杉田玄白 江戸時代の長寿の老人の老後の過ごし方(その8)

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杉田玄白

前に「江戸時代も実は『高齢化社会』だった!?江戸のご隠居の生き方に学ぶ」という記事を書きましたが、前回に引き続いて江戸時代の長寿の老人(長寿者)の老後の過ごし方・生き方を具体的に辿ってみたいと思います。

第8回は「杉田玄白」です。

1.杉田玄白とは

杉田玄白(すぎたげんぱく)(1733年~1817年)は、江戸中期の蘭方医・瘍医(外科医)です。名は翼、字は子鳳、玄白は通称です。父は若狭国(福井県)小浜藩外科医・杉田甫仙(すぎたほせん)(1692年~1769年)です。

生まれは江戸小浜藩邸。難産だったため、生まれたときは死んだものとして布に包んで置かれ、周囲は母親を救おうとしましたが結局死亡、改めて子を見ると生きており、男子だったので愁眉を開いたそうです。

解体新書』の訳業によって有名ですが、これはわが国で初めて刊行された蘭書の訳書です。

18歳から幕府医官・西玄哲(にしげんてつ)(1681年~1760年)について蘭方外科を学び、また宮瀬竜門(みやせりゅうもん)(1720年~1771年)に漢学を学んでいます。宝暦3年(1753年)小浜藩医となりました。

玄白は平賀源内などと同時代の人であり、家業が蘭方外科だったこともあって、蘭学に興味を持ちました。明和3年(1766年)、オランダ商館長の江戸参府中、前野良沢に連れられて大通詞・西善三郎に会い、オランダ語の難しさを知って学習を一時諦めました。

明和8年(1771年)春、中川淳庵が『ターヘル・アナトミア』(およびバルトリンの解剖書)をオランダ商館長の定宿から持参し、玄白はそれを藩に買ってもらいます。その図が精細でおそらく実を写したものであることを知り、実物と比較してみたいと思っていたところへ、骨ケ原での腑分の知らせを受け、淳庵・良沢にも知らせ、この書を持って骨ケ原に赴きました。

明和8年(1771年)3月4日江戸千住骨ケ原(小塚原)の刑場、で死刑囚の腑分(解剖)に立ち合いました。たまたま良沢も全く同じ本を持ってきており、その奇遇に驚きます。

帰り道に「この書を翻訳すればきわめて有益であろう、善は急げ」と話し合い、この日以降、ドイツ人クルムスの解剖学書のオランダ語版(当時の通称:ターヘル・アナトミア)の翻訳を思い立って前野良沢・中川淳庵らと共に訳業に励みました

みんなオランダ語をあまり知らなかったこともあって、いきなりヒエログリフ(エジプトの絵文字)を解析するような、大変な難事業だったようです。

4年の歳月を経て完成し、安永3年(1774年『解体新書』を刊行しました。

その苦労・子細は『蘭学事始』に感動的に記される通りです。この後わが国の蘭学は急速に進み、玄白は「蘭学の祖」として有名になります。

『解体新書』で導入された訳語に神経・軟骨などがあり、わが国の西洋医学・解剖学の基礎を築きました。 玄白が実地に優れた人物であることは、何人かの人たちと共同し、当時としては幕府に遠慮のあった蘭書の訳業を短期間に成就させたことでもわかります。

蘭学に多大の貢献をしたことは間違いありませんが、玄白による事績を日本の解剖の始まりとするのは誤りです。

わが国最初官許の解剖は、宝暦4年(1754年)に京都の山脇東洋によって行われました。骨ケ原腑分の17年前のことです。

享和2年(1802年)『形影夜話(けいえいやわ)』を書いて、文化7年(1810年)に刊行し、同12年(1815年)に82歳で『蘭学事始』を完成しています。

ほかに『大西瘍医書』『養生七不可(ようじょうしちふか)』『和蘭医事問答(おらんだいじもんどう)』『後見草(あとみぐさ)』『野叟独語(やそうどくご)』『犬解嘲(けんかいちょう)』などの著訳書があります。

学塾「天真楼」を経営し、大槻玄沢や杉田伯元、宇田川玄真らを育てました。家業は養子・伯元が継ぎ、実子・立卿は別家を立てました。

1817年に84歳で亡くなりました。墓所は江戸芝の天徳寺の塔頭栄閑院にあります。

2.杉田玄白の老後の過ごし方

彼は主家への勤務をはじめ、多数の患者を診療し、患家を往診する余暇に、学塾「天真楼」を経営し、大槻玄沢、杉田伯元、宇田川玄真ら多数の門人の育成に努めました。

また蘭書の収集に意を注いで、それを門人の利用に供するなど蘭学の発達に貢献しました。

そして『解体約図』(1773年)『狂医之言』(1773年)『形影夜話(けいえいやわ)』(1810年)『養生七不可(ようじょうしちふか)』(*)(1801年)などにおいて医学知識を啓蒙(けいもう)し、『乱心二十四条』『後見草(あとみぐさ)』(1787年成立)『玉味噌(たまみそ)』『野叟独語(やそうどくご)』(1807年成立)『犬解嘲(けんかいちょう)』『耄耋(ぼうてつ)独語』など多くの著述を通じて、政治・社会問題を論述し、その所信を表明しました。

(*)『養生七不可』とは次の7つです。

①昨日の非は、恨悔すべからず(昨日の失敗を悔やまないこと)

②明日の是は慮念すべからず(明日のことは過度に心配しないこと)

③飲と食とは度を過ごすべからず(食べすぎ、飲みすぎに注意すること)

④正物にあらざれば、いやしくも食すべからず(風変わりなものは食べないこと)

⑤事なき時は薬を服すべからず(何事もない時は薬を飲まないように)

⑥壮実を頼んで、房を過ごすべからず(元気だからといって無理をしないこと)

⑦動作を勤めて、安を好むべからず(楽をせず、適度に運動をすること)

なお、杉田玄白が古稀を迎える前年の享和元年(1801年)8月5日、彼が「有卦に入(い)る」(*)ということで、男女の孫子たちが、福の「ふ」に因んで頭に「ふ」の字のついた七つのもので祝ってくれました。そこで、玄白も彼らの長寿を願って「養生七不可」を執筆し、親友の子弟に配る意味もあってこれを版に起こしたのです。

(*)「有卦に入る」とは、陰陽道でその人の干支によって定めた幸運の年回りで、有卦に入ると7年間幸運が続くといいます。当時、有卦に入る年に「福」を取り込むため、頭に「ふ」のつく七つのものを揃えて祝う風習があったのです。

彼の日記『鷧斎日録』をみると、「病論会」なる研究会を定期的に会員の回り持ち会場で開催して、医学研鑽(けんさん)に努めた様子を窺うことができます。

若いころに阪昌周(さかしょうしゅう)(?~1784年)に連歌(れんが)を習って、自ら詩歌をつくり、宋紫石(そうしせき)、石川大浪(いしかわたいろう)ら江戸の洋風画家たちとも交わって画技も高かったことは、その大幅で極彩色の「百鶴(ひゃっかく)の図」をはじめとして、戯画などを通じて窺い知ることができます。

蘭方医学の本質を求めて、心の問答を展開した相手・建部清菴の第5子を養子に迎え、伯元と改称せしめ家塾を継がせました。実子立卿(りゅうけい)には西洋流眼科をもって別家独立させ、その子孫には成卿(せいけい)・玄端(げんたん)ら有能な蘭学者・蘭方医が輩出、活躍しています。

石川大浪が描いた肖像(冒頭の画像)は老境の玄白像をよく伝えています。

3.『解体新書(かいたいしんしょ)』(ターヘル・アナトミア)

解体新書

(1)『解体新書』とは

『解体新書』は、日本語で書かれた安永3年(1774年)発行の解剖学書です。ドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスの医学書 “Anatomische Tabellen “(1722年初版。日本語通称は無し)の蘭訳本(オランダ語訳書)である “Ontleedkundige Tafelen (1734年刊行。日本語での訛称および通称は『ターヘル・アナトミア』)を主な底本として、江戸時代の日本人が西洋医学書を日本語に翻訳した最初の書物です。

著者は前野良沢(翻訳係)と杉田玄白(清書係)です。安永3年(1774年)、江戸・日本橋の板元・須原屋市兵衛の下で刊行されました。本文4巻、付図1巻。内容は漢文で書かれています。

解体新書・人骨

(2)『解体新書』成立の経緯

杉田玄白と前野良沢の2人はオランダ渡りの解剖学書『ターヘル・アナトミア』こと “Ontleedkundige Tafelen ” をそれぞれ所持していました。

玄白は実際の解剖と見比べて『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚嘆し、これを翻訳しようと良沢に提案しました。かねてから蘭書翻訳の志を抱いていた良沢はこれに賛同し、中川淳庵も加えて翌日3月5日から良沢邸に集まって翻訳を開始しました。

当初、玄白と淳庵はオランダ語を読めず、オランダ語の知識のある良沢も翻訳を行うには語彙が乏しいレベルでした。オランダ語の通詞は長崎にいるため質問することも難しく、当然ながら辞書も無かったため、翻訳作業は暗号解読に近いものでした(この様子については玄白晩年の著書『蘭学事始』に詳しい)。

玄白は、この厳しい翻訳の状況を「櫂や舵の無い船で大海に乗り出したよう」と表現しています。安永2年(1773年)、翻訳の目処がついたため、世間の反応を確かめるために『解体約図』を刊行しています。

安永3年(1774年)、4年を経て『解体新書』が刊行されました。玄白の友人で奥医師の桂川甫三(甫周の父)が『解体新書』を将軍に献上しました。

4.『蘭学事始(らんがくことはじめ)』

蘭学事始・杉田玄白

(1)『蘭学事始』とは

『蘭学事始』は、文化12年(1815年)、83歳の杉田玄白が蘭学草創の当時を回想して記し、大槻玄沢に送った手記(上下2編)です。

当初は『蘭東事始らんとうことはじめ 』という題名でした。その他にも『和蘭事始わらんことはじめ 』とする記録もあります。日本における蘭学導入草創期の経緯が現場にいた者の目で描かれています。

『蘭学事始』は明治2年 (1869年) 年に福沢諭吉が刊行しました。

一滴いってきの油、これを広き池水のうちに点ずれば、散じて満池に及ぶとや。

「自分が生きている間にやりとげる、そんな命がけの事業。もし、やりおおせることができたとしても、満池のように広い世間さま、そこからしてみれば自分たちのやったことなんてまだまだほんの一滴。しかし、そこに点ずることによって、やがてそれは満池の広くへと自然におよんでゆくだろう」という意味です。

これは『蘭学事始』にある彼の言葉です。

玄白らが『解体新書』を著す時の苦労話が、この書物にはいろいろと載っています。玄白はその当時40才前後でした。当時としてはこれから高齢へと差し掛かる年頃です。

玄白はあせりを覚えずにいられませんでした。そのために、かなりハイペースで翻訳作業に当たったようです。

(2)『蘭学事始』成立の経緯

高齢になった日本蘭学の先駆者・杉田玄白は、自身の死後に蘭学草創期の史実が後世に誤り伝わることを懸念し、自らの記憶する当時のことを書き残そうと決意しました。

文化11年(1814年)に一応書き終わり、高弟の大槻玄沢に校訂させ、文化12年(1815年)に完成を見ました。

本書は玄白自筆の原稿本とその写本の2冊のみ書かれ、原稿本は杉田家に所蔵され、写本は玄沢に贈られました。このとき玄白82歳。2年後の文化14年(1817年)に玄白は84歳で死去しました。

その後、杉田家の原稿本は安政2年(1855年)の安政の大地震による杉田家の被災で失われました。また大槻家の写本もいつか散逸し、完全に失われたものとされて関係者から惜しまれていましたが、幕末のころ神田孝平が湯島の露店で偶然に大槻家の写本を見つけ、明治2年(1869年)、玄白の曽孫の杉田廉卿による校正を経て、福沢諭吉はじめ有志一同が『蘭学事始』(上下2巻)の題名で刊行しました。

その後再発行を重ね、日本における西洋医学導入期の当事者による貴重な一次史料として広く一般に読まれるようになりました。

(3)『蘭学事始』の内容

戦国末期の日本と西洋の接触から書きおこし、蘭方医学の発祥、青木昆陽や野呂元丈によるオランダ語研究などを記述しています。白眉はオランダ医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳する苦心談です。

明和8年(1771年)3月4日、前野良沢、杉田玄白、中川淳庵らは小塚原の刑場で刑死者の腑分け(解剖)を見学し、『ターヘル・アナトミア』の図版が精確なことに一同感銘して翻訳を決意しました。

辞書すらない当時の環境下で苦心のうち翻訳を進め、安永3年(1774年)に『解体新書』として刊行する特に良沢の名は『解体新書』には記されていなかったため、本書で初めてその業績が世に知られました。他にも、平賀源内、桂川甫周、建部清庵、大槻玄沢、宇田川玄真、稲村三伯など、同時代の蘭学者のエピソードが記されています。

5.杉田玄白の言葉

・医事不如自然

「医事は自然にはかなわない」という意味です。

杉田玄白は世の医学を進歩させるために、当時国内ではまったく受け入れられていなかった西洋医療を受け入れ、その唯物的ゆいぶつてき(物質頼み)で、合理的なやり方を率先して研究し、広めてゆきました。

しかし、最晩年に至ってのこの一言。何かここに東洋医学の神髄のようなものが見え隠れします。概念的でやや迷信的なきらいもあり、玄白自身、現にこれを否定する部分もありました。

西洋医学と東洋医学の全体のバランス。その辺りの養生の極意、世を捉える極意とも言えそうです。

・己上手と思わば、はや下手になるの兆(きざし)としるべし

・医の業は習熟に在らざればその妙処は得がたし。此の故に一人にても多く病者を取扱い、功を積みたる上ならでは、練熟することは成り難しと知れり

・為すべきは人にあり。成るべきは天にあり

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