「美濃のマムシ」と呼ばれた斎藤道三はどのように成り上がり国盗りをしたのか?

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斎藤道三

(斎藤道三)

2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で本木雅弘さんが熱演して話題になっている斎藤道三ですが、彼は一介の油売りからどのようにして成り上がり、美濃一国の国盗りを成し遂げたのでしょうか?

今回は斎藤道三について分かりやすく解説してみたいと思います。

1.斎藤道三とは

司馬遼太郎の小説「国盗り物語」で織田信長とともに主人公となり、「下剋上の戦国大名」として有名になった斎藤道三ですが、前半生はあまり詳しくわかっていません。

斎藤道三(1494年?~1556年)は、戦国時代の武将で美濃の戦国大名で、「美濃のマムシ」との異名があります。松永久秀・宇喜多直家(あるいは北条早雲)とならんで「戦国三大梟雄(きょうゆう)」とも呼ばれています。

先祖は代々「北面の武士」を務めていたそうです。父は松波左近将監基宗といい、事情によって牢人となり、山城国乙訓郡西岡に住んでいました。彼もここで生まれています。

彼は幼い頃、京都の妙覚寺で僧侶となり、法蓮房と呼ばれました。その後還俗して松波庄五郎(庄九郎とも)と名乗り、油問屋の奈良屋又兵衛の娘と結婚し、「山崎屋」という屋号の油商人となります。

彼の商法は、「油を注ぐ時に漏斗(ろうと)を使わず、一文銭の穴に通して見せます。油がこぼれたらお代は頂きません」と言って油を注ぐ一種のパフォーマンスを見せるもので、美濃で評判となっていました。

行商の旅に出ていたある日、美濃でかつての弟弟子である日護房に再会し、彼の紹介で美濃守護・土岐氏の老臣・長井長弘(?~1533年?)に仕えることになります。

もう一つの説によると、油売りの行商で成功した彼がある日、油を買った土岐家の矢野という武士から「あなたの油売りの技は素晴らしいが、所詮商人の技だろう。この力を武芸に注げば立派な武士に慣れるだろうが、惜しいことだ」と言われ、一念発起して商売をやめ、槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になったということです。そして、武士になりたいと思った彼は、美濃・常在寺の住職となっていたかつての弟弟子の日護房に推挙してもらって美濃守護・土岐氏の小守護代の長井長弘氏の家臣になったということです。

長井長弘は彼の才能と武技を気に入り、守護である土岐政房(1457年~1519年)の嫡男・政頼(生没年不詳)とその弟・頼芸(1502年~1582年)にも目通りさせています。頼芸は彼を気に入ったようです。

その後土岐家では「家督争い」が起こります。政房は頼芸に跡を継がせたかったのですが、政頼が勝利し美濃守護となります。

しかし頼芸に気に入られていた彼は、政頼を追い出して頼芸を守護の座につけ自分も成り上がるために、1527年8月にひそかに戦支度を整えて政頼に夜襲をかけ、美濃から追い出すことに成功します。政頼は越前国の朝倉孝景のもとへ落ち延びました。

ただ彼は頼芸を守護の座につけることに成功したにもかかわらず、長井長弘の家臣のため、目立った恩恵にあずかることができず、次第に長井長弘が邪魔になります。

1530年正月に、彼は「政務怠慢」あるいは「長弘が越前の政頼と内通したので上意討ちにした」などの理由で長井長弘夫妻を殺害し、長井家を乗っ取ります。長井家を乗っ取った彼は稲葉山城(後の岐阜城)を本拠とします。

1538年には、長井氏と同様に土岐氏の重臣であった守護代の斎藤利良が亡くなると、彼がその名跡を継いで「斎藤氏」を名乗るようになります。

しかし、「権威」のない成り上がり者の彼を周囲はそう簡単には受け入れてくれません。そこで彼は美濃一国を奪い取ろうと立ち上がります。1541年、彼は主君である土岐頼芸と土岐頼純を大桑城に攻め、城から追い出してクーデターは無事成功します。頼芸は尾張へ逃げ、頼純は母方の実家・朝倉氏を頼るために越前に向かいました。

その後も、尾張の織田信秀の援護を受けた土岐頼芸や、越前の朝倉孝景が後ろ盾となった土岐頼純による美濃への侵攻に悩まされます。

彼は難攻不落の稲葉山城を本拠によく戦いますが、ついには和睦することになります。

そして織田家・朝倉家との和睦の条件に「帰蝶の政略結婚(実質的な人質)」の話が持ち上がるのです。これについては次の「娘の帰蝶(濃姫)との関係」で詳しく述べます。

頼芸はその後、彼によって美濃から追放され、流れ流れて近江や常陸、上総、甲斐にまで行きました。最終的に頼芸は織田信長の甲州征伐(1582年)の時に、武田氏に身を寄せていたところを発見されています。

斎藤義龍

(斎藤義龍)

彼の後継者としては、嫡男・義龍(1527年~1561年)のほかに男子が次男・孫四郎、三男・喜平次などがいましたが、彼は義龍を嫌い、次男や三男を可愛がっていたようです。「義龍は頼芸と御芳野(元は頼芸の愛妾で、彼に側室として下げ渡された女)との間に出来た子供ではないか?」という疑念があったからかもしれません。

彼は和議を結んで帰蝶を実質的な人質として輿入れさせた織田信長のことを、最初は風評のように「うつけ者」かも知れないと思っていたようですが、美濃へ呼んで実際に対面してみて、「ただ者ではない」とその人物にほれ込んだようです。そして義龍らとの「長良川の戦い」の前には「美濃一国は信長に譲り渡す」との遺言まで残しています。

最初は義龍を廃嫡することまで考えた彼ですが、家臣団からの圧力もあったのでしょうか結局義龍に家督を譲ります。

そして、最後には義龍は父・道三を討つことを決意し、まず1555年に弟二人(孫四郎と喜平次)を呼び出して謀殺し、1556年の「長良川の戦い」で道三と決戦します。

道三に味方する家臣は少なく、多くの家臣団は義龍側に付いたため、彼は息子に討ち取られることになります。

彼は生前、義龍を「無能」と評していましたが、「長良川の戦い」における義龍の采配を見て、その評価を改め後悔したとも言われています。

彼は同盟関係にあった織田信長に援軍を頼みます。事の次第を知った織田信長は自ら援軍に急行しましたが、既に道三は敗死した後でした。

彼の死後の1561年、義龍が急死した好機をとらえて信長は美濃に侵攻し、義龍の息子・龍興を破って美濃国を手に入れます。奇しくも道三の遺言通りになったのです。

彼の辞世は「捨ててだにこの世のほかはなき物をいづくかつひのすみかなりけむ」です。

2.娘の帰蝶(濃姫)との関係

道三は、「娘は政略結婚の道具」としか考えていなかったようです。娘の一人は飛騨姉小路氏の当主で戦国大名の姉小路頼綱(1540年~1587年)の正室となっています。他にも土岐頼香正室や、斎藤利三正室、伊勢貞良正室、稲葉貞通正室となった娘たちがいます。

帰蝶

(大河ドラマでの帰蝶役の川口春奈)

そしてもう一人の娘帰蝶(濃姫)(1535年~?)は、最初美濃国の守護大名である土岐頼純(1524年~1547年)に嫁ぎ、正室となっています。

なおこの前に織田信長との婚姻の約束があったという伏線があります。

1541年ごろ、道三は守護の土岐頼芸を放逐し、その一族も殺害して美濃国主となります。しかし依然として土岐氏に従う家臣も多く、国内の秩序は乱れていました。そこで土岐頼芸から下げ渡された側室・御芳野の子である嫡男・義龍を「頼芸の落胤」であると称して美濃守護に据えます。

しかし1544年8月、斎藤氏の台頭を嫌う隣国尾張の織田信秀(1511年~1552年)が、頼芸を援助して派兵し、越前国の朝倉孝景の加勢を受けた頼芸の甥・土岐頼純とともに美濃に攻め込んでいます。その結果、稲葉山城下を焼かれ敗色濃厚となったため、道三は双方と和睦することにしました。

織田家との和睦の条件は、信秀の嫡男・吉法師丸(信長)と娘との婚姻(実質的な人質)の誓約です。土岐家とは、頼芸を北方城に入れ頼純を川手城に入れるという約束でした。

1546年に道三は朝倉孝景とも和睦し、頼芸が守護職を頼純に譲るという条件で、新たに和睦の証(人質)として娘の帰蝶を頼純に輿入れさせ、頼芸と頼純を美濃に入国させました。

この時点で、信長と帰蝶との婚姻の約束は一時保留となりましたが、織田・朝倉は道三討伐を諦めておらず、1547年に頼芸と頼純に大桑城に拠って土岐氏を支持する家臣団を糾合して蜂起するよう促します。

しかしこれを知った道三は大桑城に大軍で攻め寄せたため、頼芸は朝倉氏の越前一乗谷に落ち延び、頼純は討死しています(頼純は翌年突然亡くなったとも言われています)。帰蝶は後家になって実家に戻ります。

その後道三と信秀が大垣城を巡って争いますが決着が付かず和睦することになります。それで和睦の条件として先年の縁組の話が再度持ち上がり、帰蝶は信長のもとに輿入れ(実質的な人質)することになったのです。

3.「美濃の国盗りは父と道三の二代にわたるものだった」という新説

今まで、「道三は一介の油商人から身を起こして、一代で美濃を国盗り(平定)した」というのが通説で、私の解説もそれに従ったものです。

しかし最近になって、「美濃の国盗りは父と道三の二代にわたるものだった」という説が有力になって来ています。

これは1965年~1973年に発行された「岐阜県史」編纂の過程で発見された古文書「六角承禎条書写」によって、長井新左衛門尉とその子斎藤道三の父子二代の事業だったとの見方が出てきたのです。

このような有名な人物についても、新しく発見された史料によって定説・通説が覆されるのですから、素人の私たちでも想像力を駆使していろいろな「仮説」を考えることが出来るわけです。そういう意味で「歴史」というのは本当に興味が尽きないものだと私は思います。

歴史は勝者によって美化されたり潤色されたりして作られる「勝者の歴史」です。勝者は敗者についての史料や関係文書などは抹殺します。勝者にとって不都合な記載のある文書はもちろんそれ以外でも残さないようにするため、敗者の前半生が謎であることはよくある話です。

敗者と深いつながりのあった者は、勝者による追及を恐れて自己保身のために敗者との関係を示すような文書は焼却処分したり秘匿したりして闇に葬るのではないかと思います。敗者と何らかの関係のあった者も、口を閉ざし記録などの書面には残さないはずです。

余談ですが旧日本軍の大本営が、敗戦・降伏直前に各部隊に対して「戦争責任を追及されたり外交上不利になる機密文書の焼却処分」の暗号指示を出していたという話をきいたことがあります。