十方庵敬順 江戸時代の長寿の老人の老後の過ごし方(その7)

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十方庵敬順・遊歴雑記

前に「江戸時代も実は『高齢化社会』だった!?江戸のご隠居の生き方に学ぶ」という記事を書きましたが、前回に引き続いて江戸時代の長寿の老人(長寿者)の老後の過ごし方・生き方を具体的に辿ってみたいと思います。

第7回は「十方庵敬順」です。

1.十方庵敬順とは

十方庵敬順(じっぽうあんけいじゅん)(1762年~1832年)は、江戸本所生まれで、浄土真宗の本法寺の子院・廓然寺住職です。名を大浄、字を敬順・宗知(または集賢)といい、俳号は以風です。本姓は津田氏で、織田信長の子孫とのことです。

天明元年(1781年)3月、近藤知新庵の茶道を学び、翌年3月、小島卜斎の忍ヶ丘の茶室に入り、十種香を模して十煎茶を工夫しました。また、その間に琵琶を鴨田検校に学びました。

十方庵敬順は、隠居後に18年間を費やして江戸を中心に各地の名勝古跡を旅した先での見聞を詳細に記録した紀行文遊歴雑記』を著しています。

津田隼人正(盛月)(信長の兄の子)の子、津田信賢が三河の「本法寺(ほんぽうじ)」(*)に入り、寺主敬映上人の弟子となって賢順と改名、「廓然寺(かくねんじ)」と号しました。その後、子孫が廓然寺を継いでいます。このため、本法寺が江戸に移ると、それに従って江戸に移りました。十方庵敬順は賢順8世の裔です。

(*)本法寺は、近江堅田で創建されましたが、その後三河に移転、さらに宝永2年(1705年)に小石川小日向(現・文京区小日向1丁目)に移転してきました。本法寺には夏目漱石の実家の墓もあるそうです。なお廓然寺は明治12年(1879年)に廃寺となっています。

2.十方庵敬順の老後の過ごし方

(1)50歳で隠居

彼は1812年、50歳の時に寺のことを息子の大恵に譲り隠居しました。『遊歴雑記』の序文の日付は文化11年(1814年)8月となっています。

(2)18年間の「ひとり旅」の記録を『遊歴雑記』という紀行文として残す

隠居後、彼はたっぷりの余暇(生活そのものが余暇)を利用して江戸近郊を散策することを趣味としていましたが、『遊歴雑記』はその集大成となった紀行文です。

彼は「賑(にぎや)かなることを好まず、只(ただ)静かなるをよしとす」「花もみぢに、遠近(おちこち)に杖を引く、古跡・名所をたづね」つつ、余生を送りたいと述べています。

彼は「化政文化」(*)隆盛の頃、「帖昆炉(たたみこんろ)」(下の画像)という携帯コンロと煎茶道具を携え、「ひとり旅」をして回りました。元お笑い芸人で現在ユーチューバーの「ヒロシ」の好む「ソロキャンプ」にちょっと似ていますね。

田能村竹田・喫茶図

(*)「化政文化」とは、江戸時代後期の文化文政時代(1804年~1830年)を最盛期として、江戸を中心として発展した町人文化のことです。化政とは文化・文政を略した言葉。浮世絵や滑稽本、歌舞伎、川柳など、一般に現代に知られる江戸期の町人文化の全盛期にあたり、国学や蘭学の大成した時期でもあります。

隠者の身は、年頃の窮屈を補ひ、英気を養はんと、春秋には遠近に逍遊し、天元の寿命を楽しまんとす、就中(なかんづく)花のあした、紅葉のゆふべは、いよいよ都鄙の間に独歩し、寺社の勝景を愛し、僻地の風色をなぐさむ

彼は『武蔵野』を書いた小説家国木田独歩(1871年~1908)のように「独歩」を好みました。

彼は「独歩の旅行穏かにしてこゝろ安し」と言って、江戸近郊から武蔵の奥地まで「独歩」しました。その理由がふるっています。「旅は路づれとはいへど」と断りつつ、一緒に旅したくない人を列挙しています。

①酒飲(のむ)もの

②風雅なき人

③吝嗇(りんしょく)なる者

④路を堰(せく)人

⑤ いかつがましく(偉そうで)頭高き族(やから)

⑥ 思慮なくさし出て多言なる徒

なお彼は、「見世物」にもはまっていました。文政3年(1820年)に、暇にまかせて両国の見世物小屋をはしごして歩く様子を、「酔狂とやいはん、馬鹿ものとや笑れん、論外といふべし」と、『遊歴雑記』に実に楽しそうに記しています。

(3)老衰と老醜の悲哀も吐露

このように見てくると、彼は健康で豊潤な老後を満喫したように思えますが、事実は必ずしもそうではなかったようです。

とりわけ60歳を過ぎてからは、身の老いを感じることしきりで、『遊歴雑記』には次のような「老衰と老醜の悲哀」も吐露されています。

予年老て、牙歯みな抜落、形容むかしに変りてしらぬ翁にあえるが如し

「歯はすっかり抜け落ち、鏡に映った姿はまるで見知らぬ老人みたいだ」というわけです。

老眼鏡と杖が欠かせないのは言わずもがな、腰痛に悩まされ、聴力のほうも尼である老妻の言葉を聞き違えるのが頻繁になってきたのから推して、「自然に遠くなりしと見えたり」と自覚していました。

おまけに目脂(めやに)は出るし鼻水は垂れるし、達者なのは口と舌ばかり。これでは南向きの日当たりのいい所で辻番でも務めるしか能がないと自嘲しています。

(4) 野点の茶事とお菓子をつまみながら句を詠む愉悦もあった

にもかかわらず、彼の老後が羨ましいのは、彼が『遊歴雑記』で折に触れて「身の愉悦」を語っているからです。

煎茶道の茶人として「宗知」と号し、「以風」の俳号も持つ彼は、生来の下戸で飲酒の楽しみこそ知りませんでしたが、それを補って余りある楽しみがありました。

「骨董袋(ずだぶくろ)」に茶道具やお菓子を詰めて、浮かれ出て江戸郊外のこれはと思う場所で「野布団」(ピクニック用の敷物)を広げて 野点(のだて)の茶事を催し、同好の人と茶を飲み、お菓子をつまみながら句を詠む愉悦です。

(5)彼が郊外に出かけた理由

何よりも健康に良い」と書かれています。歩けば食がこなされ筋骨が柔軟になり、おまけに目も慰められます。おのずと心も穏やかになり、「薬飲むには増るやらん」(薬を飲むよりずっといい)というわけです。

それにつけても「自由に出かけられるわが身の幸せ」をつくづく実感したようです。

「大禄の身」(大名旗本)であれば家来に気兼ねして野外で思う存分遊べないし、金持ちは金持ちで豪奢な遊興に慣れ郊外を逍遥する楽しみを知りません。一方、家業暇なしの人や宮仕えに忙しい身は、籠の鳥同然で行きたい所へ行くこともできません。

これらの人々に対して「隠者の身」である自分は、「財貨には悪(にく)まれたれど」(懐は豊かでないが)幸いにして健やかで、「手の奴あしの乗物」(従者も連れず乗物もなく自分の足で歩くこと)で心の赴くままにあちこち遊び歩くことができる、これこそまさに「清福」と自賛しています。

もう一つの理由は「悪世話を焼かないため」です。

隠居の身の日夜まいまいと家を出兼ね、家族は邪魔にし鬱陶(うっとう)しく思ふもしらで、いらざる事に悪世話焼て身を立枯れにする人世上に又少なからず。

「隠居後、家にこもりがちになり、家族が邪魔だ鬱陶しいと感じているのも知らないで、つまらぬことにまで口を出し、皆に嫌がられ、せっかくの老後を台無しにしてしまう人が少なくない」ということです。

家族の気性われと同じからねば、よろづに付て配慮あり。是に合わせんとすれば、気をかがめ、わが心のごとくせんとすれば、家治らず。

「家族といってもそれぞれ別の人格で、性格も異なる。こちらが合わせようとすれば鬱屈するし、かといってこちらの思い通りにさせようと無理強いすれば、家内の空気が険悪になってしまう」ということです。

これはまるで鈴木儀三治(すずきぎそうじ)(1770年~1842年)の晩年のことを皮肉っているようでもあります。

(6)息子と同居するも遠慮して別居、さらに転居

隠居した彼は今までの住居の二階を隠居用にして、夫婦で第二の人生を歩み始めました。もともと茶道の師匠だった彼のもとには、以前に増して茶友が集まるようになりました。

新住職の息子に対して何かと遠慮があり、また二階の上がり降りも面倒だったことから、1814年10月に小日向から水道町に転居しました。

水道町の住まいは、眼下に江戸川が流れ、蛍が飛び交い、網で鮎をすくい取ることもできました。四季折々の風情を楽しめる新居を「厭離庵」と名付けた彼は、自らも「市隠山人」と号しました。やっと理想の生活環境を手に入れたと思ったのでしょう。

しかしやがて、数々の悩ましい欠点がわかってきました。

①地主が並外れた犬好きで十数匹の犬を飼っていたため、吠え声がやかましいうえ、垂れ散らされる糞が汚く、毎月のように床下で子を産む始末

②川に面しているため、火事など非常時の際の避難が難しい

③夏になると小さな蛇がうじゃうじゃ出てくるので気味が悪い

④路地の出入口が「戌(いぬ)の刻」(午後8時頃)で閉まるため、帰宅が遅れると締め出しを食う

⑤地主の妻のねじけた性格

水道町に転居して2年後の1816年10月に、息子の大恵が19歳の若さで亡くなりました。彼は以前にもましてこの世の無常を実感し、「浮世」を「憂世」と達観したようで、彼はますます郊外に出て自然の美しさに触れようとする性癖を強めました。

4年余り我慢した後、1819年7月老夫婦は、水道町から牛込の赤城明神社内に転居しました。

(7)俗客を五首の「狂歌」で撃退

赤城明神社内の新居では、茶の稽古日を定め、月一度親しい友人を集めて「噺会(はなしかい)」を催したり、香道や茶会に招かれたり、風流で知的な生活が定着したかに見えました。

ところが、やがてさまざまな俗人が婦人連れでやって来て、深夜まで雑談するようになり、「閑居」はさながら「俗人たちのサロン」と化してしまいました。

不本意な彼は、五首の「狂歌」を襖(ふすま)に貼って彼らの撃退を図ったということです。

・隠れ家に人の来るこそうるさけれ わきておうな(女)は老いも若きも

・茶にあそび睦びし友はとひもせで おもはぬ人のとふぞくるしき

・友ならぬ人のとひ来て長居するは ひとりあるよりさびしかりけり

・疎(うと)くとも恨みはせじなまたぬ人は とふてもよしやとはでしもがな

・中ゝに人の来ぬこそうれしけれ ひとり居はよの噂きかねば

風流を解さない客はご遠慮ください。とりわけ女性は、老いも若きもまっぴら御免。友でもない人が押しかけて長居されると、一人でいるより寂しくなる、等々。

この狂歌を貼ったおかげで、1822年閏正月の末から「俗客」の夜ごとの来訪が絶え、彼はほっと胸を撫で下ろしました。

(8)風流で知的な暮らしを邪魔する「七つの不愉快」

「五首の狂歌」の話に続けて、彼は「予常ゝ忌嫌ふもの七あり」として「七つの不愉快」を列挙しています。

①雷電

②酒くらひ

③媼(ばばあ)

④児輩等(こどもら)

⑤女客

⑥よろづ利屈(理屈)の俗談

⑦巧言令色の人(口先だけの人)

(9)実は色気たっぷりの隠者

偏屈で女性蔑視の言を弄した彼ですが、根っからの女嫌いだったわけではなさそうです。

散歩の途中で「小股の切れ上がった女」を見れば、歩を休めて眼差しを注いだこともあります。

江戸の西郊の上北沢村の名主宅に評判の牡丹園を見に行った彼は、二十歳前の茶店の娘がむっちり肉付きのいいのに目をとめて、「ぼたん見や鄙(ひな)のむすめのふとり肉(じし)」と一句詠んでいます。

火災で新吉原が焼けた後、浅草花川戸で遊郭の仮宅(仮営業)が開かれているのを見物にやって来た彼は、遊女たちの美しさを「芙蓉(ふよう)もしかず」(芙蓉の花よりきれいだ)と讃え、「海棠(かいどう)の雨を帯し風情」(艶麗な海棠の花がしっとり雨に濡れた様子)にたとえています。

そしてこんなに魅力的な遊女たちだから「銀遣(かねつか)ふも無理ならず」と遊びに来る男たちにも理解を示しています。

(10)寺社や名所旧跡への辛辣な批評精神

①江ノ島で、岩窟内に恵比寿や大黒などさまざまな石像が並べられ「賽銭を貪る」のを見た彼は、岩屋の横穴が後世掘られたものであると指摘し、総じて江戸近郊の名所旧跡は「山師」の手が加わっているので「信用しがたき事多し」と評しています。

②名産と称して売られている品も相当怪しいと評しています。江ノ島で「鮑の粕漬け」が土産物となっているが、これは江戸で死んだ鮑を粕に漬けて江ノ島に運んで来た品で、「粕漬け求むべからず」と言っています。

③寺社の宝物も怪しいと評しています。小石川伝通院前の浄土宗西岸寺の宝物「源空上人の鏡の御影」は、浄土宗の開祖源空(法然上人)が鏡に映った我が老いの姿を描いた自画像と言われ、京都の二尊教院に伝来していました。それがどうして江戸の西岸寺の霊宝になっているのか?

この「鏡の御影」は、1785年に本所回向院で行われた開帳に出品されたものの、参詣人が少なく期待した収益が得られなかったため、帰りの旅費に窮した二尊教院の関係者から西岸寺の住職が金で手に入れたものだということです。

このような経緯で同寺の所蔵となった宝物だから、本物は本物でもその価値は「四五段衰えぬべし」(4~5ランクは落ちるだろう)と容赦がありません。

「買われた霊宝」と言えば、谷中長運寺の「遊女虎が石」も同様だと指摘しています。

相州網代の永昌寺の住職の「疑はしき宝物の更になきが当寺の由緒ぞ」という言葉も紹介しています。これは裏を返せば、寺院や神社の霊宝にはそれほど「偽物」が多かったということです。(江戸時代に限らず、現代の寺社も似たようなものだと私は思います)

(11)呪術的な医療やお守りの霊験にもチクリ。

①「よほど来歴定かで効験著しいと証明されていない限り、呪術的な医療行為は全ていかがわしい」と繰り返し述べています。

「病にはくすりあり。医を選んで療ずべし。何ぞ巫咒(ふじゅ)の類を争(いかでか)たのまん」(病気には治療薬がある。良い医者を選んで診てもらうのが一番。なんでわざわざ呪術者に頼る必要があろう)

②市ヶ谷の田中鋳十郎の家で発行している「疱瘡(天然痘)のお守り」は、「このお守りさえあれば10人に9人は快気する」と評判でしたが、鋳十郎の養父・禅楽は彼の茶友で、禅楽の孫が疱瘡で亡くなったことを知っていたので、次のように皮肉っています。

「神符(お守り)を施しながら、自身の孫は難治の疱瘡にて諸薬霊符の験もなく早世したるは、天の命か」

(12)大名や旗本による宗教ビジネスも批判

三田に上屋敷があった久留米藩(有馬家)は、藩邸に国許の筑後から水天宮を迎えて祀ったところ、毎月5日の縁日には参詣客が群をなしました。

水天宮に付設された「役所」には藩の役人が7~8人も居並び、1枚12文で「お札」を販売し、人々が群がるように買い求めていたそうです。

大名家だけでなく、旗本の中にも「お守り」を発行し、一族ぐるみで「賽銭稼ぎ」に熱をあげているところがあり、「宗教ビジネス」「霊感商法」真っ盛りだったようです。

3.『遊歴雑記』とは

『遊歴雑記(ゆうれきざっき)』は、全5編から成り、各編とも上・中・下の3冊ずつで合計15冊(957話)が存在しますが、現在出版されているのは初編の3冊のみ(平凡社東洋文庫)です。

文化9年(1812年)から文政12年(1829年)まで江戸を中心に房総から尾張地方に至る各地の名所・旧跡・風俗・伝説・風景等を詳細に記した見聞記です。

花であれ風景であれ、江戸の人々の知らない(あるいは忘れ去られた)穴場を探し出すのも楽しみの一つでした。

思いがけず興趣に富んでいた場所の情景を詳しく記し、その行き方や楽しみ方を紹介しています。

彼は自分を「隠者」と呼んでいます。「隠者」といっても、俗世を嫌って山中に隠れ住むわけではありませんでした。江戸の町中で暮らしながら、郊外の自然や旧跡に遊ぶ人でした。生産にも利殖にも関わらず、ぶらぶら遊歴するわが境遇を、彼は自負をもって「隠者」と呼んでいたようです。

最後に『遊歴雑記』の記事の具体例を2つご紹介します。

(1)「小金井」の地名の由来と湧水の記述

小金井と名付る事は、当処はるか南の方に人見山といふあり、此山より清潔の水湧出して、一村の人三拾戸余を養ふ、元来此辺凡三四里余の間、むかし更に清水なく、或は土中に鉄気(かなけ)あり、又は塩気あり、或は赤く、或は白く、扨(さて)は渋味ありて濁水飲がたく、人住居なりがたかりしに、天の扶助によりて自然と清水を得たるは、黄金を拾ひ得しに似たり、故に居村と成て小金井とは名付ぬ。

上記の箇所は、十方庵敬順が文化10年(1813年)に、小金井観桜に訪れ、「小金井」の地名の由来を土地の古老から聞き取りをした際の記録です。黄金のように貴重な湧水から「小金井」の名がついたとするのは、現在でもよく知られている通りですが、その湧水を人見山(ひとみやま)、つまり現在の府中市浅間山(せんげんやま)の湧水としています。

浅間山の湧水は「おみたらし」と呼ばれ、浅間山3つの頂のうち最も低い中山の小金井側(北面)にあり、現在も見ることができます。今では水量は微々たるものですが、昭和初期、梶野町長昌寺(ちょうしょうじ)の住職高橋素仙(たかはし そせん)は雨乞いのため、この「おみたらし」の湧水のそばで山籠もりをした逸話が残っています。(芳須緑『小金井風土記』)。

『遊歴雑記』とほぼ同時代の地誌『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)』や『武蔵名勝図会(むさしめいしょうずえ)』にも「おみたらし」の湧水の記録はありますが、「小
金井」の地名の由来になったとは書いていません。

いずれにせよ『遊歴雑記』の文章を素直に読めば、当否はともかく「おみたらし」の湧水を「小金井」の地名の由来と考える地元民がいたことには間違いありません。

現代では「おみたらし」の湧水はすっかり忘れ去られ、聞こえの良い黄金に値する貴重な
湧水の話だけが独り歩きしています。

(2)佃島の眺望の記述

佃島・歌川広重

上の画像は、歌川広重の「名所江戸百景」の中の「佃しま 住吉乃祭」です。

『遊歴雑記』には、次のように記されています。

此島の風土更に他國かと思はれ、恰も別世界の如し、家數凡貳百戸にも及び、町並は竪横の小路有て、商人職人體もみゆれど、多くは漁家にして、家居藁葺なれば、棟低く軒長く家財調度に至る迄、一風ありて最めずらしく、西の汀より東の渚まで凡そ三町、南北は二町もや有めらん、則南の海濱に彳めば、遥かに房總の山々は墨繪の如く、幽にみえて山形尖からず、近くは又品川より假奈川の出崎箕浦の方を眺望し、東は行徳の裏に至るまで一望の中にあり



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