江戸時代の笑い話と怖い話(その21)。知恵や魂は肉体のどこに宿るのか?

フォローする



健全な精神は健全な肉体に宿る

1.健全な精神は健全な肉体に宿る?

「健全な精神は健全な肉体に宿る」という有名な言葉があります。これは古代ローマの風刺詩人ユウェナリス(60年~128年)の名言です。英語ではA sound mind in a sound bodyです。

この言葉は現代では「身体を健康に保っておけば、おのずと精神も健康になる」という意味だと思っている方が、ほとんどだと思います。

では現実的に、身体が健康な人は皆、精神も健康でしょうか?明らかにそれに反するような事件が、いろいろ起きています。また、あまり健康ではなかっても、学問や芸術などの分野で素晴らしい業績を挙げた人はたくさんおられます。

実はユウェナリスの『風刺詩集』には「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである」と書かれているのです。つまり「そうであればいいのに…」という願望を表現したもので、ユウェナリスは「現実はそうでないことが多い」ことを嘆き、訴えていたわけです。

2.知恵は肉体のどこに宿るのか?侍と町人で宿る場所が異なる!?

では精神や魂、知恵や心はどこに宿っているのでしょうか?

現代の常識から言えば、頭や脳ですよね。しかし、「心臓」には「心」という字が入っています。「精神や魂、知恵や心」は「精神的なもの」なので、物理的に「これだ」と示すことはできません。いささかスピリチュアルな問題になります。

(1)『上杉軍記』にある怖い話

上杉謙信と上杉景勝二代の軍記物である『上杉軍記』(原題:春日山日記)の中に上杉景勝が語ったという次のような怖い話があります。

はもと心の臓(しんのぞう)より思案工夫して分別するものなるゆえ、科(とが)あれば切腹申し付くる。下人(げにん)は首もとにて思案するゆえ、しまりなく落ち着きたる分別なし。このゆえに科あれば首を切る

侍は腹ないし胸の中にある心で考えるから、罪があれば腹を切らせ、下人は頭で考えるから、首を切るという理屈です。

このような「肉体と精神についての考え方」が一般的だったかどうかは定かではありませんが、「頭の方にあるのは浅知恵」というとらえ方は、「頭でっかちな考え」とか「あの人には心がない」という言い方もあります。

知恵の浅深を見極めようとした古人の感覚から見ると、現代の「頭が良い・悪い」は、理解の速さや記憶の量に偏った底の浅い言葉のようです。

著名な経済学者アルフレッド・マーシャルの名言「Cool Head, but Warm Heart」に通じるものがあります。彼はケンブリッジの学生たちをロンドンの貧民街に連れて行き、次のように言ったそうです。

経済学を学ぶには、理論的に物事を解明する冷静な頭脳を必要とする一方、階級社会の底辺に位置する人々の生活を何とかしたいという温かい心が必要だ。

確かに説得力のある言葉ですね。

(2)『好色一代女』より「濡問屋硯(ぬれのといやすずり)」

井原西鶴の『好色一代女』の「濡問屋硯」に「頭にばかり知恵の有る男」という表現が出てきます。

主人公の一代女は、大坂で問屋の「蓮葉女(はすはおんな)」となります。蓮葉女とは、問屋に抱えられて、各地からやってくる顧客の床の相手をする女のことで、刹那的、享楽的な生き方をする者が多かったようです。「はすっぱ」の起源となった言葉です。

一代女は秋田から来た客と仲良くなり、腹に子ができたなどと偽って、結婚を迫ります。困った客が問屋の「重手代(おもてだい)の、頭にばかり知恵の有る男」を頼み、カネで示談にするという話です。

重手代とは、古参の手代のことで、「頭にばかり知恵の有る」とは、ひねった表現で、「人情の機微に通じた賢い男ならば別の解決法もあるのに」と言外に匂わせています。

つまり、「本当の知恵は頭以外の場所にある」という考え方です。

3.西洋解剖学の影響を受けた漢学者は「魂は脳に宿る」と考えていた!

そもそも人の精神は目に見えないものなので、それが肉体のどこに宿っているかは、必ずしも自明の問題ではありません。

ただ「胸の内」とか「腹に一物」という言葉もあるように、昔の日本人は胸や腹と考えるのが一般的だったようです。

その影響か、「脳死」については今でも頭ではわかっていても、腹に落ちない人が多いのでしょう。

松本鹿々(まつもとろくろく)という人が著した『長寿養生論』に京の漢学者岩垣松苗(いわがきまつなえ)(1774年~1849年)が刪補(記事を削ったり増補したりすること)を加えた『刪補長寿養生論(さんぽちょうじゅようじょうろん)』に、魂のありかについて次のような記述があります。

「こころ」というところへ「心」の字を当てるも、場所を取り違えしなり。心の臓は、胸中にありて血をこしらへる官(やく)にて、出し入れ殊の外忙しく、静かならぬ臓にて神明(精神)の舎(やどり)になるべき臓にあらず。されども漢土(中国)にては医者、解体の学(解剖学)に熟せず、神明の宿る場所を解し得ぬ故、心の臓を魂の住処と思い、「こころ」といふ場所に「心」の字を用ひ来たるなり。

つまり、和語の「こころ」に心臓の象形文字である「心」の漢字を当てるのは、中国人の間違った考え方を受け継ぐもので不適切だと述べているのです。

そして、「一身の君主たる魂の住処は、頭脳中にある玉液の如き、透き通るように清き、脂の如き液中についてあるなり」と、魂は脳に宿ると断言しています。



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする