辞世の句(その20)明治・大正時代 乃木希典・乃木静子・正岡子規・甘粕正彦

フォローする



乃木希典・乃木静子夫妻

団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。

そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽ったりもします。

昔から多くの人々が、死期が迫った時や切腹するに際して「辞世(じせい)」(辞世の句)という形で和歌や俳句などを残しました。

「辞世」とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈(げ)、和歌・狂歌、発句・俳句またはそれに類する短型詩の類のことを指すようになりました。「絶命の詞(し)」、「辞世の頌(しょう)」とも呼ばれます。

「辞世」は、自分の人生を振り返り、この世に最後に残す言葉として、様々な教訓を私たちに与えてくれるといって良いでしょう。

そこで今回はシリーズで時代順に「辞世」を取り上げ、死に直面した人の心の風景を探って行きたいと思います。

第20回は、明治・大正時代の「辞世」です。

1.乃木希典(のぎまれすけ)

乃木希典

うつし世を 神去りましゝ 大君の みあと志たひて 我はゆくなり

これは「明治天皇は崩御されてしまった。明治天皇の後を慕い、私も行くとしよう」という意味です。

乃木希典(1849年~1912年)は、長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次の三男で、陸軍軍人・教育者です。日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇を慕い、あとを追って殉死したことで国際的にも有名です。最終階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。

明治天皇より第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めました。人々から「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれて深く敬愛され、「乃木神社」や「乃木坂」にも名前を残しています。

2.乃木静子(のぎしずこ)

乃木静子

いでまして 帰ります日の なしと聞く 今日のみゆきに あふぞ悲しき

これは「お出かけになったままお帰りにならないと聞きました。今日の明治天皇の大葬に立ち会うのは悲しい」という意味です。

乃木静子(1859年~1912年)は、薩摩鹿児島藩医・湯地定之の娘で、乃木希典の妻です。

明治天皇大葬の日の大正元年9月13日に、夫とともに殉死しました。

夫・希典の遺書には、死後のことで不明な点は静子に聞くよう記されていました。つまり希典は、遺書を書いた時点では静子が自分と共に死ぬことを想定していなかったようです

しかし、静子は4人の子供全員(うち2人は夭折、残る2人は日露戦争で戦死)に先立たれたショックから立ち直ることができず、夫と共に死ぬ道を自ら選んだのではないかとも言われています。

3.正岡子規(まさおかしき)

正岡子規

正岡子規の辞世の句は、死の前日に詠んだ次の3句(糸瓜三句)です。

糸瓜(へちま)咲て 痰のつまりし 佛かな

これは「糸瓜の花が庭の棚に明るく咲いているが、私はこのひどい痰で窒息して仏になってしまうのか」という意味です。

痰一斗 糸瓜の水も 間にあはず

をとゝひの へちまの水も 取らざりき

子規は、庭に植えた糸瓜の水を痰の治療に使っていたようです。

子規は、晩年の8年間は脊椎カリエスに苦しみ通しで、上記の「糸瓜三句」を詠んだ明治35年は寝たきりの日々で、這っても一人ではトイレに行くこともできずに母と妹の律の手を借りていました。

病床には昼夜交代で、俳人の高浜虚子河東碧梧桐、歌人の伊藤左千夫や長塚節たちが見守っていました。

足は、膨れ上がって動かせない状態です。これほど皆の助けの中でしたが、痛いのは子規で、堪えるのも子規自身です。その病床で子規は、俳句革新、短歌革新を成し遂げたのでした。

正岡子規(1867年~1902年)は、伊予(愛媛県)松山生まれの俳人・歌人です。本名は常規(つねのり)。別号は獺祭書屋主人(だっさいしょおくしゅじん)・竹の里人(たけのさとびと)。

帝国大学文科大学退学後、日本新聞社に入社。平明な写生句を特徴とする日本派俳句を確立、雑誌「ホトトギス」の創刊以来、指導者的役割を果たし、写生文を提唱しました。夏目漱石の親友としても有名です。

また、写生主義と万葉調を主唱して「根岸短歌会」を結成し、短歌革新運動を行ない、「アララギ派」の基礎を築きました。門下に、伊藤左千夫、長塚節、高浜虚子、河東碧梧桐らがいます。

なお正岡子規の俳句については、「鶏頭論争というのは、俳句の解釈と評価の難しさを如実に表した論争です」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

4.甘粕正彦(あまかすまさひこ)

甘粕正彦

大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん

これは、自らの人生と満洲国の運命を掛けたものです。

甘粕正彦(1891年~1945年)は、陸軍憲兵大尉時代に「甘粕事件」(無政府主義者大杉栄らを殺害した事件)を起こしたことで有名な陸軍軍人です。短期の服役後、日本を離れて満州に渡り、関東軍の特務工作を行い、満州国建設に一役買いました。満州映画協会理事長を務め、終戦直後、服毒自殺しました。

関東大震災 のどさくさに紛れて、無政府主義者の大杉栄とその妻・幼い甥の3名を殺害したとされています。

映画「ラストエンペラー」の中では、坂本龍一扮する甘粕正彦元陸軍大尉が満州国の黒幕として登場しています。

満州映画協会を設立した甘粕は、多くのプロパガンダ映画をつくった一方、出演者や映画スタッフとも気軽にコミュニケーションを図ったと言われています。スパイであり、幾多の殺人にも関わる一方、子供のように無邪気に芸術と文化の振興を指揮する面を見せるなど、振り幅の多すぎる人物です。

謎の多い甘粕という人物をよく知る当時の部下たちの有名俳優、女優の証言を次に紹介します。

森繁久彌は甘粕について、「満州という新しい国に、我々若い者と一緒に情熱を傾け、一緒に夢を見てくれた。ビルを建てようの、金を儲けようのというケチな夢じゃない。一つの国を立派に育て上げようという、大きな夢に酔った人だった」と証言しています。

武藤富男(元裁判官で、満州国司法部刑事科長や満州国協和会宣伝科長を務めた人物)は、「甘粕は私利私欲を思わず、その上生命に対する執着もなかった。彼とつきあった人は、甘粕の様な生き方が出来たら…と羨望の気持ちさえ持った。また、そこに魅せられた人が多かった」と述べています。

李香蘭こと山口淑子(女優・歌手、戦後参議院議員も務めた)「満映を辞めたい」と申し出た際には、「気持ちは分かる」と言って契約書を破棄しましたが、彼女の証言によれば「ふっきれた感じの魅力のある人だった。無口で厳格で周囲から恐れられていたが、本当はよく気のつく優しい人だった。ユーモアを解しいたずらっ子の一面もあるが、その度が過ぎると思うことも度々だった。酒に酔うと寄せ鍋に吸殻の入った灰皿を入れたり、周囲がドキリとするような事をいきなりやった」とのことです。

権力を笠に着る人間には硬骨漢的な性格を見せ、内地から来た映画会社の上層部を接待した席で彼らが「お前のところの女優を抱かせろ」と強要した際に、「女優は酌婦ではありません!」と毅然とした対応をしたということです。

これら周囲の人間の好意的な証言がある一方で、ヒステリックで神経質、官僚的という性格が一般には知られていました。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村