「麒麟がくる」(来年の大河ドラマ)の主人公は明智光秀!謎の人物像に迫ります

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麒麟がくる

皆さんは明智光秀と言えばどんなイメージをお持ちでしょうか?一般的には、「戦国時代の武将で、織田信長に対する謀反(本能寺の変)を起こし、三日天下の末、土民に殺された」ということでしょう。

しかし、そもそも明智光秀とはどういう経緯で織田信長に仕えるようになり、豊臣秀吉に比肩するような大名に取り立てられながら、なぜ謀反を起こすに至ったのかは、あまり知られておらず真相は謎のままです。

来年のNHKの大河ドラマは、明智光秀を主人公にした「麒麟がくる」で、世間の注目も集まると予想されます。そこで今回はこの明智光秀の人物像に迫りたいと思います。

ところで、今年の「いだてん~東京オリムピック噺~」のような無名の金栗四三・田畑政治を主人公にしたり、来年の「麒麟がくる」の明智光秀のように今まであまり主人公とならなかった人物を取り上げるのは、「プロデューサーが異色で意欲的な人」なのか、「ネタ切れでマンネリ化した大河ドラマに新風を吹き込む」狙いがあるのかどちらなのでしょうか?

いずれにしても、一般国民に人気の高い「戦国時代」をテーマにしながらも、従来のような「勝者」を主人公にはせず「敗者」を主人公にする来年の大河ドラマの脚本を担当する池端俊策氏の手腕に期待したいものです。

2016年の「真田丸」も、真田幸村役の堺雅人の演技は一本調子で今一つでしたが、真田昌幸役の草刈正雄と真田信幸役の大泉洋の好演でそれなりに面白かったので、「東京五輪2020」の年にふさわしい盛り上がりを期待したいと思います。

1.明智光秀とは

桶狭間の戦いで今川義元を倒して天下統一の偉業目前まで行った織田信長や、彼の後を巧妙に襲って天下統一を成し遂げた豊臣秀吉に比べて、わずか13日間しか天下人でなかった明智光秀は、華々しい存在でない言わば「陰の存在」で「謀反人という汚名」を着せられた人物です。

その結果、今までドラマの主人公になることはあまりなく、歴史の上でもさほど大きく取り上げられることはありませんでした。「歴史は勝者の歴史」ということを如実に表しているものです。それと明智光秀に関する史料が少ないのは「主殺しの逆臣」というレッテルを貼られたため、光秀との関係を隠匿するべく史料が抹殺または改ざんされたからです。

しかし、明智光秀の側から見ると、様相は大きく変わって来るのは当然です。

明智光秀(?~1582年)は、清和源氏の土岐氏支流である明智氏に生まれていますが、父親の名前も伝わらない低い身分の土岐氏支流であったようで、生年も不詳です。

生年は1516年説、1528年説、1540年以降説など諸説あります。1540年以降説によれば織田信長(1534年~1582年)より年下となります。

光秀の祖先は土岐氏支流でしたが、土岐氏に背き、近江の六角氏を頼ったようです。

光秀は、少年時代から明智城主や斎藤道三、禅僧などから教えを受け、有職故実に通じた教養人であるとともに、勇猛な智将で、良き領主であり、家族のことも大変大切にした人であったと最近では見直されています。

2.織田信長に仕えるまでの経歴

青年期の履歴はあまりよくわかっていませんが、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えることになります。1556年、斎藤道三・義龍親子の争い(長良川の戦い)で、道三方についていたため、義龍に明智城を攻められ、一族は離散します。

その後、越前の朝倉義景を頼り10年間仕えることになります。

室町幕府の最後(15代)の将軍足利義昭は、将軍となる前、各地の武将に「上洛」と「自身の将軍擁立」を促しました。織田信長に対しては細川藤孝が使者に立ち、信長はこれを了承しました。義昭は1566年に織田・斎藤両家の間に和睦を結ばせましたが、信長はこれを破って美濃に出兵しました。

義昭はこのような信長の行動に不信を募らせ、一旦信長に見切りをつけて、朝倉義景を頼って来ます。そのことから、光秀は足利義昭と接点を持つことになります。

しかし、義昭が上洛を期待しても義景は動きません。そこで光秀は「義景は頼りにならないが、信長は頼りがいのある男だ」と信長を勧めます。

そこで義昭は、1568年、斎藤氏から美濃を奪取した信長に対して、「上洛して、自分を征夷大将軍につける」よう、光秀を通じて要請します。

光秀の叔母が斎藤道三の夫人とされていますので、信長の正室の濃姫(道三の娘)と光秀は「いとこ同士」であった可能性があります。少なくとも血縁関係はあったようです。

3.織田信長に仕えてからの経歴

その後、義昭と信長の両方の家臣(両属)となり、1568年の義昭の上洛に加わっています。

1569年に「三好三人衆」が義昭宿所の本圀寺を急襲した「本圀寺の変」では、光秀は義昭側で防戦に当たっています。そして光秀は木下秀吉、丹羽長秀、中川重政とともに、信長支配下の京とその周辺の政務に就くことになります。

やがて、信長は義昭と衝突し、1570年に将軍から離れた立場で正式に昇殿し、朝廷から「天下静謐執行権」を与えられます。

1571年に、光秀は義昭に対して「先の見込みがない」として「暇願い」を出しますが、不許可となります。

1573年に義昭が挙兵すると、光秀は石山城・今堅田城の戦いに、義昭と袂を分かって信長の直臣として参戦します。義昭は降伏後に追放され、室町幕府は事実上滅亡します。

1575年には、高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆殲滅戦に参加します。そして丹波国攻略を任されます。ここは山続きで国人が割拠して統治が難しい地域の上、丹波国人が親義昭派で、以前は信長に従っていましたが、義昭追放により敵に転じていました。そして丹波国の豪族と通じていた波多野秀治の裏切り行為により敗走します。

その後、1576年には石山本願寺との天王寺の戦い、1577年には雑賀攻めと信貴山城の戦い、1578年には毛利攻めの秀吉軍への援軍として播磨の神吉城攻め、有岡城攻めに参加しています。

1579年、丹波攻めは最終段階に入り、細川藤孝と協力して丹波国を平定し、1580年には丹波一国(29万石)を加増されて34万石となります。

信長も「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と絶賛しています。

丹波一国拝領と同時に、丹後国の細川藤孝、大和国の筒井順慶らの近畿地方の織田方の大名が光秀の「寄騎(よりき)」として配属されることになり、近江から山陰へ向けた「畿内方面軍」が成立します。「寄騎」の所領を合計すると240万石にもなります。

1581年には「京都御馬揃え」の運営責任者を任されます。また1582年に予定される安土城での「徳川家康饗応役」を命じられるなど、重用されています。

しかし、1582年5月に突然、家康饗応役の任を解かれ、羽柴秀吉の毛利攻めの援軍を命じられ6月2日早朝に出陣します。

その途上の丹波亀山城内か柴野付近の陣で、重臣たちに信長討伐の意を告げます。軍勢には、「森蘭丸から使いがあり、信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」として、京へ向かいました。

なお、出陣前の5月28日に「愛宕山連歌会」を開き、ミステリアスな歌を披露していたという有名な話があります。愛宕神社は軍神として武家に信仰されており、5月27日に武運祈願ということで訪れています。当日は参籠してその翌日、連歌師の里村紹巴たちと連歌会を開いたわけです。

その発句が、「ときは今 あめ下知る 五月(さつき)かな」です。

「とき」は「土岐氏=光秀の出身」、「あめ」は「天、天下」、「下知る」は「命令する」で、「土岐氏出身の明智光秀が天下に向かって命令を下す」という「謀反の予告」の意味を含んでいるという解釈です。

そして「愛宕百韻」の最後に光秀が詠んだのが「繩手の行衛ただちとはしれ」です。意味は「道の行く方向はすぐに知った」ということです。謀反決行の決意を固めたことの表明だったのでしょうか?

また、愛宕神社のくじを何回も引いたという話も残っています。一応表向きは毛利攻めの戦勝祈願ということになりますが、謀反成功祈願の内意があったかもしれません。

一回目が「凶」、二回目も「凶」、三回目も「凶」だったと言われています。私は個人的には宗教や占いをあまり信用していませんが、これは「本能寺の変」の失敗を暗示しているようでもあります。

4.本能寺の変という謀反を起こした原因

定説はありませんが、私は次のような原因があったのではないかと思います。

(1)信長の独裁的な行動や自分に対する処遇への恨みや不満

もともと信長は、光秀を「金柑(キンカン)頭」、秀吉を「猿」や「はげネズミ」などという侮辱的なあだ名で呼んでいたようです。

暴力や相手の人格を無視した暴言などパワーハラスメントが日常茶飯事だったのでしょう。

「覇王」で「専制君主」の信長は、宗教の権威を否定し「比叡山焼き討ち事件」など暴虐無慈悲とも見える虐殺を断行しました。また信長による「恵林寺焼き討ち事件」で「安禅必ずしも山水を須(もち)ひず、心頭滅却せば火も自づと涼し」との偈(げ)を遺して火定(焼死)した快川紹喜は明智氏の一族でした。

仏教を敵視していない光秀は、内心の葛藤を抱えながらもひたすら耐えて、信長に従っています。しかし、比叡山焼き討ち事件のあと、延暦寺の再興に取り組み、経典などの文化財を保護しています。

そして毎年のように戦いに駆り出されて、忠実に働き、手柄を立てて来た光秀です。信長もそれなりに評価していたのですが、丹波国平定で精根を使い果たしたような光秀を、家康饗応役から外してまで、自分の競争相手である秀吉の毛利攻めの支援に駆り出す信長の処遇に我慢がならなかったのではないかと思います。

しかもこの時、光秀は自分が散々苦労して平定した「丹波・近江志賀郡の領地を召し上げ」られ、まだ「敵国である出雲・石見を与える」という「国替え」を命じられたのです。

これはだれが考えても、「左遷」であり、「国替えとは名ばかりの領地召し上げ」です。「出雲・石見は自分の力でこれから勝手に平定せよ」と命じられたも同然の仕打ちです。

主従関係の中で我慢に我慢を重ねて来た光秀ですが、この1件で完全に信頼関係が崩壊したのではないでしょうか?

(2)光秀の「天下取り」への野望

「畿内方面軍」を持つまでに力を付けて来た光秀としては、自分なら信長のような独裁的・独善的な政治ではなく、古代中国の「堯・舜」のような「聖天子」の「仁政」を行えると考えたのだと思います。

そのために信長を倒して、他の大名に協力を求めれば、「天下取り」も夢ではないと考えたのではないかと思います。

ただ、用意周到に根回しをせず、誰もが信長に不満を抱いていると思い込み、信長周辺の警備が手薄な今しか決行のチャンスはないと考えたのは、結果から見ると「九仞(きゅうじん)の功を一簣(いっき)に虧(か)く」「画竜点睛を欠く」誤りを犯したことになります。光秀がもともと素性の明らかでない「よそ者」だったことも、他の大名の協力を得られなかった原因かもしれません。

ただ、秀吉は、光秀以上に素性の卑しい「よそ者」ですが、「人たらし」「弁舌」の才能や、「機転・機知」が優れていたほか、「人心掌握力」や「情勢判断力」、「情報収集力」、「策略」が格段に優れていたため、天下統一の偉業を達成できたのでしょう。

(3)徳川家康の教唆

「タヌキ親父」の徳川家康は、信長からひどい仕打ちを受ける光秀に同情するふりをして、彼をそそのかし、「信長を倒せば協力する」ような甘言を弄したのではないかと思います。

(4)朝廷の教唆

朝廷をないがしろにする信長に恨みを持つ朝廷が、朝廷に尊崇の念を持つ光秀をそそのかして信長打倒に走らせたということも考えられます。

5.本能寺の変が三日天下で失敗に終わった原因

(1)細川藤孝の協力拒否

(2)筒井順慶の「洞ヶ峠」の傍観

(3)羽柴秀吉の中国大返し

せっかく信長を倒したものの、頼みの綱で姻戚関係にある細川藤孝に協力を依頼するも断られ、筒井順慶には日和見の洞ヶ峠を決め込まれ、異常に速いスピードで中国攻めから戻って来た羽柴秀吉軍に攻められて、わずか13日間で光秀の天下は終わります。

なお、秀吉のこの「10日間で200kmの軍団大移動」である「中国大返し」は、あらかじめ秀吉が光秀の謀反の動きを察知していたのではないかと疑われるほど用意周到な強行軍です。

彼は諜報活動に長けていたので、ライバルである光秀の動静を日頃から間者に探らせていたのかもしれません。

6.NHK大河ドラマ「麒麟がくる」への期待

2019年の大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」の第一部の主人公金栗四三、第二部の主人公田畑政治が、ともにマイナーな人(一般にあまり知られていないという意味で)だったことも影響してか、評判があまり良くないようですが、2020年の主人公明智光秀についても、派手さがないため少し心配なところはあります。

しかし、人間に「裏と表」があるように、歴史にも「裏と表」があります。今まで光の当たらなかった「歴史の裏面」にスポットライトを当てて、歴史の真実を一般国民に再認識させるようなドラマになることを期待しています。

ドラマのタイトルは、「仁成を行う王のもとに現れるとされる伝説の動物『麒麟』」が由来です。モチーフとしての麒麟が何者で、どのようにしてどの英雄の前に現れるのかを問うていく物語だそうです。

従来とは異なる解釈で戦国時代の物語を紡ぎ、明智光秀の謎に満ちた生い立ちにもスポットを当て、英傑たちの父親の時代をも描き、斎藤道三、足利義昭、織田信長、徳川家康らの蠢動から活躍に至る群像劇となるそうです。

今までとは異なる視点の戦国時代劇なので、成功の確率は五分五分のような気が私にはします。しかし、私は個人的にはこのような挑戦的な試みが成功することを期待しています。


明智光秀と本能寺の変 (PHP文庫) [ 小和田哲男 ]



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