鑑真は何度も失敗したのに、なぜ日本への渡航に執念を燃やしたのか?

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鑑真和上像

鑑真と言えば、唐招提寺にある「鑑真和上像」が有名ですね。ところで、鑑真は何度も失敗したのに、なぜ日本への渡航に執念を燃やしたのでしょうか?

今回はこれについて考えてみたいと思います。

唐招提寺

1.鑑真とは

鑑真(がんじん)(688年~763年)は、中国・唐の時代の僧で、「日本律宗」の開祖です。

14歳で大雲寺の智満について得度し、18歳で道岸から菩薩戒を受け、20歳で長安に入っています。その後、弘景・融済らに師事して「律宗」と「天台宗」を学び、後に揚州の大明寺で「律宗」を講じています。

律宗」とは、「仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え、研究する宗派」です。彼は4万人以上の人々に「授戒」を行った高僧です。

彼は753年に来日した後、754年には東大寺大仏殿の前で、聖武上皇以下約440名の僧に「授戒」しています。755年には東大寺戒壇院を建立し、759年には唐招提寺を建立しています。758年には僧としての最高位の「大和上(だいわじょう)」の称号を与えられています。

2.鑑真に対する日本への渡航懇請

733年に日本から唐に渡った僧の栄叡・普照が、742年に、揚州の大明寺の住職で高名な僧となっていた彼のもとを訪れ、「戒律を日本に伝えるために鑑真の弟子を日本に招きたい」と懇請しました。

飛鳥時代の538年に百済から日本に伝わった仏教ですが、僧侶が守るべき戒律と儀式については日本に正式な形では伝えられていなかったからです。

彼は弟子たちに希望者を募りましたが誰も手を挙げませんでした。当時日本への渡航は命がけで、大変リスクが大きかったからです。

そこで自ら日本へ行く決意を示したところ、それを聞いた弟子たちも同行することになりました。

3.鑑真の日本への渡航計画の失敗と成功の経緯

彼は日本への渡航を最初の計画から12年にわたって5回も試みましたが、「日本僧は実は海賊だ」というニセの密告をされて出航前に断念したり、途中で難破したりしてことごとく失敗に終わりました。

唐では一般人の海外渡航は固く禁じられていましたが、鑑真の「密航」についての「密告」は鑑真の渡日を惜しむ者や危険な船旅を嫌がる弟子たちによる妨害です。

その間、36人が命を落とし、200人以上の弟子たちが脱落し、彼自身も目を病んで視力を失ってしまいました。

しかし753年の6回目でようやく成功します。失敗の多くは弟子たちの密告によるもので、6回目は遣唐使船にこっそり乗り込んで成功しています。

6回目については次のような興味深いエピソードがあります。

最初遣唐大使の藤原清河が彼のもとを訪れ渡日を約束しましたが、明州当局の知るところとなり、清河は彼の乗船を拒否します。しかし、それを聞いた遣唐副使の大伴古麻呂が第二船に彼をこっそり乗船させました。

藤原清河の乗る第一船は途中で座礁してベトナム北部に漂着し、結局唐へ戻ることになりました。この中に奇しくも阿倍仲麻呂が乗っていました。仲麻呂や清河は二度と日本には戻れませんでした。

鑑真は幸いにも第二船に乗っていたためようやく無事に日本にたどり着くことができました。

4.鑑真が日本への渡航を決意した理由

彼は「弘法(ぐほう)のため、不惜身命(ふしゃくしんみょう)の思いに燃え、自ら弟子を率いて来朝した」とされています。確かにそういう面もあったと思いますが、それにしてもこの大変な執念の理由はほかになかったのでしょうか?

私は、もう一つの背景として、当時の中国・唐では「道教」が広まって「国教」となり、「仏教」が衰退していたことがあったと思います。

大航海時代以降、ヨーロッパの帝国主義列強が、アフリカや南北アメリカ、インド・中国などのアジア諸国を植民地化し、植民地経営に利用するために宣教師を派遣してキリスト教を広めました。日本にもイエズス会の宣教師がやって来ています。

これとは若干違うかもしれませんが、鑑真が唐での律宗の布教拡大に限界を感じ、新天地日本での布教に執念を燃やしたとしても不思議ではありません。

5.鑑真ら唐の僧をどうしても招きたかった聖武天皇の意図

(1)国家統治・民衆支配の道具としての仏教

鑑真(またはその弟子)に日本への渡航を懇請した入唐僧の栄叡・普照は、実は聖武天皇(701年~756年、在位:724年~749年)が授戒できる僧10人を日本に招くために送り込んだ留学僧でした。

聖武天皇は、金光明経に「仏教を信仰すれば国は護られる」(鎮護国家仏教)という考え方があることから、「仏教」による国家統治・民衆支配を目論んでいたからです。

(2)僧侶の質の低下や仏教の腐敗への対策

奈良の都(平城京)では、重要視する経典や思想の違いによって6つの宗派(南都六宗)が生まれました。

また僧侶の質が低下し、仏教や僧侶の腐敗堕落が目立つようになっていました。それは、僧になると「労働・納税・兵役」が免除されるため、自分で出家を誓って安易に僧(私度僧)になる者が多かったからです。

そこで、これを食い止めるために、「戒律」と呼ばれる僧侶を律する仕組みを導入する必要に迫られたのです。

ただ皮肉なことに、聖武天皇は東大寺建立や大仏造立で多額の国費を浪費し、国家財政を窮乏に陥れています。

更に皮肉なことに、聖武天皇の娘の孝謙天皇(重祚して称徳天皇)は、弓削道鏡という僧侶との禁断の愛で危うく皇位を簒奪されそうになっています。

鑑真の責任ではありませんが、もう一つ残念なことがあります。日本天台宗の開祖最澄が、比叡山に「戒壇院」設立を天皇に求めても、最澄を嫌う既成勢力である奈良の大寺院の僧侶による激しい反対によって、最澄の生前は戒壇院の設立の許可が得られなかったことです。

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