今から70年あまり前の1949年(昭和24年)は、まだGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が日本を占領中で終戦後の混乱が続いていました。そして大多数の国民は、食糧難と激しいインフレのために「タケノコ生活」を余儀なくされていました。
この年の7月から8月にかけて、「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれる「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」が連続して起こりました。いずれも、国鉄(現在のJR)に絡む事件で、しかもどれも真相がはっきりしない「謎の事件」です。
今回は、「下山事件」について考えてみたいと思います。
1.「下山事件」とは
「下山事件」とは、「1949年7月5日朝、国鉄総裁・下山定則が出勤途中に失踪し、翌6日未明に死体となって発見された事件」です。
GHQの命令で、国鉄が「大量解雇」を実施する直前に発生した事件です。失踪当日は国鉄の人員整理をめぐって緊迫した状況にあり、午前9時には重要な局長会議が予定されていました。しかし、総裁は迎えの公用車に乗って自宅を出た後、国鉄本社に直行せず三越百貨店に行くように運転手に指示しますが、開店前だったため、一旦国鉄本社のある東京駅前に戻り、千代田銀行(現在の三菱UFJ銀行)に立ち寄るなど複雑なルートをたどった後、再び三越に戻り、運転手に「5分くらいだから待ってくれ」と言って急ぎ足で三越に入り、そのまま消息を絶ちました。
失踪後の足取りは、まず三越店内で、その後営団地下鉄銀座線の浅草行き列車内で目撃されています。午後1時40分すぎ、轢断地点に近い東武伊勢崎線五反野駅改札で改札係と話を交わしています。その後、同駅近くの「末広旅館」に午後2時から5時すぎまで3時間ほど滞在しています。さらに午後6時ごろから8時過ぎまでの間に、五反野駅から轢断地点までの沿線で、総裁によく似た人物の目撃証言が多数あります。
1964年7月6日に「殺人事件」としての「公訴時効」が成立し、「未解決事件」(いわゆる「迷宮入り」)となりました。
2.「自殺」か?それとも「他殺」か?
(1)自殺説
慶応大学の中舘久平教授は、現場周辺で下山総裁を見たという証言が多数あったことなどから、自殺説を取りました。捜査を担当した「警視庁捜査一課」と「毎日新聞」も「(発作的)自殺説」を取りました。
また、現場検証で遺体検分した八十島信之助監察医は、自殺と判断しました。
毎日新聞は、現場付近での多数の目撃証言から、「自殺説」を取ったようです。新聞が事件について黒白をはっきり表明するのは珍しいことです。
(2)他殺説
解剖を担当した「東大医学部法医学教室の古畑種基教授」は「死後轢断」と鑑定しました。なお古畑教授は、自殺か他殺かは断定していません。
「政府」は勢力を伸ばしていた共産党の関与を匂わせる「左翼による謀殺説」という見解を表明しました。
家族や友人らが「自殺する理由がない」と言明したことから「警視庁捜査二課」と「朝日新聞」も他殺説を取りました。
朝日新聞は、家族や友人の上のような証言から、他殺説を表明しました。新聞が事件について黒白をはっきり表明するのは珍しいことですが、毎日新聞への対抗意識があったのかもしれません。
(3)私の個人的推測
真相は「闇の中」ですが、当時山下総裁が「大量首切り」のことで悩み、6月1日に「神経衰弱」と「胃炎」の診断を受け、睡眠薬を服用していたという話もあります。当日の不可解な行動からも「自殺」ではないかと私は想像します。今風に言えば、GHQから大量解雇を迫られる一方労組からの激しい批判にさらされ、ノイローゼになり、当日は出社拒否症になって、あちこちをさまよった揚げ句発作的に鉄道自殺したのではないかと思います。
ただ、「死後轢断」という解剖結果や、次に述べるような時代背景から、この事件を自分たちの都合の良いように利用しようとする「他殺説」が出るのもわかるような気がします。
3.時代背景
1949年は、「冷戦の初期」で、中国大陸ではソビエトが支援する共産党が国民党に勝利し10月には中華人民共和国が建国されます。朝鮮半島でも北緯38度線を境に共産政権と親米政権が対峙していました。そのような国際情勢の中で、GHQは対日政策を「民主化」から「反共」に転換します。
また、GHQは「ドッジ・ライン」に基づく「緊縮財政策」を実施し、公務員約28万人、国鉄職員約10万人の大量解雇を迫りました。
4.「下山事件」を扱った小説や手記
毎日新聞の記者だった井上靖は、自社の主張である「自殺説」をもとに「黒い潮」を書いています。
松本清張は、「米軍防諜部隊犯行説」をもとに小説「日本の黒い霧」を書いています。
元朝日新聞記者の矢田喜美雄は、「謀殺 下山事件」を書きました。
また、下山定則総裁の後任の国鉄総裁・加賀山之雄が書いた「下山事件の陰」という手記が1955年の文芸春秋臨時増刊に発表されています。