「青天を衝け」の第一話で登場した慶喜の父徳川斉昭とはどんな人物だったのか?

フォローする



青天を衝け・徳川斉昭役の竹中直人

2021年2月14日に始まったNHK大河ドラマ「青天を衝け」第一話で、砲術家・高島秋帆(演:玉木宏)が罪人として捕らえられ「囚人籠」(唐丸籠)に入れられて代官たちに護送されて行くのを幼い渋沢栄一(1840年~1931年)が目撃する場面がありました。

今回の大河ドラマは、最初に徳川家康(演:北大路欣也)が登場して「日本の歴史」を紹介するという意表を突く演出がありました。

竹中直人が出てきた時には、私は「今度は豊臣秀吉が出てきたのか!?」と一瞬勘違いしましたが、彼は今回は徳川慶喜の父で水戸藩主の徳川斉昭の役でした。

1.徳川斉昭の人物像と生涯

(1)徳川斉昭の人物像

徳川斉昭(とくがわなりあき)(1800年~1860年)は、「御三家」(尾張・紀伊・水戸)の一つである水戸藩の第9代藩主で、第15代将軍徳川慶喜(1837年~1913年)の実父です。

号は景山・潜龍閣で、「烈公」と呼ばれる勤王家です。

藩政改革に成功した幕末の名君の一人に数えられていますが、「将軍継嗣問題」で大老・井伊直弼(1815年~1860年)との政争に敗れて永蟄居となり、そのまま亡くなりました。

正室のほかに9人の側室がおり、生涯に男女合わせて37人の子供をもうけていますが、その多くが各地の藩主になったり、藩主に嫁いだりしています。

徳川斉昭

(2)生い立ちから家督相続まで

彼は水戸藩第7代藩主・徳川治紀(1773年~1816年)の三男として水戸藩江戸小石川藩邸で生まれました。侍読・会沢正志斎のもとで「水戸学」(*)を学び、聡明さを示しました。

(*)水戸学とは

江戸時代の水戸藩において形成された学風・学問です。第2代水戸藩主・徳川光圀(1628年~1701年)によって始められた歴史書「大日本史」の編纂を通じて形成されました。

儒学思想を中心に、国学・史学・神道を折衷した思想に特徴があります。特に天保期以降、第9代藩主徳川斉昭のもとで「尊王攘夷思想」を発展させ、「明治維新の思想的原動力」となりました。

徳川光圀の時代の「前期水戸学」と徳川斉昭の時代の「後期水戸学」に分けられます。「後期水戸学」は藤田幽谷とその息子の藤田東湖・会沢正志斎・豊田天功らが中心でした。

治紀には成長した男子が4人いました。長兄・斉脩は次代藩主であり、次兄・松平頼恕は高松藩松平家の養子に、弟・松平頼筠は宍戸藩松平家の養子にと、早くから決まっていましたが、三男の斉昭は30歳まで「部屋住み」でした。

「斉脩の控え」として残されたようですが、生前の治紀から「他家に養子に入る機会があっても、譜代大名の養子に入ってはいけない。譜代大名となれば、朝廷と幕府が敵対した時、幕府について朝廷に弓を引かねばならないことがある」と言われていたそうです。

第8代藩主・斉脩が継嗣を決めないまま亡くなり、継嗣をめぐる騒ぎもありましたが、ほどなく遺書が見つかり、1829年に彼が第9代藩主となりました。

(3)藩政改革

1832年に有栖川宮熾仁親王王女・吉子女王と結婚しています。

藩政では、藩校・弘道館を設立して文武を奨励し、「門閥派」を抑えて、藤田東湖・会沢正志斎・安島帯刀・武田耕雲斎・戸田忠太夫など下士層から広く「改革派」の人材を登用することに努め、西洋式軍備を導入しました。

彼は1837年に次の4つの改革を掲げました。

①経界の義(全領検地)

②土着の義(藩士の土着)

③学校の義(藩校弘道館および郷校建設)

④総交代の義(江戸定府制の廃止)

また、「追鳥狩」と称する「大規模軍事訓練」を実施したり、農村救済のために「稗倉」を設置しています。さらに「国民皆兵路線」を唱え、西洋近代兵器の国産化を推進しました。

「蝦夷地開拓」や「大船建造の解禁」なども幕府に提言しています。その影響力は幕府のみならず全国に及びました。

宗教面では、寺院の釣鐘や仏像を没収して大砲の材料とし、廃寺や道端の地蔵の撤去を行いました。また村ごとに神社を設置することを義務付け、従来僧侶が行っていた「人別改め」などの民衆管理の制度を神官に移行しました。

このような「仏教抑圧および神道重視」の政策は、明治初期の「神仏分離・廃仏毀釈」の先駆けとなりました。

しかし、1844年に鳥居耀蔵らの排撃によって「鉄砲斉射事件」や前年の「仏教弾圧事件」を罪に問われて、幕命により家督を嫡男の慶篤に譲った上で、「強制隠居」と「謹慎処分」を命じられました。

その後水戸藩は、門閥派の結城寅寿が実権を握って専横を行いましたが、彼を支持する下士層の復権運動などもあって、1846年に謹慎を解除され、1849年には藩政関与が許されました。

1847年には、「慶喜を御三卿・一橋家の世嗣としたい」という第12代将軍徳川家慶の思召(意向)を老中阿部正弘から伝達されて、三男の慶喜に一橋家を相続させました。

(4)幕政参与

1853年の「ペリーの浦賀来航」に際して、老中首座・阿部正弘の要請により、「海防参与」として幕政に関わりましたが、「水戸学」の立場から強硬な攘夷論を主張しました。

この時江戸防備のために大砲74門を鋳造し、弾薬とともに幕府に献上しました。また江戸の石川島で洋式軍艦「旭日丸」を建造し、幕府に献上しています。

1855年には「軍制改革参与」に任じられましたが、同年に起きた「安政の大地震」で藤田東湖や戸田忠太夫らのブレーンが亡くなる不幸がありました。また1857年に阿部正弘が死去して堀田正睦が老中首座になると、さらに開国論に対して猛反対し、開国を推進する井伊直弼と対立することになります。

さらに第13代将軍徳川家定の「将軍後嗣問題」で、「徳川慶福を擁する南紀派」の井伊直弼らに対して、「実子の一橋慶喜を擁する一橋派」を形成して争いました。

しかし彼はこの政争に敗れ、1858年には井伊直弼が大老となって「日米修好通商条約」を無勅許のまま調印し、さらに慶福(家茂)を第14代将軍にしました。

一方、朝廷(孝明天皇)からは「日米修好通商条約の無勅許調印」を受けて、水戸藩に対して「攘夷を促す勅書」いわゆる「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」(*)が下されました。

(*)戊午の密勅の内容

①勅許なく「日米修好通商条約」に調印したことへの呵責と、詳細な説明の要求

②御三家および諸藩は幕府に協力して「公武合体」の実を成し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよとの命令

③上記二つの内容を、水戸藩から諸藩に廻達せよとの副書

このため1858年6月24日に「将軍継嗣問題および条約調印」をめぐり、実子の慶喜と慶篤・甥の尾張藩主徳川慶恕・福井藩主松平春嶽らとともに、「江戸城無断登城」の上、井伊大老を詰問したため、逆に「水戸での永蟄居」を命じられ、事実上政治生命を絶たれることになりました(安政の大獄)。

(5)最期

1860年8月15日に、蟄居処分が解けないまま水戸で急逝しました。同年3月に起こった「桜田門外の変」(*)から間もない時期であったため、彦根藩士に暗殺されたのではないかとの風説がありましたが、当時の彦根藩の調査では否定されています。

(*)桜田門外の変とは

1860年3月に江戸城桜田門外で、水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃し、大老井伊直弼を暗殺した事件です。

2.徳川斉昭の言葉と逸話

(1)言葉

・何事にても、我より先なる者あらば、聴くことを恥じず

(2)逸話

・礼儀作法に厳しい性格で、息子の慶喜が幼い頃寝相が悪かったため、枕の両脇に剃刀を立てて寝かせていたそうです。

・幼少期から「水戸学」の影響を受けたため、開国には猛反対しましたが、西洋の物品に対しては大いに興味を示したそうです。

・水戸家は毎年幕府から1万両の援助金を受けていましたが、彼は「祖公以来、35万石で暮らすことが本意であり、倹約するのはこの石高で暮らすためである。以後は奢侈を固く禁止し、節約を心掛けて拝領した石高で暮らすべきである。その事始めとして1万両は幕府に返上し、持高に応じた忠勤に励むよう。諸役人はこの趣旨に沿って生計を立てよ」と述べています。

・大の肉好きとして知られ、彦根藩から近江牛を贈られた時には、返礼の手紙を書いています。

・自邸で乳牛を飼っており、健康のために牛乳をギヤマンの器にいれて飲んでいたそうです。



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする