藤井竹外は幕末の動乱期を生きた高槻藩士で、七言絶句で有名な漢詩人!

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青莪堂

私のふるさと高槻市にあった「高槻城」(明治初期に破却され、現在は「城跡公園」や中学・高校の敷地などになっています)は、戦国時代には、キリシタン大名の高山右近が城主であったことで有名です。

1615年に内藤信正が、近江国長浜から4万石で入城し、「高槻藩」が立藩すると、以後土岐定義・頼行、松平家信、岡部宣勝、松平康信など藩主が短期間で頻繁に入れ替わりました。

しかし1649年に永井直清(1591年~1671年)が3万6千石で藩主となって以降は13代219年間にわたって永井氏が治めて来ました。

永井氏10代の永井直与(なおとも)(1785年~1846年)が設置した藩校「青莪堂(せいがどう)」は、藤井竹外や高階春帆のような優れた漢詩人を輩出しました。

儒学者で大坂町奉行組与力だった大塩平八郎(1793年~1837年)も、青莪堂で教鞭を執ったと言われています。彼は後に「大塩平八郎の乱」(1837年)を起こしました。

1.藤井竹外(ふじいちくがい)とは

藤井竹外

藤井竹外(1807年~1866年)は、江戸時代後期の漢詩人で高槻藩士です。高槻藩士藤井沢右衛門の長男として生まれました。

彼は幕末の激動期を生きた高槻藩の中堅家臣でした。幼い頃から武士の子弟として厳格に育てられ、藩校「青莪堂」に通うかたわら、当時盛んだった鉄砲術を学び、小姓(こしょう)」として武士生活を歩み出しました。書や鉄砲術など「文武両道」に優れていました。

最初、儒学者で勤王家の頼山陽(1780年~1832年)に入門し、山陽亡きあとは漢詩人の梁川星巌(1789年~1858年)に師事しました。

また儒学者で漢詩人の広瀬淡窓(1782年~1856年)、儒学者で志士の森田節斎(1811年~1868年)らと交わりました。

竹外は二十代から漢詩作りに熱中し、多くの作品を残しています。詩作に取り憑かれ、心に叶った句が思い浮かぶと、大きな声で「妙」と叫ぶのが誰知らぬ者はない癖であったそうです。

自らを「酔士(すいし)」(酔っ払い)と号すほどの無類の酒好きで、泥酔して路上で眠ったり、素足で野原を歩き回ることもしばしばあったということです。

彼の漢詩は、節をつけて吟詠する「詩吟」の世界では人気があり、中でも「花朝下澱江」は多くの詩吟愛好家のレパートリーに加えられ、今も愛され続けています。

彼の屋敷は高槻城三の丸(現在「高槻現代劇場」が建っている付近)にありました。南側は「野見神社」の神主の住まいで、その庭には立派な竹林があったそうです。

1848年(嘉永元年)7月に江戸詰め勤務を終えて高槻に帰って来た彼は驚きました。長年慣れ親しんだ風景、屋敷の南側にあるはずの竹林が、ものの見事になくなっていたのです。

彼はその様子を「江戸より至れば則ち蕩然として復一竿を見ず」と記し、さらに竹林を失った悲しみを「竹に哭す」と題した6編の漢詩に表しました。

美しい竹も、斧にかかってはどうしようもなく、竹を惜しみ泣く声は花を失い泣く声よりもさらに哀しいと、自分の一部が失われたかのような嘆きぶりです。彼は自らの雅号に「竹」を織り込んだように、竹への愛着が深かったようです。この件があった後、彼は屋敷の庭に竹を植えて慈しんだと伝えられています。

江戸幕府が崩壊に向かい、明治の足音が近づく混乱の時代に生きた彼は55歳で隠居し、京都三本木に移り住みました。ここは先師頼山陽の旧宅に程近く、後に師事した梁川星巌の旧宅とも鴨川を挟んで相対する位置でした。

悠々自適の詩酒に耽る生活を送ったとされますが、後に尊王歌人とも呼ばれる彼の胸中は必ずしも平穏ではなかったのではないでしょうか?

彼の墓は、高槻市の寺町の一角「本行寺」にあります。「本行寺」は日蓮宗の寺院ですが、1651年に藩主永井直清が病気平癒祈願をし、見事叶ったことから本堂を建立し、それ以来高槻藩主の祈願所となり、「病を除く寺」として有名になったそうです。

余談ですが、彼の師である頼山陽が著した「日本外史」は、ベストセラーとなり、幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えました。

2.藤井竹外の代表作

(1)「花朝下澱江」(かちょうでんこうをくだる)

全国的にはあまり有名ではないかもしれませんが、彼の「七言絶句」(七字四節からなる定型詩)は一世を風靡し、「絶句竹外」と呼ばれました。

旧暦2月15日(陽暦の3月末ごろ)の別名「花朝」を詠んだ漢詩「花朝下澱江」は彼の代表作です。

桃花水暖送軽舟 背指孤鴻欲没頭 雪白比良山一角 春風猶未到江州

訓読(読み下し)文は次の通りです。

「桃花(とうか)水暖かにして軽舟を送る 背指す孤鴻(ここう)没せんと欲する頭

雪は白し比良山の一角 春風猶(なお)未だ江州に到らず」

意味は、次の通りです。

「やっと春になって水も温んで(水かさも増して)わが乗るはやぶねを勢いよく押し流してくれる。後ろを振り向くと、今しも一羽の水鳥が天空の彼方に消え去ろうとするのが見えた。

ちょうどその辺りに比良山が高く聳え、その一角には残雪が白く輝いている。さて、こちらの温暖に似ず、江州にはまだ春風が訪れていないらしい。」

(2)「芳野懐古」(よしのかいこ)

古陵松柏吼天飆 山寺尋春春寂寥 眉雪老僧輟帚 落花深処説南朝

訓読(読み下し)文は次の通りです。

「古陵の松柏天飆(てんぴょう)に吼(ほ)ゆ 山寺春を尋ぬれば春寂寥

眉雪の老僧時に帚(は)くを輟(や)め 落花深き処南朝を説く」

意味は、次の通りです。

「吉野を訪ねて、後醍醐天皇の古い御陵の前に来ると、松や柏の木が強い風に唸り声をあげている。山中の如意輪寺あたりに春景色を尋ねてみると、桜の花は散り人影もなく静かで物寂しい。

眉毛の真っ白な老僧が、しばらく掃くことをやめて、落花の散り敷いたところで南朝の物語をしてくれた。」

これは唐の元稹(げんしん)(779年~831年)の「行宮(あんぐう)」(*)を換骨奪胎したものです。

(*)「行宮」の読み下し文

寥落(りょうらく)たり古(いにしえ)の行宮 宮花(きゅうか)寂寞(せきばく)の紅

白頭(はくとう)の宮女(きゅうじょ)在りて 閒座(かんざ)して玄宗を説く

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