ヨーロッパで有名な女帝と言えば、イングランドとアイルランドの女王だったエリザベス1世(1533年~1603年)、オーストリア女帝のマリア・テレジア(1717年~1780年)、ロシア帝国のエカテリーナ2世(1729年~1796年)、イギリスのヴィクトリア女王(1819年~1901年)などが頭に浮かびますが、ロシア帝国のエカテリーナ1世(エカチェリーナ1世)もさほど有名ではありませんが、大変ユニークな女帝です。
ではいったいエカテリーナ1世とはどのような女性でどんな生涯を送ったのでしょうか?
1.エカテリーナ1世とは
ロシア帝国の皇帝エカテリーナ1世(1684年~1727年、第2代ロシア皇帝在位:1725年~1727年)は、意外なことに王侯貴族の家系ではなく、「農民の娘」です。
しかもロシア人ではなく、リトアニア出身の「外国人」です。
さらに「皇帝在位期間がわずか2年あまり」と言うのも意外ですね。
2.エカテリーナ1世の生涯
彼女はマルタ・スカヴロンスカヤという名前のリトアニアの農民の娘ですが、疫病の蔓延によって孤児となり、バルト・ドイツ人牧師の家に引き取られて家族同様に育てられ、ドイツ語を学びました。
1701年にスウェーデンの竜騎兵と結婚しましたが、当時ロシアとスウェーデンとの「大北方戦争」(1700年~1721年)が続いていました。
そしてリトアニアが戦場になり、ロシア軍がマリーエンブルク(リヴォニア)を占領した際に彼女は捕虜となり、ロシア人将軍ボリス・シェレメーテフの家に連れて行かれました。
彼女の立場は、召使だったのか妾だったのかは判然としません。「女奴隷から女帝に登り詰めた」と言われるのは、この出自のためです。
捕虜となった後に「ロシア正教」に改宗し、名前もエカテリーナ・アレクセーエヴナに改めました。
その後、将軍アレクサンドル・メーンシコフ(1673年~1729年)(下の画像)の家に引き取られました。
そしてメーンシコフからピョートル1世(ピョートル大帝)(1672年~1725年、ロシアのツァーリ在位:1682年~1725年、初代ロシア皇帝在位:1721年~1725年)(下の画像)に献上されました。
ピョートル1世は1689年に最初の妻エヴドキヤ・ロプーヒナと結婚し、長男アレクセイも生まれていましたが、1698年に妻を修道院に幽閉しました。
ピョートル1世は、献上されたエカテリーナを大変気に入り、1707年にワルシャワ近郊で「秘密結婚」をしました。
ピョートル1世の「隠し妻」となった彼女は、がっしりした体格の健康で快活な女性で、ピョートル1世の怒りの発作をうまく宥めることができたと言われています。
1712年にサンクトペテルブルクで正式に結婚し、皇后となりました。2人の間には12人の子供が生まれましたが、成人したのは娘2人だけでした。
彼女は中年になると深酒のために容色も衰え、ピョートル1世に疎まれることも多くなりました。
1725年に入ってピョートル1世の死期が近づくと、有力大貴族はピョートル1世の長男アレクセイの子ピョートル・アレクセーエヴィチを後継に推し、新興勢力は皇后の彼女を推して対立しました。「百年戦争」の原因もそうでしたが、古今東西いつの時代にもどこの国にでもよくある「王位継承争い」です。
同年1月28日早朝、ピョートル1世が死去すると、皇后側についた近衛部隊が元老院を押さえ、彼女は同日中にエカテリーナ1世として即位しました。
こうして卑賎な生まれのリトアニアの農民の娘が、ロシア史上最初の女帝となりましたが、メーンシコフが牛耳る最高枢密院に実権を握られた「傀儡の皇帝」に過ぎませんでした。
ただし、修道女となっていたピョートル1世の先妻エヴドキヤ・ロプーヒナをシュリッセリブルク要塞の独房に監禁して、復讐心を満たしていました。
彼女の治世は2年あまりで、1726年に神聖ローマ皇帝カール6世と同盟を結んだ以外に目立った実績はありませんが、伝統的なロシアの生活様式を根絶し、西洋式に置き換えることを目指す大改革者であったピョートル1世の改革を続行する形で国政は進みました。
彼女は、婚約者に先立たれた娘エリザヴェータに跡を継がせたいと考えていましたが、貴族たちはこれを認めず、1727年5月6日に彼女が亡くなると、ピョートル・アレクセーエヴィチ(ピョートル1世の長男アレクセイの子)がピョートル2世として即位しました。