残念な天皇の話(その11)。武烈天皇はローマ皇帝ネロのような暴君だった!?

フォローする



武烈天皇

「暴君ネロ」という古代ローマ皇帝がいましたが、日本の天皇にも彼に匹敵するような暴君がいました。

1.「暴虐の大君」武烈天皇とは

古墳時代(3世紀中頃~7世紀頃)に第25代天皇となった武烈天皇(ぶれつてんのう)(489年~507年、在位:499年~507年)は、名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさぎきのみこと)で、「暴虐の大君」と呼ばれる人物です。

武烈天皇系図

父は仁賢天皇で、母は雄略天皇の皇女・春日大娘皇女です。皇后は春日娘子(かすがのいらつめ)ですが、子女はなく、第16代仁徳天皇の血統はここで断絶します。

古事記には「日続知らすべき王無かりき」とあり、日本書紀にも「男女無くして継嗣絶ゆべし」とあります。

同母姉妹に手白香皇女(継体天皇の皇后・欽明天皇の母)、橘仲皇女(宣化天皇の皇后)らがいます。

494年に彼は皇太子となりましたが、498年に父の仁賢天皇が崩御すると、大臣の平群真鳥(へぐりのまとり)が国政の実権を握って権勢を振るい、他の豪族の大伴金村(おおとものかなむら)らは苦々しく思っていました。

一方、彼は、物部麁鹿火(もののべのあらかび)の娘・影媛(かげひめ)と婚約したいと思いましたが、彼女はすでに平群真鳥の息子・鮪(しび)と通じていました。

「海柘榴市(つばいち)」(現在の桜井市)の若い男女が集まる「歌垣」において鮪との歌合戦に敗れた彼は怒り、大伴金村に命じて鮪を誅殺し、その後平群真鳥をも討伐させました。

そして499年に即位して、都を泊瀬列城に定め、大伴金村を大連(おおむらじ)としました。

2.武烈天皇の悪行が記載された「日本書紀」

日本書紀には、「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」(悪いことをしきりに行い、一つも良いことを行わなかった)とあり、彼が天皇に在位していた8年間に行ったさまざまの悪逆非道の行為が列挙されています。異常性格者の猟奇殺人事件のようです。なお、古事記にはこのような記述は一切ありません。

また、明治憲法下の戦前の日本書紀では、「万世一系の天皇」「神聖不可侵の現人神(あらひとがみ)である天皇」「仁政を施す天皇」にふさわしくないと考えたためか、この記述部分は削除されていたそうです。

・孕婦の腹を割きて其の胎を観す(妊婦の腹を裂いてその胎児を見た)

・人の爪を解きて芋を掘らしめたまふ(人の爪を抜いて芋を掘らせた)

・人の頭髪を抜きて梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、登れる者を落死すことを快としたまふ(人の髪を抜いて木登りをさせ、木の根元を切り倒し、登らせた者を落とし殺して面白がった)

・人を塘の桶に伏せ入らしめ、外に流出づるを三刃の矛を持ちて刺殺すことを快としたまふ(人を池の桶に入らせ、そこから流れ出る人を三つ刃の矛で刺し殺して喜んだ)

・人を樹に昇らしめ弓を以ちて射墜として咲(わら)いたまふ(人を木に登らせて弓で射落として笑った)

また彼は、宮中では出廷退廷の時間もいい加減で、贅沢と酒池肉林に明け暮れ、一日中淫靡な音楽を奏でさせ、民のことや政治のことを顧みなかったとあります。

これはあたかも古代中国の王朝滅亡時の王(夏の桀王や、妲己を寵愛した殷の紂王など)の行動を彷彿とさせます。

武烈天皇は、遡ると第16代仁徳天皇に行き着くのですが、仁徳天皇と言えば次の歌にあるように「仁政を敷いた天皇」というイメージがあります。新古今集にあるこの歌は、仁徳天皇の御製ではなく、古代の聖帝として有名な仁徳天皇を偲んで後世に詠まれたもののようです。

重税に苦しむ民のために3年間租税を免除し、そのために宮殿の雨漏りはひどく、天皇は屋根の破れ目から星の光が見えるような中で寝ていたとのことです。これはかなり誇張だと思いますが・・・

高き屋に 登りて見れば 煙立つ 民のかまどは にぎはひにけり

しかし、その末裔はとんでもない天皇だったということですね。

3.継体天皇との関係

日本書紀」と言えば、「日本の海外向け公式歴史書」なので、その中に「身内の恥をさらす」ような暴君の記事を記載するのはちょっと腑に落ちません。

これは、第26代天皇の継体天皇が、武烈天皇の「仁徳天皇系」とは血統が異なる全く別の地方の一豪族の血統の可能性が高いことから、継体天皇の正統性を強調するために武烈天皇の悪行が記載されているのかもしれません。「歴史は勝者によって作られる」とも言われますので。

継体天皇の後に続く天皇は、一応「応神天皇系」となりますがかなりの「傍系」なので、血統の途絶えた「仁徳天皇系」の武烈天皇の悪行の記録をそのまま残したとも考えられます。

ただ継体天皇が直接「日本書紀」の編纂に関与したわけではありませんし、その後の天皇が古くからある天皇に関する史料を改ざんしたり捏造したとも考えにくいので、やはり武烈天皇が「暴君」だったのは確かなようです。

古代中国でも、秦の始皇帝(BC259年~BC210年)がBC213年に行なった「焚書坑儒」などの悪逆非道な思想言論弾圧の記録が残っていますので、史実の記録という意味では真っ当とも言えます。

ちなみに第26代天皇の継体天皇(450年?~531年)は、第15代応神天皇の「傍系」と言われています。古事記や日本書紀にも「応神天皇の五世の子孫である」との記述があります。

応神5世孫とされているものの、その間の系譜が明らかでないことから、地方の一豪族で、大和王権の混乱に乗じて皇位を簒奪(さんだつ)した新王朝の始祖とする見解が有力です。

古事記や日本書紀にある神武天皇が実在していたとすると皇室は2600年以上の歴史があることになりますが、「王朝交代説」によれば、第26代継体天皇は「初代神武天皇から第25代武烈天皇までの皇統」とは全く別の地方豪族だということです。継体天皇は、「実在と系譜が確実な最初の天皇」と言われています。



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする