鎌倉幕府3代将軍(鎌倉殿)の源実朝はどんな人物だったのか?暗殺の黒幕は?

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源実朝

今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。

「鎌倉殿の13人」では、ミュージカル出身の俳優である柿澤勇人(かきざわ はやと)さんが源実朝を演じています。

前に「源頼朝」と「源頼家」の記事を書きました。

歌人としても有名な第3代将軍の源実朝は、鶴岡八幡宮の大銀杏の下で頼家の子の公暁に暗殺されたことはよく知られていますが、どのような人物だったのでしょうか?

そこで今回は源実朝について、わかりやすくご紹介したいと思います。

鎌倉将軍三代の系図

1.源実朝とは

源実朝

源実朝(みなもと の さねとも)(1192年~1219年)は、鎌倉幕府第3代征夷大将軍です。

鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就きました。

政治は初め執権を務める北条氏などが主に執りましたが、成長するにつれ関与を深めました。

官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられましたが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺されました。これにより、鎌倉幕府の源氏将軍は断絶しました。

歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれています。家集として『金槐和歌集』があります。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされています。

2.源実朝の生涯

(1)生い立ちと幼年期

彼は1192年に源頼朝と北条政子の間に生まれました。次男であり、兄は第2代将軍となった源頼家です。幼名は千幡で、乳母は政子の妹の阿波局(あわのつぼね)です。

千幡は若公として誕生から多くの儀式で祝われました。12月5日、頼朝は千幡を抱いて御家人の前に現れると、「みな意を一つにして将来を守護せよ」と述べ面々に千幡を抱かせました。

長男の源頼家は武芸に長けた人物でしたが、彼は兄とは正反対で和歌や蹴鞠など朝廷貴族の文化を好む人物でした。

(2)将軍就任

彼が鎌倉幕府の第3代将軍になったのは1203年です。

頼家の将軍在位を望む比企氏と実朝を新たに将軍にしようとする北条氏が争い、比企一族が敗北し滅亡しました。これによって兄の頼家は鎌倉から追放され出家し、その後北条氏に担ぎ出される形で彼が第3代将軍となりました。

当時の彼の年齢はわずか11歳で、政治の実権は幼い将軍ではなく、将軍を補佐するという名目で北条時政が握りました。

北条時政は、彼の乳母である阿波局の父であり、北条時政と彼の関係は、祖父と孫のようなものでした。

北条時政は、所領裁判など本来将軍が判断すべき決定権限を全て自身の署名で行うようになり、権力を掌握します。これが後の執権政治の始まりとも言われています。

(3)騒乱と傀儡将軍

1205年、北条時政は実朝を排除して娘婿の平賀朝雅(ひらがともまさ)という人物を将軍にしようと企みます。

実朝のおかげで北条時政は権力者になれたにもかかわらず、なぜ時政がこんな行動をしたかというと、後妻の「牧の方」という女性に誑(たぶら)かされたからです。

ちなみにNHK大河ドラマの「鎌倉殿の13人」では、宮沢りえが「牧の方」を演じています。

元久2年(1205年)6月、「畠山重忠の乱」が起こり、北条義時、時房、和田義盛らが鎮圧しました。乱後の行賞は政子によって計らわれ、実朝の幼年の間はこの例によるとされました。閏7月19日、時政邸に在った実朝を暗殺しようという「牧の方」の謀計が鎌倉に知れ渡ります。

実朝は政子の命を受けた御家人らに守られ、義時の邸宅に逃れました。「牧の方」の夫である時政は兵を集めようとしましたが、兵はすべて義時邸に参じました。20日、時政は伊豆国修禅寺に追われ、執権職は義時が継ぎました。これが「牧氏事件」と呼ばれるものです。

時政失脚後は、時政の娘・息子の北条政子・義時が政治の実権を握るようになります。

こうした中で、実朝は次第に都の公家文化に親しみを覚えるようになり、公家の坊門信清の娘を正室に迎え、和歌に熱中するようになります。血なまぐさい日々を嫌ってのことでしょうが、そんな武家の棟梁の姿に、御家人たちは失望を覚えたといいます。

建永元年(1206年)、母親の政子の計らいで、実朝は亡兄頼家の遺児・善哉を猶子とします。7歳の善哉の乳母夫は三浦義村でした。5年後の建暦元年(1211年)、善哉は鶴岡八幡宮寺別当のもとで出家し、公暁と称しました。

建保元年(1213年)、侍所別当の和田義盛一族らの謀叛が露見したとして、和田一族が北条義時に討たれます(和田合戦)。これにより義時は侍所別当となり、幕府における権力はいよいよ大きくなっていきます。北条氏は、実朝に忠節を尽くす名目で次々と対抗勢力を滅ぼしていきましたが、公家風を好み、和歌に熱中し、『金塊和歌集』の編纂に力を入れる将軍は、都合の良い存在であったのかもしれません。

彼が成人になっても北条義時・政子は政治権力を握り続けます。もはや北条氏抜きには御家人たちを統率できないほどに北条義時・政子の影響力は強くなっていたからです。

(4)和歌への没頭

成人後も彼は政治の実権を握れない「傀儡将軍」のままで、政治の実権を握っているのは北条義時です。将軍であるにも関わらず、彼は政治の主導権を握ることはできませんでした。

そして、そんな鬱憤を晴らすかのように彼は和歌の世界に熱中するようになります。

当時随一の名歌人である藤原定家(ふじわらのていか)とも交友があり、定家から万葉集を貰って歓喜したり、後鳥羽上皇が編纂した新古今和歌集を京から運ばせたり、さらには自ら『金槐和歌集』という和歌集の編纂までしています。

これだけに止まらず、彼は和歌の上手な武士を贔屓することもあり、恩賞や所領を与えたり、罪を軽くすることもありました。

しかし、彼の和歌趣味は「将軍のくせに何を朝廷かぶれの軟弱なことをやっているのか!」と御家人たちの評判はすこぶる悪く、将軍としての人望を失う一因にもなっています。

(5)宋への渡航計画

自らの無力さを痛感した彼は、次第に現実逃避をしがちになります。和歌に没頭したのもその一環

それが突如として発表された彼の発案による「宋への渡航計画」です。

事の発端は陳和卿(ちんなけい)という僧侶との出会いでした。陳和卿は、源平合戦で全焼した東大寺の大仏を再建した人物です。

陳和卿は、「源実朝様は、仏の化身だから是非とも顔を拝みたい!」と彼との対面を望みます。両者の対面は実現し、陳和卿は彼にこんなことを言います。

陳和卿「実朝様は、前世において医王山の長老でした。その時は私も医王山で修行の身であり、長老様の弟子だったのです。長い時を経てこうして師に会うことができたことは無上の喜びでございます」

これは、6年前に夢で見たお告げと一緒だったため、彼は陳和卿を言うことを信じるようになります。しかし話はこれだけで終わらず、彼は前世の自分がいた宋の医王山に実際に行こうと考え、唐船の建造を人々に命じます。

これを聞いて北条義時や側近の大江広元は大変驚き、必死に彼にやめるよう言いますが、彼の意思は固く鎌倉では船造りが始まりました。

翌年の1217年4月、念願の唐船が完成しました。ところが、砂浜から海へ運ぼうとしても船がビクともしません。最終的には諦めてしまい、船は砂浜に放置され朽ち果ててしまいます。

実はこれは、彼の単なる思いつきの意見である「宋への渡航計画」に反対する北条義時ら御家人がワザと海に浮かばせないようにしたのではないかと言われています。もし真面目に造船したのなら浮かばないのは不自然ですし、おそらくは仕組まれたのでしょう。

(6)朝廷への接近

1216年6月20日、彼は権中納言に任ぜられ、7月21日、左近衛中将を兼ねます。

9月18日、実朝の昇進の早さを憂慮した北条義時と大江広元は密談します。20日、広元は義時の使いと称し、鎌倉御所を訪れて「御子孫の繁栄の為に、御当官等を辞しただ征夷大将軍として、しばらく御高年に及び、大将を兼ね給うべきか」と諫めました。

実朝は「諌めの趣もっともといえども、源氏の正統この時に縮まり、子孫はこれを継ぐべからず。しかればあくまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す」と答えました。源氏の血統が自分の代で終わるのを予感しているかのような言葉です。広元は再び是非を言えずに退出し、それを義時に伝えました。

源頼朝、源頼家の歴代将軍たちは必要最低限の官位だけは貰ってますが、「官位を上げたい」という気持ちは持っていませんでした。

鎌倉幕府は「朝廷に依存しない独立した東国統治システム」として源頼朝が創ったものなので、「朝廷から何かを与えられる行為」というのはそもそも避けるべき行為です。

ところが、彼はなぜか官位にこだわります。朝廷との結びつきを強め、1218年末には武士として史上初の「右大臣」にまで上り詰めています。そこには、彼を取り込もうとする後鳥羽上皇の目論見もあったと言われています。

なぜ彼が官位にこだわったのかは、本当のところは、はっきりとはわかっていません。「ただの都かぶれ」という話もあれば、「実朝は実子に恵まれなかったため、朝廷(特に後鳥羽上皇)と結びつきを強め、将来的に皇族出身の将軍を擁立しようとした」とも言われています。

さらに言えば、将軍が北条氏の傀儡となった今、「もはや源氏が将軍になる必要はないのでは?」と彼自身考えていたのかもしれません。

将軍を傀儡にしようと思うのなら、東国武士の崇拝対象となっている源氏を将軍にするよりも、高貴な血筋ながら武士たちのよく知らない人物を将軍にした方が北条氏にとってはやりやすいとも言えます。

(7)最期

彼は1218年末に晴れて右大臣になりました。

1219年1月27日、鎌倉にしては珍しい大雪の降る中、実朝の昇任祝いが鶴岡八幡宮で行われます。

その式の途中でした。彼が歩いていると突如として「親の敵はかく討つぞ」という男の叫び声が聞こえ、彼は斬りつけられ命を落とします。

彼を切りつけた犯人は、源頼家の息子で鶴岡八幡宮の別当(責任者)だった公暁(くぎょう)という人物でした。

公暁にとっての親の仇とは、北条氏とその北条氏によって将軍に担ぎ出された源実朝だったわけです。実朝に関しては巻き添えを食った感じですが・・・

同日、その公暁も追っ手に殺されてしまうのですが、この事件は実は鎌倉時代屈指の闇がとても深い事件です。

そもそも、公暁が一番憎むべき敵は北条義時のはずです。しかし、太刀持ちをしていた北条義時は、途中で腹痛を訴えて参列を離れ、難を逃れています。普段なら実朝に近侍するはずなのに、この時だけは「ちょっと体調悪いので・・・」とたまたま儀式には参加していなかったのです。公暁は、北条義時と交代した源仲章を北条義時と間違えて斬り伏せました。

公暁は実朝の首を斬り落として持ち去りました。公暁の逃走先は、乳母夫・三浦義村の屋敷でしたが、義村は直ちに長尾定景に公暁追討を命じ、公暁はその日のうちに討ち取られました。

公暁の直接憎むべき人物は北条義時であり、義時によって担ぎ出されている実朝は直接の憎しみの対象にはなりません。

仮に公暁に実朝を殺す強い動機があったとすれば、それは次期将軍の座を狙ってのことでしょう。しかし、もしそうだとすれば、自分が生き残らなければ意味がありません。

しかし公暁は同日にあっさりと消されていますので、犯行があまりにも軽率・無計画すぎます。

『吾妻鏡』によると、予見があったのか、出発の際に大江広元は涙を流し「成人後は未だ泣く事を知らず。しかるに今近くに在ると落涙禁じがたし。これ只事に非ず。御束帯の下に腹巻を着け給うべし」と述べましたが、源仲章は「大臣大将に昇る人に未だその例は有らず」と答えて止めました。また整髪を行う者に記念と称して髪を一本与えています。庭の梅を見て詠んだと伝わる辞世の和歌は、「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」で「禁忌の和歌」と評されます。

「禁忌の和歌」といえば、菅原道真の歌が有名です。左遷された菅原道真が詠んだ一首「東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」とこの歌の類似は偶然ではないでしょう。

落命の場は八幡宮の石段とも石橋ともいわれ、また大銀杏に公暁が隠れていたとも伝わります。『承久記』によると、一の太刀は笏に合わせましたが、次の太刀で斬られ、最期は「広元やある」と述べて落命したということです。

公暁による暗殺については、実朝を除こうとした「黒幕」によって実朝が父(頼家)の敵であると吹き込まれた為だとする説があります。ただし、その黒幕の正体については北条義時、三浦義村、北条・三浦ら鎌倉御家人の共謀、後鳥羽上皇など諸説あります。またそれらの背後関係よりも、公暁個人が野心家で実朝の跡目としての将軍就任を狙ったところにこの事件の最も大きな要因を求める見解もあります。

そういうわけで、後世の人々によって様々な憶測がなされた結果、「公暁の実朝暗殺事件の裏には真犯人がいて、公暁は真犯人の口車に乗せられていただけ。そして公暁が同日に速攻で消されたのは口封じのためで、公暁を唆(そそのか)したうえで、将軍暗殺後に即座に公暁を殺すことで何者かが完全犯罪を成し遂げた」説がよく語られます。

しかし、肝心の真犯人が誰なのかは未だ謎のままです。

儀式の場に偶然に(というよりも故意に?)居合わせなかった北条義時が最も怪しいと誰しも思うのではないでしょうか?

なんだか「ケネディ大統領暗殺事件」を想起させますね。あの事件の時も「ジョンソン副大統領やCIA、マフィアなどの黒幕説」が囁かれました。

(8)実朝の墓

胴体の墓は、寿福寺(神奈川県鎌倉市扇ヶ谷にある臨済宗建長寺派の寺院)境内に掘られたやぐらの内に「石層塔」が設けられています。寿福寺は源義朝邸宅跡に建てられた寺院であり、実朝の墓の隣には母・政子の墓があります。

首は公暁の追っ手の武常晴が神奈川県秦野市大聖山金剛寺(実朝が再興した寺)の五輪塔に葬ったといわれ、「御首塚(みしるしづか)」と呼ばれています。

なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。

3.公暁による実朝暗殺の詳細

建保7年(1219年)1月27日、雪が2尺(約60cm)ほど降りしきるなか、実朝が右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣しました。夜になって参拝を終えて石段を下り、公卿が立ち並ぶ前に差し掛かったところを、頭布を被った公暁が襲いかかり、下襲の衣を踏みつけて実朝が転倒した所を「親の敵はかく討つぞ」と叫んで頭を斬りつけ、その首を打ち落としました。

同時に3、4人の仲間の法師が供の者たちを追い散らし、源仲章を北条義時と間違えて斬り伏せました。

そして『吾妻鏡』によると、八幡宮の石段の上から「我こそは八幡宮別当阿闍梨公暁なるぞ。父の敵を討ち取ったり」と大音声を上げ、逃げ惑う公卿らと境内に突入してきた武士達を尻目に姿を消しました。

一方、『愚管抄』によると公暁はそのような声は上げておらず、鳥居の外に控えていた武士たちは公卿らが逃げてくるまで襲撃にまったく気づかなかったとあります。儀式の際、数千の兵はすべて鳥居の外に控えており、その場に武装した者はいませんでした。

公暁は実朝の首を持って雪の下北谷の後見者・備中阿闍梨宅に戻り、食事の間も実朝の首を離さず、乳母夫の三浦義村に使いを出し、「今こそ我は東国の大将軍である。その準備をせよ」と言い送りました。義村は「迎えの使者を送ります」と偽り、北条義時にこのことを告げました。

義時は躊躇なく公暁を誅殺すべく評議をし、義村は勇猛な公暁を討つべく長尾定景を差し向けました。

公暁は義村の迎えが来ないので、1人雪の中を鶴岡後面の山を登り、義村宅に向かう途中で討手に遭遇します。討ち手を斬り散らしつつ義村宅の板塀までたどり着き、塀を乗り越えようとしたところを討ち取られました。享年20。

定景が公暁の首を北条義時邸に持ち帰り、義時が首実検を行いました。なお、『吾妻鏡』によると実朝の首は所在不明ですが、『愚管抄』には岡山の雪の中から実朝の首が発見されたとあります。

4.源実朝の和歌

『金槐和歌集』定家所伝本に663首(貞亨本では719首)の和歌が収められています。万葉風の和歌もありますが、大半は古今和歌集や新古今和歌集の模倣の域を出ないとされています。

しかし少数ながら、時代の水準を大きく超える独創的な和歌を残しており、その生涯と相まって「悲劇の天才歌人」というイメージを与えています。

和歌の師である藤原定家は『新勅撰和歌集』に実朝の和歌を25首入集させており(同集の入集数第6位)、『小倉百人一首』に

 世の中は つねにもがもな なぎさこぐ あまの小舟の 綱手かなしも

を選んでいます。

彼は藤原定家を和歌の師と仰ぎ、新古今和歌集を送ってもらうなどの交流があったようです。定家は実朝の和歌の才能を高く評価していました。

確かに彼の和歌は「将軍の余技」のレベルを遥かに超えていると私も思います。

余談ですが、北宋の第8代皇帝の徽宗は、書画の才に優れ、「北宋最高の芸術家の一人」と呼ばれています。私は中学の美術の教科書にあった徽宗の「桃鳩図」を見て、その玄人はだしの絵画に、「これが本当に皇帝の絵なのか?」と驚いた記憶があります。

以後、勅撰和歌集に合計92首入集しており、『愚見抄』、『愚秘抄』等の定家に仮託された歌論書でも柿本人麻呂・山部赤人に匹敵する歌人とされていることから、中世においても、京都の中央歌壇で活動することがなかった歌人としては相当に高い評価を受けていたと見られます。

近世になると、松尾芭蕉が弟子の木節に「中頃の歌人は誰なるや」と問われ、言下に「西行と鎌倉右大臣ならん」と答えたということです

賀茂真淵は『金槐和歌集』の貞享本を校訂したときの付言に、その万葉風の和歌を「大空に翔ける龍の如く勢いあり」等と絶賛し、各和歌に付した評語の中では、特に

 もののふの 矢なみつくろふ 小手の上に 霰たばしる 那須の篠原

を「人麿のよめらん勢ひなり」と激賞しています。

明治時代には、正岡子規を中心に和歌革新運動が進められましたが、その口火を切った評論「歌よみに与ふる書」は「仰せのごとく近来和歌は一向に振い申さず候。正直に申し候えば『万葉』以来、実朝以来、一向に振い申さず候」という文で始まっており、『万葉集』以後の第一人者とされています。

この評価はアララギ派の歌人によって継承され、万葉風の歌人というイメージを定着させました。その中心となったのは斎藤茂吉であり、

 大海の 磯もとどろに よする浪 われて砕けて 裂けて散るかも

を「真に天然の無常相に観入した歌」と絶賛しています。

昭和期には、小林秀雄が「実朝」で、万葉風の歌人という評価の中では見落とされていた、

 流れ行く 木の葉のよどむ えにしあれば 暮れての後も 秋の久しき

のような作品に注目し、「無垢な魂の沈痛な調べが聞かれる」と評しています。

戦時中は『愛国百人一首』に、

 山は裂け 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも

が収録され、愛国歌として大いにもてはやされました。

戦後には、吉本隆明が〈実朝的なもの〉を「暗い詩心ともいうべきものに帰せられる」とし、

 くれなゐの ちしほのまふり 山の端に 日の入るときの 空にぞありける

を「この種の絶品を生涯のうちに一首でももっている歌人は、歴史のなかでも数えるほどしかない」と激賞しています。

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