残念な天皇の話(その15)。崇徳天皇は一生不幸で日本三大怨霊の一人となった

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崇徳天皇

日本の皇室(天皇家)は「世界最長の歴史を誇る王室」と言われており、古事記や日本書紀にある神武天皇が実在していたとすると、第126代の今上天皇まで皇室は2600年以上の歴史があることになります。

応神天皇5世の孫とされる第26代継体天皇(450年?~531年)が確実に実在した初代天皇だとしても、「世界最長の歴史を誇る王室」であることに変わりはありません。

このような天皇家の長い歴史の中では、暴虐の大君や暗愚な天皇、好色な天皇、間抜けな天皇もいましたが、一生不幸続きという運の悪い天皇もいました。今回ご紹介する崇徳天皇は怨念が高じて最後には「怨霊」となった天皇です。

1.崇徳天皇とは

崇徳天皇系図

第75代崇徳天皇(1119年~1164年、在位:1123年~1142年)は第74代鳥羽天皇(1103年~1156年、在位:1107年~1123年)の第一皇子で、母は中宮・藤原璋子(待賢門院)です。

一見すると恵まれた環境のようです。幼くして天皇になり、若くして退位しているのは父の鳥羽天皇も同様です。

しかし、父の鳥羽天皇は若くして退位後も、崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の三代にわたって「院政」を敷いて死ぬまで実権を握っていましたが、崇徳上皇には全く実権がなかったことが大きく違います。

そして1156年の「保元の乱」で弟の後白河天皇に敗れて、讃岐に配流され、一生京へ戻ることを許されず、不遇のうちに一生を終えました。

なぜこのような不幸な生涯を送ることになったのでしょうか?

(1)3歳で即位し幼き帝となる

彼は1123年1月28日に皇太子となりましたが、同日に父の鳥羽天皇が譲位したため践祚し、2月19日に天皇に即位しました。

彼は第一皇子であるにもかかわらず、父の鳥羽天皇に嫌われていました。その理由は彼が鳥羽天皇の実の息子ではなく、曾祖父にあたる白河法皇(1053年~1129年、在位:1073年~1087年)と母・藤原璋子との密通の結果生まれた子、つまり「叔父子」と呼ばれる関係(父から叔父と呼ばれる関係)にあったからです。

ちなみに平清盛(1118年~1181年)も「白河法皇のご落胤」だという噂が当時から広く信じられていました。

(2)22歳で譲位し実権なき上皇となる

加えて白河法皇が鳥羽天皇に譲位を迫り、幼い崇徳帝を天皇に即位させたことが鳥羽帝に一層の憎しみを与えました。

これが後に白河法皇没後に生まれた崇徳帝の弟(近衛天皇)への譲位を、鳥羽帝が崇徳帝に迫ることにつながるのです。

この時、近衛天皇(1139年~1155年、在位:1142年~1155年)はわずか2歳で、しかも16歳の若さで亡くなっています。呪詛されたとの説もあります。

次に鳥羽帝が指名したのが、崇徳帝の弟・後白河天皇でした。ここから長く苦しい崇徳帝と後白河帝との確執と戦いが始まったのです。

(3)保元の乱

ただの兄弟喧嘩で済まなかったのは、貴族の藤原氏同士の争いや武士の源氏と平氏との確執も関係したからです。

それぞれの思惑が複雑に絡み合い、やがて「保元の乱」(1156年)という朝廷全体を巻き込んだ内乱へと進んで行ったのです。

「保元の乱」は、要するに「皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方とに分かれ、双方の衝突に至った政変」です。

(4)讃岐配流

結局、崇徳上皇方が敗北し、上皇は讃岐(香川県)に配流されました。この朝廷の内部抗争の解決に武士の力を借りたために、武士の存在感が増し、後の約700年にわたる武家政権へつながるきっかけの一つになりました。

(5)配流先での生活

この地で軟禁生活を送っていた崇徳院は京への帰還を願い、また亡き父・鳥羽帝への別れの挨拶もさせてもらえなかった悲しみを抱え、「五部大乗経」の写本を認(したた)めました。一説には自らの血で写経したとも言われています。

これを京の寺へ納めてほしいと朝廷へ送りましたが、後白河帝は「呪詛が込められているかも知れない」として、そのまま突き返しました。

この写経を突き返された瞬間から、崇徳帝は「怨霊」への道を歩み始めました。

2.「日本三大怨霊」の一人となった崇徳天皇(崇徳院)の凄(すさ)まじい怨霊伝説

怨霊となった崇徳院

1156年の「保元の乱」の結果讃岐に流罪となり同地で亡くなった崇徳院は、菅原道真・平将門と並ぶ「日本三大怨霊」の一人です。

彼は「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と宣言し、以後は髪も爪も切らず身も整えず、その姿は夜叉のようで「天狗」そのものだと評されました。この時、崇徳帝は「自分は大天狗となって、天皇は民となり、民が天下を取るようにしてやる」と言ったのです。

加えて、亡くなった後も崇徳帝は帰京を許されず、讃岐の地で荼毘に付されました。この場所には後に「白峯御陵」が設けられました。一説では、崇徳帝は刺客によって暗殺されたとも言われています。

崇徳帝が没した12年後から災いが始まりました。「延暦寺の強訴」「安元の大火」「鹿ケ谷の陰謀」など幾多の動乱が起き、京は大火で焼け、崇徳帝に対立した朝廷に関係する人々が次々と亡くなりました。

恐れをなした後白河帝は、保元の乱の戦いの場に「崇徳院廟」(粟田宮)を、崇徳帝の直筆画が奉納されていたお堂を観勝寺(現・安井金比羅宮へとつながる)として建立、崇徳帝の慰霊をしてきた讃岐の寺(現在の白峯寺)には朝廷からの保護が与えられました。

しかしそれでも京の災いは収まらず、結局後白河帝が亡くなるまで、崇徳帝の怨霊は暴れ続けたということです。

これまで、悲運の中で生涯を閉じた皇族は多くいて、怨霊と化した人物もいますが、仇と目する人物が亡くなると収まることがほとんどでした。

ところが、崇徳帝はその後も多くの人々の中で怖れられ続けました。「恨み骨髄に徹する」ということでしょうか?

まず、二条天皇(後白河帝の次の天皇)は、崇徳帝の遺体を荼毘に付すまで冷やして保存していた場所へ白峯宮を建立し、源頼朝は鎮魂のため崇徳帝の御願寺であった成勝寺を修造し、天下安寧を祈願しました。

ちなみに、現在「祇園歌舞練場」裏にある崇徳天皇御廟は、崇徳帝の寵妃・阿波内侍が遺髪を祀り、菩提を弔ったのが元だと言われています。現在、京都の御廟はここだけとなっています。

そして以後100年ごとに「式年祭」が執り行われ、1864年の「700式年祭」はちょうど幕末動乱の時期にあたったことから、時の孝明天皇は大きな災いが起こることを恐れ、讃岐から京都へ崇徳帝を還御させて祀ることを決めました。しかし、孝明天皇はお宮の完成前に亡くなり、明治天皇が建立を引き継ぎました。

これが現在京都にある白峯神宮です。1964年に白峯御陵で行われた「800式年祭」へも昭和天皇の勅使が出向きました。

「武士」という「民」が天下を取り続け、700年後に「王政復古の大号令」によってようやく「天皇」が表舞台に戻ってきたと見ることもできます。

これによって「崇徳天皇の呪い」が解けたと言えるのでしょうか?

私は個人的には、明治維新以降も天皇は形式的な「権威の象徴」に過ぎず、「民」(薩摩藩・長州藩主体の藩閥政府)の傀儡であり続けたと思っています。

明治天皇は、南北朝時代から「両朝合一」を経た「北朝系統の天皇」ですが、自ら「南朝の系統」として、皇居前広場に楠木正成の銅像を建てさせるなど不審な動きがありました。

これは「明治天皇が大室寅之祐という『南朝の末裔』にすり替わったという説」を裏付けるものです。

しかも、この「大室寅之祐が、実は『南朝の末裔』でも何でもなく、血統が不詳の長州の人間であるとの説」もあります。この説が正しいとすれば、「自分は大天狗となって、天皇は民となり、民が天下を取るようにしてやる」という「(崇徳天皇の)大天狗の予言」通りだと言えます。

3.落語や読本の題材にもなった崇徳天皇

(1)落語の「崇徳院」

崇徳天皇と言えば、「百人一首」の「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」という歌が有名ですね。

これを題材にした落語が「崇徳院」です。

(2)上田秋成の読本「雨月物語(うげつものがたり)」

西行法師が崇徳院の陵墓「白峯陵」に参拝し、崇徳院の怨霊と対面する場面があります。

(3)曲亭馬琴作・葛飾北斎画の読本「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」

源為朝が危機に陥ると助けに来てくれる怨霊として登場します。

椿説弓張月の怨霊・崇徳院

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