NHK朝ドラ「エール」の主人公のモデルの古関裕而とはどのような人だったのか?

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古関裕而

2020年3月30日からNHK朝の連続テレビ小説「エール」が始まりました。「エール」はもちろん「エールを送る」のエール(yell)、「(福島への)応援」という意味です。

このドラマは、昭和の日本の音楽史を代表する福島県出身の作曲家古関裕而(1909年~1989年)と、歌手としても活躍したその妻古関金子(1912年~1980年)の波乱万丈の生涯の物語です。

第一話の冒頭の場面では、紀元前1万年前の原始時代から音楽がいかに人生の中に存在していたかを軽快かつコミカルに描いていて話題を呼びました。

そこで今回は主人公「古山裕一」のモデルである古関裕而についてご紹介したいと思います。

1.古関裕而とは

(1)出生・幼少期

古関裕而(本名:古關勇治)は、1909年福島県福島市大町の呉服店「喜多三(きたさん)」に父・三郎次、母・ヒサの長男として生まれました。母の実家の武藤家は福島県有数の資産家でした。

父親が音楽好きで、大正時代ではまだ珍しかった蓄音機(レコードプレーヤー)を購入し、いつもレコードをかけていたそうです。

楽しそうにレコードを聴いている息子を見て、母親が小さなピアノを購入すると、彼は喜んで夢中でピアノに向かいます。弾いているうちに音符の意味がわかるようになり、小学校を卒業する頃には楽譜が読めるようになっていたそうです。

同じ町の近所に鈴木喜八(1904年~1966年)という5歳上の少年がおり、よく遊んだ幼馴染ですが、鈴木は後に「野村俊夫」という名前で作詞家となり、古関とともに数々の曲を世に送り出すことになります。

(2)青少年期

1916年に福島県師範学校附属小学校に入学します。10歳の頃には楽譜が読めるようになり、市販の「セノオ楽譜(*)」を買うようになります。

(*)「セノオ楽譜」とは、妹尾幸次郎によって大正時代に出版された一連のピース楽譜です。表紙絵には「大正ロマンの象徴」と言われた竹久夢二ら有名画家の作品が用いられ、一世を風靡したと言われています。セノオ楽譜の人気の秘密は、当時の日本人の音楽趣味をよくとらえた選曲と、斬新なデザインの装幀の美しさにありました。

担任の教師が音楽好きで、音楽の指導に力を入れていたそうです。独学で作曲を覚え、作曲に夢中になった彼のもとには、クラスメートが詩を持って来て作曲を依頼するようになります。

1922年に、音楽家が多い旧制福島商業学校(現福島商業高校)に入学します。家業を継ぐために商業学校に入ったものの、常にハーモニカを携帯し、学業より作曲に熱中して留年したこともあるそうです。

この頃も、セノオ楽譜や山田耕筰著の「作曲法」などを買い集め、独学で作曲法の勉強をつづけましたが、在学中に実家の呉服店が倒産してしまいます。

学校を卒業する頃、当時日本でも有数のハーモニカバンドだった「福島ハーモニカ・ソサエティー」に入団し、彼は作曲・編曲・指揮を担当します。

地元の音楽仲間が主宰する「火の鳥の会」が近代音楽家のレコードコンサートを開いており、そこで初めて近代フランス・ロシアの音楽に出会い衝撃を受けたそうです。

傾倒したのは、リムスキー・コルサコフの「シェエラザード」とストラヴィンスキーの「火の鳥」、ドビュッシー、ムソルグスキーなどです。

実家の呉服店が倒産したこともあり、学校卒業後は母方の伯父が頭取を務める「川俣銀行」(現東邦銀行川俣支店)に就職します。

この頃、学生時代から憧れていた山田耕筰の事務所へ楽譜を郵送し、何度か手紙のやり取りもしています。

1929年、彼が作曲した管弦楽のための舞踊組曲「竹取物語」が、ロンドンのチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールで2位に入賞しました。

これは国際的作曲コンクールでの日本人初の入賞で、当時の新聞にも大々的に報道されました。この報道を読んだ声楽家志望で愛知県豊橋市在住の内山金子が彼にファンレターを送り、熱烈な文通によるわずか3カ月間の遠距離恋愛を経て、1930年にスピード結婚しています。

彼は金子との関係を、作曲家ロベルト・シューマンとその妻クララになぞらえて、彼女を自分の音楽活動のパートナーとして共に生きる夢を描いていたそうです。

(3)コロムビア専属の作曲家へ

1930年に、日本コロムビア顧問の山田耕筰の推薦によって「日本コロムビア」に入社しています。最初のレコードは「福島行進曲」です。1931年には早稲田大学応援歌「紺碧の空」を作曲し、同年9月山田耕筰の推薦で「日本コロムビア専属作曲家」に迎え入れられ、夫婦で上京しています。

東京ではクラシック音楽作曲家の菅原明朗に師事しています。

しかし、実家が経済的に破綻してからは一族を養うために、クラシックの作曲から離れざるを得なくなります。1935年に作曲した「船頭可愛や」が大ヒットとなります。この頃、声楽家志望だった妻の金子が帝国音楽学校に進んでいます。

1936年には「大阪(阪神)タイガースの歌/通称:六甲おろし」を作曲しています。これは現在のプロ野球12球団の中で最も古い球団歌です。

(4)戦中

1937年に発表した「露營の歌」は60万枚の大ヒットとなりました。1938年には中支派遣軍報道部の依頼により、「従軍音楽部隊」として上海・南京を訪れています。

1940年の「暁に祈る」や、1943年の「若鷲(予科練)の歌」も大ヒットとなりました。

彼の作曲した軍歌は、軍の委嘱による「師団歌」や「連隊歌」ではなく、「軍国歌謡」「戦時歌謡」「銃後歌謡」で、その曲数は100近くに上ったそうです。なお、戦後GHQによって廃棄させられた楽譜もあるため、正確な数は不明とのことです。

(5)戦後

1945年8月15日に戦争が終わりました。彼は、戦後は心機一転して、暗く不安な日本を音楽で明るくするための活動に力を注ぎます。

①「長崎の鐘」:長崎だけにとどまらず日本全体に向けた壮大な鎮魂歌です。

②「とんがり帽子」:戦災孤児の救済がテーマのラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌です。

③「オリンピック・マーチ」:1964年東京オリンピックの開会式に鳴り響いたマーチです。

④「栄冠は君に輝く」:現在も毎年夏の甲子園に流れている高校野球大会歌です。

ほかにも、「フランチェスカの鐘」「君の名は」「高原列車は行く」など、明るい曲・元気の出る曲・勇壮な曲が次々と発表されました。

(6)晩年

1969年、紫綬褒章を受章しています。

1972年10月に放送開始されたフジテレビ系の音楽娯楽番組「オールスター家族対抗歌合戦」の審査員を、1984年6月まで12年間も務めました。

多くの人がこの番組を見て、古関裕而の顔と名前を覚えたのではないでしょうか?

1979年には勲三等瑞宝章を受章し、レコード大賞特別賞も受賞しています。

1989年、脳梗塞のため亡くなりました。享年80でした。

彼の曲は、良くも悪くも人々にエールを送る「応援歌」だったと思います。戦中は兵隊の士気を鼓舞し、銃後の婦女子には戦意高揚の心の支えとなりました。戦後は一転して、敗戦による虚脱状態から国民が明るく力強く立ち上がれるように応援する力となりました。彼の曲にはその力があったことは疑う余地がありません。

彼が作曲した曲は5000曲に及ぶと言われています。実に数多くの応援歌・行進曲を作曲したことから「和製スーザ」とも呼ばれています。

歌は、傷ついた人の心を癒したり、勇気づけたり、懐かしい気持ちを呼び起こしたりする不思議な力を持っています。「詩」と「メロディー」は、一概にどちらが優位にあるかといった優劣を付けることはできません。

「作詞」と「作曲」は車の両輪とでも呼ぶべきもので、どちらが欠けても、「日本人の愛唱歌」「日本人の心の歌」にはならなかったでしょう。歌があってそれに曲を付ける場合は、本来は優れた詩(作詞)があって、それにふさわしい作曲が融合した時に、多くの人の心に響くのではないかと思います。

ただ、彼の曲の場合は「作曲」の力がかなり大きく、彼あののメロディーがあったからこそ、人の心を打つ歌になったと思うのは私のひいき目でしょうか?

2.古関裕而の代表曲

(1)戦前の代表曲

1930年(昭和5年)に日本コロムビアに入社した翌年、早稲田大学応援歌「紺碧の空」を作曲しています。

その後、「利根の舟歌」と「船頭可愛や」が連続してヒットし、流行作曲家の地位を不動のものとしました。

戦時中は、時局柄やむを得ないことではありますが、国民の戦意高揚のための曲を数多く作っています。軍歌「露營の歌」(勝って来るぞと勇ましく~)、「暁に祈る」(あゝ、あの顔で、あの声で~)「若鷲(予科練)の歌」(若い血潮の予科練の~)、「愛国の花」(ましろき富士の気高さを~)などが愛唱されました。

ほかにも、「慰問袋を」「彈雨を衝いて」「婦人愛國の歌」「憧れの荒鷲」「荒鷲慕いて」「嗚呼北白川宮殿下」「海の進軍」「英國東洋艦隊潰滅」「みんな揃って翼賛だ」「断じて勝つぞ」「防空監視の歌」「大東亞戦争陸軍の歌」「シンガポール晴れの入城」「アメリカ爆撃」「空の軍神」「戦ふ東條首相」「撃ちてし止まん」「ラバウル海軍航空隊」等があり枚挙にいとまがありません。

批判はあるかもしれませんが、彼は戦時下、「軍歌の最大のヒットメーカー」だったことは事実です。なお彼は、自らの作品で戦地に送られ、戦死した人への自責の念を持ち続けていたそうです。

(2)戦後の代表曲

戦後は「長崎の鐘」、「イヨマンテの夜」、「高原列車は行く」などの歌謡曲や、「鐘の鳴る丘」、「君の名は」などのラジオドラマの主題曲がヒットしました。

また、「六甲おろし」(阪神タイガース応援歌)、「オリンピックマーチ」、「栄冠は君に輝く」(全国高校野球選手権大会の歌)「闘魂こめて」(読売ジャイアンツ応援歌)「我ぞ覇者」(慶應義塾大学応援歌)などのスポーツ曲にも名曲を生み出しました。

3.古関裕而のエピソード

(1)結婚後も妻に年賀状を出した

彼は20歳で18歳の内山金子と結婚しましたが、「今年も仲良くしましょうね」という気持ちを込めて、結婚後も妻に年賀状を出したそうです。

(2)甘党で三ツ矢サイダーが好きだった

4.古関裕而の言葉

(1)テーマや詩を前にして、その情景を思い浮かべる。すると、音楽がどんどん頭の中に湧いてくる。

(2)知識とは靴である。履かなくても歩けるが、履いていれば何かと守られる。

(3)商業学校での私は、ソロバンの玉よりも音符のタマの方が好きだった。



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