江戸時代の碩学である新井白石が書簡の中で「徒然草」を引用した笑いと機知

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新井白石肖像

江戸時代に「徒然草」が一種のブームとなり、広く親しまれるようになりましたが、碩学の新井白石も書簡の中で「徒然草」を引用しています。

1.新井白石が「徒然草」を引用した書簡

「又申し候/唐金(からかね)と申し候称号、近頃珍しく覚え候。いかさま由緒これ有るべき事か。なにぞこなたに記し置かれ候事も候べく候。折々申し通じて、家姓の事知り候わぬは、『徒然草』のやすら殿に候。心静かに候時、委細御申し越し候べく候。已上(いじょう)/白石」

これは「追伸文」です。宛先は和泉佐野の富豪文人の唐金梅所(からかねばいしょ)です。

その唐金という珍しい苗字について、由来を教えてほしいと頼んでいるのです。日本の歴史や民俗にも興味を持っていた白石らしい質問です。

2.『徒然草』のやすら殿とは

『徒然草』90段にある話です。

大納言法印だいなごんほふいん使つかひし乙鶴丸おとづるまる、やすら殿といふ者を知りて、常に行きかよひしに、或時あるときでて帰り来たるを、法印ほふいん、「いづくへ行きつるぞ」と問ひしかば、「やすら殿どののがりまかりてさうらふ」と言ふ。「そのやすら殿は、をとこか法師か」とまた問はれて、そでき合せて、「いかゞ候ふらん。かしらをば見候はず」と答へ申しき。

などか、頭ばかりの見えざりけん。

現代語訳は次の通りです。

大納言法印の召使いだった乙鶴丸は、やすら殿という人と仲が良かった。いつも遊びに出かけるので、法印が、乙鶴丸が帰宅した時に「どこをほっつき歩いているのだ」と尋問した。「やすら殿のお宅へ遊びに行っていました」と答えるので、法印は「やすら殿は、毛が生えているのか? それとも坊主か?」と再尋問した。乙鶴丸は、袖をスリスリしながら「さあ、どうでしょう。頭を拝見したことが無いもので」と答えた。

ちなみにこれは、乙鶴丸とやすら殿との男色関係を前提とした艶笑話です。

つまり僧侶と稚児(寺に仕える小さな子)の間で慣習的に行われていた『男色・同性愛』についての話です。法印(高位の僧侶)は、自分のお気に入りの稚児である乙鶴丸が、他の僧侶と浮気しているのではないかと嫉妬しているような口ぶりです。

3.「唐金(からかね)」という苗字の由来

「唐金(からかね)」という苗字の由来は、「青銅の別名である唐金で製造した杓子」からです。大阪府泉佐野市で江戸時代に佐藤姓の海運業者が稼いだ金銀を唐金の杓子で掬って「唐金屋」と称していたと伝えられます。大阪府泉佐野市大西に分布がある苗字です。

4.新井白石とは

新井白石(あらいはくせき)(1657年~1725年)は、江戸時代中期の学者・政治家です。白石は号で名は君美。木下順庵に朱子学を学び,甲府侯徳川綱豊に仕えました。綱豊が6代将軍家宣 (いえのぶ) になるとともに幕政に参加し、いわゆる「正徳の治」を行ないました。

政治上の事績としては「武家諸法度」の改訂、貨幣の改鋳、長崎貿易の制限、儀式典礼の整備などがあげられます。吉宗が8代将軍になるとともに政界を退き、以後は学問に専念しました。

学者としてもすぐれ、合理性と実証を重んじ、歴史学・地理学・国語学・兵学など多方面に才能を発揮しました。漢詩人としても高く評価され、『藩翰譜 (はんかんぷ) 』 (1701) 、『折たく柴の記』 (16起筆) などすぐれた著書を残しています。

ほかに,語源を研究した『東雅』 (19) 、綴字法について研究した『東音譜』、文字を研究した『同文通考』、外国の事情について記した『采覧 (さいらん) 異言』 (13) 、『西洋紀聞』 (15) 、日本歴史について論じた『読史余論』 (12) 、『古史通』 (16) などの著書があり、現在でもそれぞれ高く評価されています。

余談ですが、新井白石が朝鮮通信使と国書交換について、朝鮮側の無礼に対して応酬したことが自伝『折たく柴の記』に書かれています。

豊臣秀吉に派遣された1590年と1596年の「朝鮮通信使」は、文禄の役(1592年~1593年)と慶長の役(1597年~1598年)の発端と密接に関係しています。

江戸時代に入って再開されますが、新井白石は朝鮮通信使接待が幕府財政を圧迫するとして簡略化させました。ただ、このことは朝鮮に最も近い対馬藩の藩儒である雨森芳洲との対立を招きました。対馬藩としては、対朝鮮の「最前線」なので、朝鮮との関係険悪化を避けたかったということでしょう。

新井白石が六代将軍徳川家宣の侍講として、間部詮房と共に政権中枢にいたころ、朝鮮通信使と国書交換についての応酬を行ったという逸話を藤沢周平の小説「市塵」で読んだ記憶があります

「日本側の返書に七代前の朝鮮国王の諱名(いみな)の文字が入っているのは無礼であるから削除せよと猛抗議を受けました。これに対して白石はそれはおかしいと異議を申し立てます。そもそも7代前というのは、中國の資料によっても影響がないはずだ、仮にあるとしても朝鮮王の国書にも家光の光の字を用いているではないか?自らの振る舞いを顧みず礼と言えるか?と迫りました。」

朝鮮は、昔からいろいろと理不尽な難癖をつける国だったということでしょうか?



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