大田垣蓮月 江戸時代の長寿の老人の老後の過ごし方(その16)

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大田垣蓮月

前に「江戸時代も実は『高齢化社会』だった!?江戸のご隠居の生き方に学ぶ」という記事を書きましたが、前回に引き続いて江戸時代の長寿の老人(長寿者)の老後の過ごし方・生き方を具体的に辿ってみたいと思います。

第16回は「大田垣蓮月」です。

1.大田垣蓮月とは

(1)生い立ちと少女時代

大田垣蓮月(おおたがき れんげつ)(1791年~1875年)は、江戸時代後期の尼僧・歌人・陶芸家です。書画・なぎなた・囲碁にも長じました。俗名は誠(のぶ)。菩薩尼、陰徳尼とも称しました。

彼女は京都の生まれで、実父は伊賀国上野の城代家老・藤堂良聖(とうどうよしきよ)です。

生後10日にして京都知恩院門跡に勤仕する大田垣光古(おおたがきてるひさ)(もとは山崎常右衛門)の養女となりました。養父の光古は因幡国出身で、彼女を引き取った当時は知恩院勤仕といっても不安定な立場にありましたが、同年8月には知恩院の譜代に任じられ、門跡の坊官として世襲が許される身分となりました。大田垣氏は室町時代に因幡・但馬で栄えた山名氏の重臣の子孫です。

生母は彼女を出産した後に、丹波亀山藩の藩士の妻となりました。この生母の結婚が縁で、寛政10年(1798年)頃から丹波亀山城にて御殿奉公を勤め、10年ほど亀山で暮らしました。

(2)結婚と子供の早世・24歳で寡婦となり、再婚

養父の光古には5人の実子がいましたが、そのうち4人は彼女が養女になる前に亡くなり、唯一成人まで成長した末子の仙之助も彼女が亀山に奉公していた時期に病没しました。

そのため光古は但馬国城崎の庄屋銀右衛門の四男天造を養子に迎え、望古(もちひさ)と名乗らせました。

彼女は、亀山での奉公を終えた文化4年(1807年)ごろに望古と結婚しました。彼女と望古の間には長男鉄太郎、長女、次女が生まれましたが、いずれも幼くして亡くなっています。さらに文化12年(1815年)には、素行が悪いためやむなく離婚した夫の望古も亡くなり、彼女は24歳にして寡婦となりました。

望古の死から4年後の文政2年(1819年)、彼女は新たに大田垣家の養子となった古肥(ひさとし)と再婚します。古肥は旧名重次郎といい、彦根藩の石川光定の次男でした。

(3)再婚相手も死去し、剃髪して仏門に入る

彼女と古肥の間には一女が生まれましたが、文政6年(1823年)には古肥と死別しました。

古肥の死後、彼女は仏門に入ることを決め、養父光古と共に剃髪しました。剃髪後、彼女は蓮月、光古は西心と号しました。

もともと蓮月は、その美貌で知られていました。年を重ねても一向に衰えぬ蓮月の美しさに、下心を持って近づく男もいたそうです。

そこで蓮月が自ら眉を抜き、歯を抜いて老婆を演じることで、自らの美貌を台無しにして、誘惑から身を守り抜いたという逸話があります。この話はおそらく作り話とされていますが、それぐらいのことはやりかねないほど気丈だったようです。

往年の大女優・田中絹代さん(1909年~1977年)が「サンダカン八番娼館 望郷」(1974年公開)で、老婆となった元娼婦(からゆきさん)をリアルに演じるために歯を抜いたという話を、この蓮月の逸話で思い出しました。当時私は「女優魂の凄さ」に驚いたものです。

彼女(蓮月)が出家した年に、大田垣家は再び彦根藩から古敦という養子を迎え、知恩院の譜代を継承させました。その頃、西心は知恩院内の真葛庵の守役を命じられ、蓮月親子と共に庵に移りました。しかしこの生活は長くは続かず、2年後には古肥との間の女児が亡くなり、その数年後には養父西心までが亡くなりました。

養父の死を機に、蓮月は生まれ育った知恩院を去って、岡崎村(現在の京都市左京区)に移りました。その後の蓮月は、東山真葛(まくず)が原、洛東(らくとう)の岡崎、聖護院(しょうごいん)村、方広寺大仏のそば、北白川の心性寺、西賀茂村など住居を転々とし、「屋越し蓮月」と呼ばれるほどの引越し好きとして知られました。

2.大田垣蓮月の老後の過ごし方

蓮月は、岡崎村(現・京都市内)に移り住むと、生活のために陶器を作り始めました。

土をこね、ろくろを回し、出来上がったのは素朴な味わいのある器。と言っても、素朴というのは婉曲的な言い回しで、当初の作品は酷いものでした。彼女が最初に手がけたのは「きびしょ」、現代で言う「急須」でした。

蓮月焼

子供の作品のように、ぐにゃぐにゃとしてうまく作れません。それでも蓮月はあきらめず、作り続けました。

蓮月の作品は、洗練されているわけではありませんが、表面に自作の歌を釘で描いて焼くと、独特の味わいが出ました。これが評判を呼んで彼女の名は世に知られるようになりました。

彼女の作品は「蓮月焼」と呼ばれて、京土産として人気を博すほど評判になり、後に贋作が出回るほどでした。

その結果、彼女は生活には困らなくなりました。しかし人気が出るのも考えものです。

この器の作者は誰だろう?と人々が好奇心を抱き、彼女の家を訪ねてきます。すると、彼女は嫌気がさして、さっさと引っ越してしまうのです。

あまりに引越しが多いため、次第に「屋越し蓮月(引っ越し魔蓮月)」と呼ばれるようになったのです。

理由として「勤王活動のために身の危険を察したから」と言われることもありますが、単純に人付き合いに疲れたのが原因のようです。

そうは言っても、彼女が完全に孤独を目指したという訳ではありません。

むしろありとあらゆる階層出身の文化人と交流があり、その中には勤王家もいれば安政の大獄に連座した者も含まれていたのです。

そのため心ならずも「勤王歌人」と呼ばれたことがあったようです。

出家後の蓮月は、若き日の富岡鉄斎(*)を侍童(学僕)として暮らし、鉄斎の人格形成に大きな影響を与えました

(*)富岡鉄斎(1836年~1924年)は、江戸時代末期~大正の代表的南画家。京都三条の法衣商・十一屋伝兵衛の次男。通称は猷輔。名は道節、のち百錬。字は君 筠。幼少から国学・漢籍・陽明学・画事を習い、安政2 年(1855年)頃、北白川の心性寺で歌人大田垣蓮月尼の薫陶を受けました。

京都でたびたび起こった飢饉の時には、私財をなげうって寄付し、また自費で鴨川に丸太町橋も架けるなど、慈善活動に勤しみ、清廉・孤高の生涯を送りました。

住居としていた西賀茂村神光院の茶所で、明治8年(1875年)12月10日、84歳で没しましたが、別れを惜しんだ西賀茂村の住人が総出で弔いをしたということです。

3.大田垣蓮月の和歌

蓮月は、世を捨てた尼僧というわけではありませんでした。世の中の動きは察していたのです。ただ、彼女は達観した人物でした。

ペリーの来航を知っても驚くことはなく、「世の中を動かすだろうが、騒ぐことでもない」と落ち着き、悟りきった心境でした。

この時点でペリー来航がむしろ世の中を良い方向に進める可能性があるのだ、と冷静に考えていたのですから、凄い人物です。

蓮月は「自他平等」という仏教思想を持っておりどちらかだけに味方するわけではありません。むしろ人々が争っていたらば、両者ともに憐れむような考えを持っていました。

慶応4年(1868年)1月、蓮月のもとに、鳥羽伏見の戦いの知らせが飛び込んできました。

蓮月は怒り、再び心を痛め、和歌を短冊にしたためました。

そして薩摩藩士の伝手(つて)を頼り、この短冊を西郷隆盛に届けさせたのです。

あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の 人と思へば

うつ人も うたるる人も 心せよ 同じ御国の 御民ならずや

技巧も何もない、ストレートな、だからこそ胸を打つ歌でした。この歌を読んだ西郷隆盛はどう思ったのでしょうか。

この和歌に感銘した西郷隆盛は、後の江戸城の無血開城を心に決めて、勝海舟と会談したと言われています。蓮月の一首が日本の歴史のターニングポイントになったとも言えるエピソードですが、これは少し過大評価のような気が私にはします。

彼女は、和歌を六人部是香(むとべよしか)・上田秋成・香川景樹に学び、小沢蘆庵にも私淑しました。歌友に村上忠順・橘曙覧(たちばなあけみ)・野村望東尼(のむらもとに)・高畠式部・上田ちか子・桜木太夫などがいます。

歌風は平明温雅で、高畠式部(たかばたけしきぶ)と並んで幕末京都女流歌人の代表でした。歌集に『蓮月高畠式部二女和歌集』『海人の刈藻(あまのかるも)』があります。

・いろも香も おもひ捨たる 墨染の 袖だにそむる けふの紅葉ば

遊(てすさ)びの 儚(はかな)き物を 持ち出でて うるまの市に 立つぞ侘しき

・あけたてば 埴もてすさび くれゆけば 仏をろがみ おもふことなし

・はらはらと 落つる木の葉に まじりきて 栗の実ひとり 土に声あり

・かばかりの 浮世なりけり こがらしに 落栗ひろひ けふもくらしつ

・山ざとは 松の声のみ 聞きなれて かぜふかぬ日は さびしかりけり

・ほしがきの 軒にやせゆく 山里の よあらし寒く なりにけるかな

・ことたらぬ 住家ながらも 七くさの 數はあまれる 春の色かな

・いつの間に わき葉さすまで 成にけん 昨日の野べの 雪のした草

・千くさ咲く 秋はあれども 一くさの 二葉見つけし 春のうれしさ

・おりたちて 朝菜洗へば 加茂川の きしのやなぎに 鶯の鳴く

・うぐひすの 都にいでん 中やどに かさばやとおもふ 梅咲にけり

・となりには うめ咲にけり 籠にこめし 我鶯を はなちやらばや

・ぬえ塚の 榎のこずゑ ほの見えて 粟田の山に かすむよの月

・在明の かすみに匂ふ 朝もよし 如月ごろの 夕月もよし

・おともせず ふるとも見えぬ 朝じめり 枝おもげなる 青柳の糸

・宿貸さぬ 人の辛(つら)さを 情(なさけ)にて  おぼろ月夜の 花の下臥(ふ)し

・うらやまし 心のままに 咲てとく すがすがしくも 散さくらかな

・散花を 手にとらんとや とび入て 水にただよふ かはづなるらん

・うめが香に ささぬ外面を 唐猫の しのびてすぐる 夕月夜かな

・日をさへし はがくれ庵の うれしきは すこしもりくる 夕月のかげ

・朝かぜに うばらかをりて 時鳥 なくや卯月の 志賀の山越

・夕月夜 ほのかに見ゆる 小板橋 したゆく水に 水鷄啼なり

・法の師の おこなふ袖に かをるなり しきみが原の 露の朝風

・朝風に 川ぞひ柳 散そめて 水のしらべぞ 秋に成ゆく

・いにしへを 月にとはるる 心地して ふしめがちにも なる今宵かな

・をかざきの 月見に來ませ 都人 かどの畑いも にてまつらなん

・野に山に うかれうかれて かへるさを ねやまでおくる 秋のよの月

・夕づく日 入江の松に かげろひて なごりさびしき 秋のむら雨

・うらがるる 淺茅の末に ひろばかり 日かげ殘りて ふる時雨かな

・もみぢばを 川のこなたに 吹よせて 山は嵐の 音のみぞする

・厚氷 くだきし跡の 見ゆるなり やまの下水 くむ人やたれ

・道のべの ゆざさはだれに 置く霜を 朝ふみわけて 行は誰が子ぞ

・冬ばたの 大根のくきに 霜さえて 朝戸出さむし 岡崎の里

・よもすがら 吹きさらしたる 河風に しらけて寒き 有明の月

・舟ばたに かぜの礫と うちつけて 水にはかろき 玉あられかな

・毛衣の ぬるるにたへぬ 子狐や みぞれ降夜を 鳴明すらん

・身をよせし 尾花はかれて 廣き野の 霜夜の月に 狐鳴なり

・柴の戸に おちとまりたる かしのみの ひとりもの思ふ としのくれ哉

・めせめせと 炭うる翁 こゑかれて 袖に雪ちる としのくれかた

・山ざとの おいがねざめを とふものは 廿日あまりの 有明の月

・山がらす ねぐらしめたる 我やどの 軒端のまつに あらし吹なり

・としを經し くりやの棚に くろめるは 煤になれたる 佛なりけり

・夢の世と おもひすつれど むねに手を おきてねし夜の 心地こそすれ

・聞ままに 袖こそぬるれ 道のべに さらすかばねは 誰が子なるらん

・東山 つたひゆくらん 時鳥 わがいほりにも 初音もらせよ

・老てやむ まくらのしたの きりぎりす おなじ寢覺に きく人もなし

・かぞふれば 三年(みとせ)のむかし さしやなぎ 窓うつばかり なりにけるかな

・あすも来て 見んと思へば 家づとに 手折るもをしき 山さくら花

・さそふ水 ありとはなしに 浮草の ながれてわたる 身こそやすけれ

・老はただ ねてこそすぐせ 夢ならで むかしにかへる よしもなければ

・老ぬれば よひまどひして なかなかに ねよとの鐘に めをさましつつ

・山里に 浮世いとはん 友もがな むなしくすぎし 昔かたらん

・世の中を ながれわたりの みづからも 濁りたる名を 跡にのこさじ

・ちりほどの 心にかかる 雲もなし けふをかぎりの 夕ぐれのそら

・ねがはくは のちの(はちす)の 花のうへに くもらぬを みるよしもがな(辞世)

自らの法名の「蓮月」を詠み込んだ辞世です。

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