源実朝の妻・坊門信子とは?またその猶子の公暁・竹御所とは?

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実朝暗殺・公暁

今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。

前に「源頼家の妻子たち」の記事を書きましたが、弟の「源実朝」の妻・坊門信子とはどんな女性だったのでしょうか?またその猶子(養子)の公暁・竹御所とはどんな人物だったのでしょうか?

1.源実朝の妻

(1)正室・坊門信清娘(坊門信子)

源実朝の妻(正室)は、「坊門信清娘(ぼうもんのぶきよのむすめ)」(1193年~1274年年)で、「西八条禅尼」と通称されます。

出家後の法名は「本覚尼」。父は公卿の坊門信清。兄に坊門忠信、坊門忠清らがいます。

実名を「信子」とする説が流布していますが、実際には「信子」という名は伝わっていません。『尊卑分脈』において信清の妹として掲載されている「信子」と混同したものと考えられています。

坊門信子は、内大臣「坊門信清(ぼうもんのぶきよ)」(1159年~1216年)の娘として生まれました。

坊門信清自身は摂関家の主流からは外れた中級貴族の家柄の出でしたが、姉の「殖子(しょくし/たねこ)が高倉天皇の側室として、後鳥羽天皇を産んだことで栄達を果たすことになります。

坊門信清は順調に昇進を果たし、内大臣まで上り詰めました。また鳥羽院の別当など、院政にも深くかかわる役職についていました。

信清は娘信子が実朝に嫁いだ後は、朝廷と鎌倉幕府の調停役なども果たしたようです。しかし建保3年(1215年)2月に出家し、その翌年3月に亡くなりました。実朝暗殺の約3年前です。

坊門信子と源実朝の結婚は元久元年(1204年)、実朝12歳、信子11歳の時です。鎌倉幕府の将軍と、天皇の親戚でもある公家の娘との結婚はさぞや華々しく祝われたことでしょう。

ただ実は、この結婚はすんなりと決まったものではなかったようです。もともと実朝には、親戚(政子の姪にあたる)・足利義兼の娘との縁談が考えられていたようです。

しかし、北条氏内部での微妙な軋轢(北条政子義時北条時政牧の方の対立)との調整、もしくは『吾妻鏡』にあるように、実朝が京の女性を妻に求めたことなどがあって、信子との縁談が決まったようでした。

信子との結婚は、後鳥羽天皇との姻戚関係を結ぶこと(信子は後鳥羽天皇の従妹)にもなりますから、幕府の権威付けにもなったことでしょう。

政治的な思惑などどこかきな臭い匂いの漂う結婚でしたが、この結婚はうまくいったようでした。源実朝は和歌の名手・藤原定家に教えを乞うなど和歌など文化的な趣味に力を入れており、公家出身の信子とは馬が合ったようです。

信子は義母・政子とは異なりあまり政治的な活動はしなかったようですが、夫ともども寺社詣でに出かけ、そのついでに夫婦水入らずで花見をするなどしたこともあったようです。

現在まで伝わる実朝の恋歌は、恋人をほのかに見える月に例えるなど、どこか儚いものが多いですが、信子とも恋歌のやり取りをしたこともあったかもしれませんね。

実朝と信子の間には子供はできませんでしたが、実朝は側室を迎えることもありませんでした。その代わりとでもいうのでしょうか、実朝は亡兄の娘・竹御所や亡兄の息子・公暁を猶子(養子)としました。竹御所とは女同士、もしかしたら交流などもあったかもしれません。

坊門信子と姑にあたる北条政子の関係性がどのようなものだったのかは判然としません。ただ信子は、夫実朝、姑政子と連れだって寺社詣でに出かけることもあったようですから、それなりに仲良く過ごしていたように思われます。

政子の夫、頼朝はかつて娘の大姫を後鳥羽天皇に嫁がせようと画策したこともあるなど、天皇家を重んじる姿勢を持っていました。政子も、京の天皇家とのつながりのある公家の出身である嫁をそれなりに大事にしたのではないでしょうか。

出でて去(い)なば 主なき宿と なりぬとも 軒端(のきば)の梅よ 春を忘るな   ―源実朝

実朝はこの和歌を詠んだ後、甥で猶子の公暁に襲われ、非業の死を遂げることとなりました。信子の悲しみは深く、鎌倉の寿福寺にて出家し、本覚尼と名乗るようになります。

その後、信子は実朝との思い出深い鎌倉の地を離れ、京へと戻りました。彼女は実朝の京の邸宅・西八条第に住んだことから、「西八条禅尼」と呼ばれたようです。

信子は京へ戻った後、日々を夫の菩提を弔うことに費やしたようです。世間の動きにも、特に反応することもありませんでしたし、前将軍正室として政治的な活動をすることもありませんでした。

しかし、京へ戻った2年後、「承久の乱」で兄坊門忠信らが処刑されかかります。この時、信子が幕府へ嘆願した結果、忠信らは助命され、流罪へと罪が減じられることとなりました。これがほぼ唯一、信子が行った政治的な活動と言えるでしょう。

「承久の乱」後も、将軍前室として信子は仏事にいそしむ日々を続けました。信子はのちに西八条第を寺とし、遍照心院(大通寺)と名づけます。この寺は夫実朝、そして鎌倉将軍家の菩提を弔うものでした。

信子は文永11年(1274)年に82歳で亡くなります。この時代、鎌倉幕府の将軍は実朝の跡を継いだ摂家将軍から親王将軍へとかわり、7代目の惟康親王、執権は8代目北条時宗でした。

(2)側室

多くの側室を持った兄の頼家と違って、実朝の側室については史料が残っておらず、いなかったようです。

千葉氏出身の「久米御前」という側室がいたという伝承もありますが、『吾妻鏡』等に記録は残されていないため、公的にはいないと言っていいでしょう。

2.源実朝の子供

源実朝と正室・坊門信清娘(坊門信子)との間には「実子」が出来なかったため、公暁と竹御所の二人を「猶子(ゆうし)」(養子)としました。

(1)公暁

実朝を暗殺した公暁公暁・実朝暗殺

公暁(くぎょう / こうきょう / こうぎょう)(1200年~1219年)は、鎌倉幕府第2代将軍源頼家の次男(『尊卑分脈』など)または三男(『鶴岡八幡宮寺社務職次第』など)です。

母は『吾妻鏡』によれば足助重長(加茂重長)の娘の辻殿、『尊卑分脈』などによれば一幡の母と同じく比企能員の娘若狭局、縣篤岐本『源氏系図』によれば三浦義澄の娘となっています。

一幡は異母兄または同母兄、栄実は異母弟または異母兄、禅暁は異母弟または同母弟、竹御所は異母妹または同母妹にあたります。幼名は善哉(ぜんざい)。

叔父である第3代将軍源実朝を「父の仇」として暗殺しましたが、直後に討ち取られました。公暁は実朝の猶子であったため、義理の父親を殺害したことになります。

父である将軍頼家は建仁3年(1203年)9月の「比企能員の変」によって鎌倉を追放され、翌年善哉が5歳の時に北条氏の刺客によって暗殺されました。建永元年(1206年)6月16日、7歳になった善哉は若宮の別当坊より祖母である尼御台北条政子の邸に渡り、着袴の儀式を行います。建永元年(1206年)10月22日、乳母夫である三浦義村に付き添われ、政子の計らいによって叔父の3代将軍源実朝の猶子となりました

建暦元年(1211年)9月15日に12歳で鶴岡八幡宮寺別当定暁の下で出家し翌日には受戒のため上洛します。園城寺において公胤の門弟として入室し、貞暁の受法の弟子となります。はじめは「頼暁」という戒名を受け、公胤の弟子となってからは「公暁」の戒名を受けたものと見られます。

建保5年(1217年)6月20日、18歳で鎌倉に戻り、政子の意向により鶴岡八幡宮寺別当に就任しました。同年10月11日からは裏山で千日参篭を行っています。翌年建保6年(1218年)12月5日、公暁が鶴岡に参籠して退出しないままいくつかの祈誓を行っていますが、一向に髪を下ろす気配もないので人はこれを怪しんだということです。また伊勢神宮や諸社に奉幣する使節を送ったことが将軍御所で披露されています。

年が明けた建保7年(1219年)1月27日、雪が2尺(約60cm)ほど降りしきるなか、実朝が右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣します。夜になって参拝を終えて石段を下り、公卿が立ち並ぶ前に差し掛かったところを、頭布を被った公暁が襲いかかり、下襲の衣を踏みつけて実朝が転倒した所を「親の敵はかく討つぞ」と叫んで頭を斬りつけ、その首を打ち落としました。

同時に3、4人の仲間の法師が供の者たちを追い散らし、源仲章を北条義時と間違えて切り伏せました。そして『吾妻鏡』によると、八幡宮の石段の上から「我こそは八幡宮別当阿闍梨公暁なるぞ。父の敵を討ち取ったり」と大音声を上げ、逃げ惑う公卿らと境内に突入してきた武士達を尻目に姿を消しました。

一方、『愚管抄』によると公暁はそのような声は上げておらず、鳥居の外に控えていた武士たちは公卿らが逃げてくるまで襲撃にまったく気づかなかったとあります。儀式の際、数千の兵はすべて鳥居の外に控えており、その場に武装した者はいませんでした。

公暁は実朝の首を持って雪の下北谷の後見者・備中阿闍梨宅に戻り、食事の間も実朝の首を離さず、乳母夫の三浦義村に使いを出し、「今こそ我は東国の大将軍である。その準備をせよ」と言い送りました。義村は「迎えの使者を送ります」と偽り、北条義時にこの事を告げました。義時は躊躇なく公暁を誅殺すべく評議をし、義村は勇猛な公暁を討つべく長尾定景を差し向けました。

公暁は義村の迎えが来ないので、1人雪の中を鶴岡後面の山を登り、義村宅に向かう途中で討手に遭遇します。討ち手を斬り散らしつつ義村宅の板塀までたどり着き、塀を乗り越えようとしたところを討ち取られました。享年20。

定景が公暁の首を北条義時邸に持ち帰り、義時が首実検を行いました。なお、『吾妻鏡』では実朝の首は所在不明とありますが、『愚管抄』には岡山の雪の中から実朝の首が発見されたとあります。

公暁の犯行の背後には、北条氏の源家討滅、あるいは北条氏の政敵で公暁と近しかった三浦氏による北条打倒、または将軍親裁を強める実朝に対する北条・三浦ら鎌倉御家人の共謀、もしくは後鳥羽上皇による幕府転覆の策謀などが存在したのではないかと、後世の研究家はそれぞれ推測していますが、いずれも確証はありません。

またそれらの背後関係よりも、公暁個人が野心家で実朝の跡目としての将軍就任を狙ったところに、この事件の最も大きな要因を求める見解もあり、公暁単独犯行説を取っている研究者も複数います。

<「公暁の隠れいちょう」の伝承のある鶴岡八幡宮のイチョウ(倒伏前)>

なお、公暁の墓は現存せず、墓所についての史料も存在しません。かつて鶴岡八幡宮には「公暁の隠れいちょう」と呼ばれるイチョウの大木が立っており、公暁がこの樹の陰に潜んで実朝を襲ったという伝説と共に親しまれていましたが、この伝説が知られるようになったのは江戸時代になってからのことで、当時の史料にはない話です。

なお、このイチョウは2010年3月10日の強風によって倒れました。

(2)竹御所

竹御所の墓

竹御所(たけのごしょ)(1202年~1234年)は、鎌倉幕府第2代将軍源頼家の娘です。位記の名は鞠子。妙本寺の寺伝によれば媄子(よしこ)。一幡、公暁は異母兄または同母兄、栄実は異母兄、禅暁は異母兄または異母弟と考えられています。

母は『尊卑分脈』では源義仲の娘となっており、また『諸家系図纂』所収「河野系図」には河野通信と北条時政の娘の間に生まれた美濃局を母と伝えますが、「竹の御所」と呼ばれた鞠子の邸は比企ヶ谷の比企氏邸跡であることから、実際の母は比企能員の娘若狭局と考えられます。美濃局については竹御所の乳母が正しく、その後ろ盾で「承久の乱」に連座した河野氏が再興されたとする説もあります。

誕生の翌年に「比企能員の変」が起こり、頼家は北条氏によって将軍の座から逐われ、間もなく暗殺されました。建保4年(1216年)3月5日、祖母・北条政子の命により、15歳で叔父の源実朝の御台所・坊門信子に謁見し、その猶子となりました

他の頼家の子が幕府の政争の中で次々に非業の死を遂げていく中で、政子の庇護のもとにあり女子であった竹御所はそれに巻き込まれることを免れ、政子の死後にその実質的な後継者となります。

幕府関係者の中で唯一、源頼朝の血筋を引く生き残りである竹御所は、幕府の権威の象徴として御家人の尊敬を集め、彼らをまとめる役目を果たしました。

寛喜2年(1230年)、29歳で13歳の第4代将軍藤原頼経に嫁ぎます。夫婦仲は円満であったと伝えられます。その4年後に懐妊し、後継者誕生の期待を周囲に抱かせましたが、難産の末に男児を死産し、本人も死去しました。享年33。これにより頼朝の直系子孫は死に絶え、源氏将軍の血筋は断絶しました。

藤原定家の日記『明月記』によると、竹御所の訃報がもたらされた鎌倉武士たちは、源氏棟梁の血筋が断絶したことに激しく動揺し、京都にあった御家人はこぞって鎌倉に下ったということです。定家はこのことに対し「平家の遺児らをことごとく葬ったことに対する報いであろう」と述べています。

なお、『吾妻鏡』嘉禎元年七月二十七日条には、「竹御所の姫君」が喪の期間を終えたと記されています。

墓は比企一族の菩提寺である妙本寺にあります。



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