南北朝時代をわかりやすく解説!生前退位を機に、天皇家の祖先についても考える

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後嵯峨天皇

2019年4月30日に、私が皇室の中で一番親しみ深い天皇が生前退位され、上皇となられました。日本の皇室(天皇家)は「世界最長の歴史を誇る王室」と言われ、明治時代に作られた「大日本国憲法」では第一条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と書かれていました。しかし、過去の歴史を振り返ると不可解な「南北朝時代」というものがあります。

前に私の素朴な疑問であった「皇居や京都が空襲を免れた理由」の記事を書きましたが、今回は、この不可解な南北朝時代や天皇の祖先について考えてみたいと思います。

1.南北朝時代とは何か

足利尊氏京都で明天皇(北朝)を擁立したのに対し、吉野で醍醐天皇(南朝)が新たな朝廷を開いた延元元年(1336年から、北朝第六代・後小松天皇に対して南朝第四代・後亀山天皇が譲位して両朝が合一した元中9年(1392年までの56年間が「南北朝時代」です。その間、南朝と北朝との間でたびたび軍事衝突が繰り返されました。

南北朝時代の発端は、1242年に即位した後嵯峨天皇です。この天皇は久仁親王(後の後深草天皇)が誕生すると自分が実権を握り続けるために、わずか在位4年で息子の久仁親王に譲位し、自らは上皇として「院政」を開始します。

しかしその後も実権を握り続けるために、1259年に後深草天皇に対し、1249年に誕生した次男の恒人親王(後の亀山天皇)へ譲位するよう迫ります。

このように院政に固執し続けた後嵯峨上皇ですが、どちらの系統を次の天皇にするかを決めないまま、1272年に崩御してしまいます。

その結果、どちらの系統が実権を握るかの対立が生じ、交互に天皇を誕生させる「両統迭立(りょうとうてつりつ)」が始まったのです。

1318年に即位した後醍醐天皇は、両統迭立を認める鎌倉幕府に不満を抱き、倒幕計画を立てますが事前に発覚して幕府に捕らえられ、隠岐島へ流されます。

しかし、隠岐島からの脱出に成功し、足利尊氏や新田義貞の助力も得て、再び倒幕に向けて挙兵したので、鎌倉幕府は滅びます

後醍醐天皇は自ら新政を開始(建武の新政)しますが、この新政はあまりにも革新的なものであったため、公家も武士も離反し、足利尊氏も離反します。

このため、後醍醐天皇は新田義貞や北畠顕家に足利尊氏討伐を命じ、湊川の戦などが起こります。

しかし、足利尊氏方に敗れた後醍醐天皇は和睦し、京都を脱出して吉野に逃れます。こうして後醍醐天皇が去ると、足利尊氏は北朝の光明天皇を擁立して建武式目を制定し、室町幕府を開きます。

南朝方として後醍醐天皇に忠義を尽くして湊川の戦で討死した楠木正成の銅像が皇居前広場にあるのも奇妙な話ですが、これは、明治天皇が何を勘違いしたのか「自分は南朝方である」と発言したことからのようです。

このほか「南朝の末裔である大室寅之祐という人物が、本来皇位に就くべき北朝系統の人物に代わって明治天皇にすり替った」という見方もあるようです。真偽のほどは藪の中ですが・・・

2.天皇家の祖先

私が高校生の時、歴史の教師だったと思うのですが、「今の天皇だって、元々はどこの馬の骨だかわからない」と不謹慎な、戦前なら「不敬罪」で逮捕されそうな話をしたことがあります。

ただ、その根拠は次のような趣旨だったと記憶しています。

(1)「天照大御神」という神話上の「神」の子孫の「神武天皇」の母親は、海神の娘「玉依姫」というが、そもそも何者かわからない。「巫女」「呪術者」だったのかも知れない

(2)天智天皇の太子「大友皇子」に対して、皇弟「大海人皇子」(後の天武天皇)が挙兵して勃発した皇室同士の内乱である「壬申の乱」(672年)で、クーデターを起こした反乱者である大海人皇子が勝利しているから「万世一系」というのは全くの嘘

(3)平安時代末期に幼い安徳天皇が入水して亡くなっているので、そこで皇統は一旦途切れているから「万世一系」というのは全くの嘘

これについての史実は、安徳天皇は中宮の平徳子(後の建礼門院)の子ですが、彼の次の天皇には、安徳天皇の父親である高倉天皇が側室(坊門信隆の娘)に産ませた後鳥羽天皇が即位しています。つまりが安徳天皇の「異母弟」が天皇になったわけです。

(4)南北朝時代に南朝と北朝に分かれて対立し、どちらも正当な天皇だと主張して争ったが、結局足利尊氏によって北朝が正統として決着した。この意味でも「万世一系」というのは全くの嘘

近世以来、「南北朝正閏論争」(南朝と北朝のいずれが正統かについての論争)が盛んに行われて来ました。

(5)明治天皇までは天皇は皇后のほかに側室を持ち、側室の子供が多く天皇になっている。その側室は、身分の低い者(民間人)であっても、一旦公家の養女などにして、公家の息女として入内させることもあったと思われるので、もとはと言えば「平民」に過ぎない

余談ですが、奈良時代には「東洋のラスプーチン」とも呼ばれる道鏡という僧侶が祈祷を通じて孝謙天皇(女帝)に取り入って寵愛され、自ら天皇になることを画策したことがあります。しかし道鏡は和気清麻呂によってその野望を打ち砕かれます。

平安時代には藤原道長や平清盛が娘を入内させて、天皇家と姻戚関係を結びました。室町時代には足利義満が皇位簒奪を画策した歴史があります。

また「万世一系」ではない論拠として、「第26代継体天皇から別系統の王朝に代わった」とする説もあります。ヤマト王権とは無関係な地方豪族が皇位を簒奪し、現在の皇室にまで連なる新王朝を創始したとする「王朝交代説」です。

古事記や日本書紀にある神武天皇が実在していたとすると皇室は2600年以上の歴史があることになりますが、「王朝交代説」によれば、第26代継体天皇は初代神武天皇から第25代武烈天皇までの皇統とは全く別の地方豪族だということです。継体天皇は、「実在と系譜が確実な最初の天皇」と言われています。

ただ継体天皇が初代天皇と考えても、1500年以上の「世界最長の歴史がある王室」に変わりありません。

ちなみに「真の継体天皇陵」と言われる前方後円墳の「今城塚古墳」は高槻市にあり、「今城塚古墳公園」として整備されています。

余談ですが、2019年7月6日に、大阪府の「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」がユネスコの世界文化遺産に登録されたことで、「古墳巡り」の人気が高まっていますが、9月2日付けの日経電子版「NIKKEI STYLE」によれば、全国で一番人気の高いのは、「今城塚古墳」だそうです。人気の秘密は「立ち入り自由な大王の墓」だからです。(2019/9/2追記)

なお、宮内庁が「継体天皇陵」としている茨木市の「太田茶臼山古墳」は継体天皇より前の誰か別の天皇か豪族の古墳と見られています。

この「太田茶臼山古墳」は宮内庁が厳重に管理していて、研究者が立ち入ったり発掘調査することができない状況です。今や「継体天皇陵」でないことが証明されているのに、頑なに「継体天皇陵」だと称して、後生大事に守っているのは滑稽な感じさえします。

3.皇后(中宮)の子と側室の子

孝明天皇も側室の子供ですが、明治天皇も孝明天皇の皇后(九条夙子)の子供ではなく、三位局の中山慶子が母親です。大正天皇も昭憲皇后の子供ではなく、二位局の柳原愛子が母親です。

戦前ながら、大正天皇と昭和天皇は側室を持ちませんでした。男子が生まれるまでは「皇統存続のための側室の必要性」を主張する人がありましたが、それぞれ男子が生まれたため「側室設置」の声は立ち消えになりました。

高森明勅氏の調査によると、124回の皇位継承のうち、約半分の59回が「庶系継承」(側室の子)だったそうです。

4.現人神の否定(人間宣言)と大嘗祭存続の矛盾

昭和天皇も、戦前は「現人神(あらひとがみ)」とされ、国家神道という宗教の主宰者のような存在に祭り上げられていました。

現人神とは、「この世に人間の姿で現れた神」という意味で、キリスト教におけるイエスのような存在だったのでしょうか?しかし戦後GHQの指示によって「人間宣言」をさせられました。

ただ、「宮中祭祀」の「大嘗祭」は、明らかに宗教行事で、いまだに天皇の祖先として「天照大御神」が出てくるのは、訳が分かりません。

秋篠宮が「大嘗祭は宮中の宗教行事なので、3億円の内廷費の範囲内で行うべきで、22億円もの国費支出は適切でない」と異議を唱えましたが、日本国憲法の「政教分離」の観点からも、これは真っ当な意見だと私は思います。