾作戦、レイテ島輸送作戦(多号作戦)などを指揮しました。

1944年10月、中将に進級。12月、支那方面艦隊参謀長に就任し、終戦を迎えました。しかし、「ビハール号事件」(*)のBC級戦犯として逮捕され、イギリス軍により同国の植民地の香港のスタンレー監獄で絞首刑に処されました。

(*)「ビハール号事件」とは、重巡洋艦利根(艦長・黛治夫大佐)がインド洋でイギリスの商船「ビハール号」を撃沈した際に得た捕虜の殺害を命じた事件です。

捕虜殺害については、黛が指揮する「利根」が1944年3月18日に左近允が指揮する第16戦隊を脱し第7戦隊に復帰するよう命じられたため、シンガポールに向い、その途中に黛が実施しました。左近允は「自分が命令したのは作戦中のことであり、作戦後のことは命令していない」と主張し、黛は「左近允司令官の命令で殺害した」と主張しました。結局、左近允は絞首刑、黛は禁錮7年の判決が宣告されました。

ちなみに禁錮刑に処された重巡洋艦利根艦長の黛治夫(1899年~1992年)は、戦後、極洋捕鯨に入社し、捕鯨部にて捕鯨砲の開発や後進の育成に尽力し、93歳の天寿を全うしました。

海兵同期の寺岡謹平によると、左近允は「豪壮、恬淡、真に薩摩隼人の典型」であったということです。

4.牛島 満(うしじまみつる)

牛島満

秋を待たで 枯れ行く島の 青草は 御国(みくに)の春に またよみがへらなむ

牛島 満(1887年~1945年)は、薩摩藩士出身の陸軍中尉・牛島実満の子で、陸軍軍人です。陸士20期恩賜・陸大28期。最終階級は陸軍大将(自決直前の6月20日付で中将から昇進)。

牛島満が自決した6月23日は沖縄の人にとっては特別な日である「慰霊の日」です。

沖縄戦において、第32軍を指揮し自決しました。温厚な性格で知られ教育畑を歴任しましたが、指揮官としても沖縄戦以前に歩兵第36旅団長として武漢市、南京市攻略戦に参加しました。

1945年6月17日には、各部隊との連絡も取れなくなり、組織的な戦闘が不可能な状態となっていました。そのような状況で、沖縄侵攻作戦の最高司令官 サイモン・B・バックナー中将が牛島に向けて送った降伏勧告文が牛島の手元に届きましたが、牛島は一笑に付して、これを黙殺しました。翌18日に牛島は自決を決意し、大本営と第10方面軍に訣別電報を打電した後、各部隊次のような「最後の命令」を出しました。

親愛なる諸子よ。諸子は勇戦敢闘、じつに3ヶ月。すでにその任務を完遂せり。諸子の忠勇勇武は燦として後世を照らさん。いまや戦線錯綜し、通信また途絶し、予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり。諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし

この命令文は参謀の長野が作成し、最後の「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」の一項を長 勇(ちょういさむ)少将が付け加え、牛島がいつもの通り黙って裁可しましたが、この最後の命令が、結果的に終戦まで多くの日本兵や沖縄県民を縛ることとなり、多くの犠牲者を生みました。

これは、1945年2月14日に近衛文麿元首相が昭和天皇に対して、「敗戦は必至であるから早急に戦争を終結させるよう進言」(近衛上奏文)したにもかかわらず、「国体の護持(天皇制の維持)」にこだわり、「沖縄でもう一戦してからでないと有利な交渉ができない」と言って却下し、沖縄で多くの戦争犠牲者を出したこととオーバーラップします。

昭和天皇は、「米国は皇室抹殺論をゆるめておらず、徹底抗戦すべし」との梅津美治郎陸軍参謀総長の言葉に同意であるとし、軍の粛清を求める近衛に難色を示した上で、「もう一度戦果をあげてからでなければなかなか話は難しい」と答えました。

つまり、「早期講和ではなく、南西諸島で一度華々しい戦果をあげ、米英に対し有利な状況で講和を模索するべき」だという「一撃講和論」で、近衛の上奏を退けました。

天皇の言う「一撃」はこの時点では「沖縄戦」以外になく、天皇がこの時点で近衛の進言を受け入れていれば、「沖縄戦の悲劇(3月26日~9月7日)」も「東京大空襲による甚大な被害」も「広島・長崎の原爆投下(8月6日・8月9日)」もなかったと言えます。あくまでも「結果論」ですが・・・

5.松岡洋右(まつおかようすけ)

松岡洋右

悔いもなく 怨みもなくて 行く黄泉(よみじ)

松岡洋右(1880年~1946年)は、昭和初期に活躍した政治家・外交官です。彼は、子供の時に両親と共に渡米し、帰国してからは、満州鉄道の理事などを経て、第二次近衛内閣の外務大臣として、「日独伊三国同盟」の締結、「日ソ中立条約」の締結を行いました。

しかし、他の閣僚・軍との対立が大きくなり、近衛文麿首相は松岡洋右を外務大臣から更迭し、太平洋戦争へと突入していくこととなります。

日米開戦を見守るしかなかった松岡洋右は、終戦後、A級戦犯として裁かれることになりますが、晩年患った結核により1946年6月27日、66歳で亡くなりました。

6.永井隆(ながいたかし)

永井隆

白薔薇の 花より香り たつごとく この身を離れ 昇りゆくらむ

これは「目に見えぬ香気が自然に花から放散するように、無色無形の自分の魂も、自分の意思にかかわることなく、神の欲したもう時、この肉体から離れ去るであろう」という意味です。

永井隆(1908年~1951年)は、島根県出身の昭和時代の医学者です。

母校長崎医大の物療科部長のとき放射線障害を負い、さらに1945年8月9日の原爆で被爆するも、負傷者を救護しました。

カトリック教徒として原爆廃止を祈り、病床で「長崎の鐘」「この子を残して」などを口述しました。

『長崎の鐘』は、作詞:サトウハチロー、作曲:古関裕而による1949年(昭和24年)リリースの歌謡曲(歌:藤山一郎)として有名になりました。

歌詞は、医師・永井隆の随筆「長崎の鐘」をモチーフとして、サトウハチローが作詞しました。廃墟となった浦上天主堂の鐘楼「アンジェラスの鐘」は、現在も終戦当時のまま現地で保存されています。

サトウハチローの詞には、原爆を直接描写した部分は全くありません。これは当時の占領軍(GHQ)の検閲をはばかったものと思われます。これは単に長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌であり、打ちひしがれた人々のために再起を願った詞です。なお、サトウハチローの弟(節)も広島の原爆の犠牲者となっています。

2020年のNHK朝ドラマ「エール」では、古関裕而をモデルとする主人公が永井医師を訪ねるシーンがありましたが、実際には古関裕而は永井医師に会わずに『長崎の鐘』を作曲しています。

なお、古関裕而については「朝ドラ『エール』のモデル・古関裕而の戦時中の軍国歌謡と戦後の大変身」という記事に詳しく書いていますので、ご一読ください。

長崎の鐘 / 藤山一郎 昭和48年紅白歌合戦より

最初に歌った藤山一郎も聞きごたえがありますが、次にご紹介する鶫真衣さんの歌も心が癒される歌声です。

なお、彼女については「女性自衛官の鶫真衣(つぐみまい)の歌声には癒しの力があり、元気が出る!」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご一読ください。

【コロナに負けるな!】第6弾 中部方面音楽隊「長崎の鐘(鶫真衣)」いまこそ音楽の力で心をひとつに『終戦75年追悼』

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