辞世の句(その1)大和時代 弟橘媛・有間皇子・大津皇子・柿本人麻呂

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弟橘比売命

団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。

そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽ったりもします。

昔から多くの人々が、死期が迫った時や切腹するに際して「辞世(じせい)」(辞世の句)という形で和歌や俳句などを残しました。

「辞世」とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈(げ)、和歌・狂歌、発句・俳句またはそれに類する短型詩の類のことを指すようになりました。「絶命の詞(し)」、「辞世の頌(しょう)」とも呼ばれます。

「辞世」は、自分の人生を振り返り、この世に最後に残す言葉として、様々な教訓を私たちに与えてくれるといって良いでしょう。

そこで今回はシリーズで時代順に「辞世」を取り上げ、死に直面した人の心の風景を探って行きたいと思います。

まず最初は、古事記・日本書紀の神話の時代から飛鳥時代までの「辞世」です。

1.弟橘媛(弟橘比売命)(おとたちばなひめのみこと)

弟橘比売命・入水

さねさし 相模(さがむ)の小野(をの)に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも

これは『古事記』にある「弟橘媛(弟橘比売命)」(生年不詳~景行天皇40年)の辞世です。弟橘媛は、日本神話に登場する「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)」の妃です。『古事記』では倭建命の后で弟橘比売命と記されています。

ヤマトタケルの東国平定のとき、「走水(はしりみず)の海」(浦賀水道)で一行の船が海神によって航行を妨げられると、海中に身を投じて海神を鎮め、船を進ませました。「人身御供(ひとみごくう)」としての入水(じゅすい)です。

海中に没しながら「さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」とヤマトタケルに歌を残したということです。

東国からの帰路足柄峠(『日本書紀』では碓氷峠)に至って、ヤマトタケルは「あづまはや(わが妻よ!)」と妻の死を嘆いたため、以来足柄以東の東国は「あづま」と呼ばれたと伝えられています。

2.有間皇子(ありまのみこ)

有間皇子

磐代(いはしろ)の 浜松が枝(え)を 引き結び 真幸(まさき)くあらば また還り見ん

万葉集』にあるこの歌は「松と松の枝とを結び合わせて旅の無事を祈るのが、この磐代(今の和歌山県みなべ町)の地の風習らしい。もし私が生き残ることができたら、またこの枝を見たいものだ・・・。しかし、自分(有間皇子)に帰り道は無い。」という意味です。

最期に有間皇子が詠んだもう一首の歌(妻を想って詠んだ歌)があります。

家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

同じく『万葉集』にあるこの歌は、幼い妻との最後の日、家で妻が作ってくれた食事を器に盛ってくれたことを回想して詠んだ歌でしょうか?松の枝と枝を妻も結んで待っていたのかもしれません。決して還ることのない有間皇子を・・・・

有間皇子・家系図

有間皇子(640年~658年)は、飛鳥時代の皇族で、孝徳天皇の皇子です。天智天皇(626年~672年、在位:668年~672年)への謀反計画が発覚し、処刑されました。

ただし、これは蘇我赤兄(623年?~没年不詳)の讒言によるもので、「謀反計画」が実際にあったかどうかは定かでなく、謀略家の天智天皇による政敵打倒(皇位継承争い)の一環だった可能性が高いようです。

3.大津皇子(おおつのみこ)

大津皇子

ももづたふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ

『万葉集』にあるこの歌は「長年、余の池(いわれの池:大津皇子の自宅近くにある池)で鳴いている鴨を見てきたが、今日限りで私はあの世に行ってしまうのだろうか」という意味です。

大津皇子・家系図

大津皇子(663年~686年)は、「大化の改新」で有名な中大兄皇子(後の天智天皇)の弟 天武天皇の第3子として生まれました。人物的に優れ、多くの人から人望のあった皇子であったようですが、自身の後ろ盾が乏しかったことから異母兄の皇太子・草壁皇子との後継者争いに敗れ、686年10月25日、謀反の罪で捕えられ、自邸で自害しました。

なお、大津の謀反計画を密告したのは朋友の川島皇子(天智天皇の子)でした。

4.柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)

柿本人麻呂

鴨山の 岩根し枕(ま)ける 吾をかも 知らにと妹(いも)が 待ちつつあらむ

これは「鴨山の岩を枕として死のうとしている私を何も知らずに妻は待ち続けているのだろう。」という意味です。

『万葉集』の詞書(ことばがき)には、「柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて死に臨む時に、自ら傷(いた)みて作る歌一首」とあります。

『万葉集』で、ほかに「自傷」という言葉が使われている例は、有間皇子しかありません。

柿本人麻呂(660年頃~724年)は、飛鳥時代の歌人で「三十六歌仙」の一人です。後世、山部赤人とともに「歌聖」と呼ばれています。

下級官吏として持統天皇・文武天皇に仕え、その歌才によって「宮廷歌人」的な役割も果たしていたようで、官命によって地方に旅行したり、地方官になったこともあると考えられています。

石見国で亡くなった柿本人麻呂の死は謎に包まれており、無実の罪で殺害された可能性があります。

梅原猛は『水底の歌ー柿本人麻呂論ー(上巻)』で、「鴨山はあのとき、つまり人麻呂の死のときから高津の沖合にずっとあったと思う。それは万寿三年の津波で水没してしまったけれど、その跡は今でも高津の沖合に存在し続けているはずである」と述べ、「流罪と水死と復活」の人麻呂像、つまり「政治的スケープ・ゴート」と結論付けています。

私は、どうもそれは和銅元年の初夏の一日だったような気がして仕方がないが、おそらくはうららかな初夏の一日、詩人は舟にのせられて海に投げられたのであろう。ひょっとしたら、詩人の首には重い石がつけられていたかもしれないが、この六十を越えていたのではないかと思われる都の詩人に、荒海を泳ぎ切ることができるとは思えない。

詩人は悲鳴をあげて海に落ち、その姿はたちまち波間に沈んで見えなくなったのであろう。そして初夏の海は何事もなかったようにうららかであり、舟は詩人を一人海の中におきざりにしたままで、やがて帰ってきたのであろう。

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