九条兼実とは?九条家・一条家・二条家の祖で、日記「玉葉」で歴史に名を残す!

フォローする



九条兼実

今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、お笑いコンビ「ココリコ」の田中直樹さんが九条兼実を演じることになっています。意表を突いたなかなか面白いキャスティングだと思いますが、どのような人物だったのでしょうか?

九条兼実・ココリコ田中

1.九条兼実について

(1)九条兼実とは

九条兼実

九条 兼実(くじょう かねざね)(1149年~1207年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿です。藤原北家(ふじわらほっけ)、従一位・摂政・白・太政大臣の藤原忠通(ふじわらのただみち)(1097年~1164年)の六男で、母は、家女房で太皇太后宮大進・藤原仲光(ふじわらのなかみつ)の娘・加賀局(かがのつぼね)です。

官位は従一位・摂政・関白・太政大臣と位人臣(くらいじんしん)を極めました。「月輪殿(つきのわどの)」、「後法性寺殿(ごほっしょうじどの)」とも呼ばれます。通称は後法性寺関白(ごほっしょうじ かんぱく)です。

「五摂家(ごせっけ)」(*)の一つである九条家の祖であり、かつその九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもあります。なお「五摂家」のうちこの3家を九条流と言います。

(*)「五摂家」とは、鎌倉時代中期に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家の5つの一族のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できました。「摂関家(せっかんけ)」、「摂家(せっけ)」、「執柄家(しっぺいけ)」(「執柄」とは権力掌握のことで摂政・関白の別名)とも言います。

五摂家

九条兼実・家系図

同母兄弟4人の中の長子で、同母弟には、太政大臣となった兼房・天台座主となった慈円などが、また異母兄には近衛基実、松殿基房が、異母弟には興福寺別当となった信円らがいます。

兼実が40年間書き綴った日記玉葉(ぎょくよう)』は、当時の状況を知る上での一級史料となっています。

九条兼実は、摂政・関白・太政大臣の藤原忠通の息子に生まれて、父親と同じ「摂政・関白」を目指しますが、17歳で「右大臣」になって以降、20年間出世できませんでした。

その理由は、彼が後白河法皇・貴族・平氏などの権力争いに対して距離を置き、「傍観者的態度」を取り続けたこと、政治的手腕がなかったことなどが考えられます。

しかし、どちらか一方に加担することは、失脚が早まった可能性もありますので、「保身のためにどちらの味方にもならずに安全策を取った」とも言えます。

その意味では、権謀術数を駆使し厚顔無恥に世渡りした宮廷政治家の土御門通親と対照的です。

37歳の時に宿願の「摂政・関白」となり、自分の娘を入内させますが、天皇の皇子を産めなかったため、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠むほどの栄耀栄華を極めた藤原道長のような「摂関政治の復活」はなりませんでした。

ただし、頼朝と結んだことで一時的には権勢を誇りましたが、最終的にはかえって「反兼実派」から排斥され、失脚することになりました。

当時の社会の趨勢が、「院政から武家政治」への大きなうねりであったにもかかわらず、「世襲エリート貴族による摂関政治復活」を目指そうとしたことが彼の情勢判断の誤りでした。

『愚管抄』を著した同母弟の慈円は、「公家政治から武家政治への移行は必然(道理)」と考えていました。その意味で、慈円のほうが、時代がよく見えていたと言えます。ただし、慈円の場合は宗門に身を置いていましたので、「岡目八目」ではありませんが、大局が見通せたのかもしれません。

(2)生い立ちと幼少時代・有職の公卿

母は低い身分でしたが、異母姉である皇嘉門院(こうかもんいん)(1122年~1182年)の猶子となり、保元3年(1158年)には兄・基実の猶子の資格で元服、正五位下に叙せられ、左近衛権中将に任ぜられました。永暦元年(1160年)には従三位となり、公卿に列しました。

「保元の乱(ほうげんのらん)」(1156年)で勢力を後退させた摂関家は、故実先例の集積による儀礼政治の遂行に特化することで生き残りを図ろうとしていました。

兼実は父の後継者の意識が強く、広く学問を学ぶなか、異母姉の皇嘉門院の庇護を得て「摂関」(摂政・関白)を志し、有職故実に通暁した公卿として異母兄の基実・基房に次ぐ昇進を遂げ、仁安元年(1166年)には右大臣となりました。

しかし兼実の官職は、この時から20年間動くことはなく、長らく右大臣に留まりました。

(3)治承・寿永の乱

治承3年(1179年)の平清盛のクーデタで後白河法皇が幽閉され、関白藤原基房が流される「治承三年の政変」が起きたことから摂関への期待を抱きますが、甥の基通が清盛の後押しで関白となりました。

治承4年(1180年)の「以仁王(もちひとおう)の挙兵」を機に全国各地は動乱状態となり、治承5年(1181年)には清盛が死去して後白河法皇が院政を再開するなど情勢は目まぐるしく変転しましたが、兼実は特定の勢力に属さず内乱期を通して傍観者態度を取りました

この時期の兼実は右大臣の要職にありながら朝廷にほとんど出仕せず、後白河院からの諮問には明確な返答を避け、摂政の基通に対しても煩わしさからか公事・作法を教示することはなくなりました。

兼実は内心の不満や批判は日記の中だけに止め、それを公言したり、後白河院や平氏に正面切って対峙するようなことは決してしませんでしたが、貴族社会崩壊の危機に直面して苦慮している白河院にとっては信を置きにくい存在であり、両者の関係は敵対とは行かないまでも徐々に冷却化していきました。

治承4年(1180年)、兼実は熊野に向かう自らの護持僧・智詮に自ら書写した『般若心経』と『法華経』を託し、現状の混乱した政治を憂い自らが権力の中枢に立った暁には政を淳素に反(かえ)す」(『玉葉』治承4年3月20日条)、すなわち政治の刷新を図って昔のような安定した社会を回復させる決意を示しました。

兼実は家司でもあった清原頼業に『貞観政要』の加点を求めるなど、中国の政治書の学習に没頭します。ところが、その最中の同年の暮には平重衡による南都焼討によって東大寺・興福寺が炎上し、兼実は悲嘆することになります(『玉葉』治承4年12月28日条)。

興福寺が藤原氏の氏寺であったという側面はあるものの、同年5月27日の朝議において「謀叛の証拠がない」ことを理由に興福寺への攻撃に反対(『愚管抄』巻第5)し、その後の再建に対する後白河法皇からの諮問でも再建の重要性を訴える一方で、戦乱や飢饉が解決しない中での造営は民を苦しめるだけである(『玉葉』治承5年7月13・15日条)とも説き、神仏への祈祷と徳化(=徳政)の両立と調和を訴えました。

この祈祷と徳政の両立と調和によって「政を淳素に反す」という兼実の信念は以後一貫されることになります。

政治の中枢から一定の距離を置く兼実が頼みとしたのは、異母姉の皇嘉門院でした。皇嘉門院は兼実の幼少の頃から親密な関係にあり邸宅も接していました。養和元年(1181年)12月に皇嘉門院が崩御すると、兼実は日記に繰り返し哀惜の情を綴っています。

皇嘉門院の所領の大部分は兼実の嫡子・良通(1167年~1188年)に譲られており、九条家の主要な経済基盤となりました。

唯一と言ってよい拠り所を失った兼実は、莫大な財力を持つ鳥羽天皇の第3皇女・八条院(1137年~1211年)への接近を図り、八条院無双の寵臣である三位局(高階盛章の女)を室として良輔を産ませ、実子のいない八条院への養子の送り込みに成功しています。

ただし、三位局は謀反人である以仁王の室であった女性で兼実にとっては政治的交渉相手の1人に過ぎず、兼実にとって彼女が自分の子を身ごもったのは全くの想定外の出来事であったために生まれた子の扱いに困っていたところ、以仁王を失っていた八条院の意向で彼女に引き取られたとする見方もあります。

(4)内覧宣下

文治元年(1185年)10月、後白河法皇は源義経の要請により「源頼朝追討の院宣」を下しますが、翌月の義経没落で苦しい状況に追い込まれました。

頼朝は院の独裁を掣肘するために院近臣の解官、議奏公卿による朝政の運営、「兼実への内覧(*)宣下」(ないらんせんげ)を柱とする廟堂改革要求を突きつけました。

(*)内覧(ないらん)とは、天皇に奉る文書や、天皇が裁可する文書など一切を先に見ること、またはその令外官の役職のこと

頼朝が兼実を推薦した背景には兼実が故実に通じた教養人だったこともありますが、平氏と親密だった近衛家、木曾義仲と結んだ松殿家による政権を好まなかったという事情もありました。

もっとも「内覧」推薦は兼実にとって全くの寝耳に水だったようで、「夢の如し、幻の如し」(『玉葉』12月27日条)と驚愕し、関東と密通しているという嫌疑をかけられるのではないかと怯えています。

頼朝の要求に対して後白河院が近衛基通擁護の姿勢を取ったため、一時は摂政・内覧が並立するなど紆余曲折がありましたが、文治2年(1186年)3月12日、兼実はようやく摂政・氏長者を宣下されました。

執政の座に就いた兼実は、それまでの病悩が嘘のように政務に邁進します。

文治3年(1187年)には、保元以来廃絶していた「記録所」を閑院内裏内に設置しました(『玉葉』2月28日条)。

続いて後白河院の名で諸臣に対する意見封事を求める御教書が出されますが、これは兼実の提言によるもので最終的な文面の推敲したのも兼実でした(『玉葉』文治3年3月4日条)。

兼実の信条は保守的で故実先例に基づき公事を過失なく遂行することを重視しましたが、その反面「政を淳素に反す」という理念の実現のために必要な改革や徳政の推進については積極的でした。

建久2年(1193年)に出された建久新制には兼実の現実的な側面と政治理念が反映されているという見方もあります。

こうした姿勢によって貴族社会に一定の秩序と安定をもたらしました。文治4年(1188年)正月27日、兼実は一門・公卿・殿上人を引き連れて春日社に参詣し、氏神に感謝の祈りを捧げています。

ところが、それから一ヵ月も経たない2月20日未明、嫡子で内大臣の良通が22歳で死去しました。

良通は前夜に兼実と雑談しており、まさに急逝でした。将来を嘱望していた嫡子の死に兼実は打ちのめされますが、喪が明けると悲しみを振り払うかのように自らの女子の入内実現に向けて活動を開始します。

文治5年(1189年)11月15日、女子は従三位に叙され「任子(たえこ/にんし)」の名が定められました。文治6年(1190年)正月3日、後鳥羽天皇の元服において兼実は加冠役を務め、任子は11日に入内、16日に女御となり、4月26日には中宮に冊立されました。

一方で、この頃から兼実にとって気にかかる事態も生じていました。

文治5年(1189年)10月16日、後白河院が権中納言・土御門通親(源通親)の久我亭に入り種々の進物を献上されました。

兼実は日記に「人以って可となさず、弾指すべし弾指すべし」と記して通親の動きに警戒感を募らせますが、通親はさらに後白河院の末の皇女(覲子内親王)が内親王宣下を受けると勅別当となり、生母である丹後局との結びつきを強めました。

12月14日、兼実の太政大臣就任を祝う大饗では通親と吉田経房が座がないことを理由に退出するなど、しだいに兼実に反発する勢力が形成されていきました。

(5)頼朝上洛

文治5年(1189年)に奥州藤原氏を討滅して後顧の憂いがなくなった頼朝は、建久元年(1190年)11月7日に上洛しました。9日、兼実は閑院内裏の鬼間において頼朝と初めて対面します。頼朝が兼実に語った内容は次のようなものでした。

私は八幡の御託宣により、一向に君に帰し奉り百王を守るつもりです。従って当今の御事は、並びなくこれを仰ぎ奉るべきです。しかし今は法皇が天下の政を執り、天子は春宮のような状態ですから、まずは法皇に帰し奉り、法皇崩御の後は主上に帰し奉るべきです。もちろん今も全く主上を疎んずる訳ではありません。また、あなたについてですが、外相は疎遠なように見せかけていても、内実は全く疎間の心はありません。深く考えることがあって、院中の風評を恐れるため、あえて疎略なように見せかけています。天下はいずれ立て直すことができるでしょう。当今は幼年ですし、あなたも余算はなお遙かです。私も運があれば、政は必ず淳素に帰るに違いありません。今のところは法皇に任せ奉る他ありませんので、万事思うようには行きません。

上洛中に兼実と頼朝が何度会ったかは定かではありませんが、『玉葉』による限り両者の対面はこの一度きりでした。そして皮肉にも翌年から反兼実派の動きはむしろ活発となり、兼実は窮地に追い込まれることになります。

建久2年(1191年)4月1日、頼朝の腹心・大江広元が土御門通親の推挙により、慣例を破って明法博士・左衛門大尉に任じられました。

4月5日には頼朝の女子(大姫)が10月に入内するのではないかという風聞が、兼実の耳に入っています。

6月26日、覲子内親王が院号宣下を受けて宣陽門院となりました。通親は宣陽門院の執事別当となり、院司には子息や自派の廷臣を登用して大きな政治的足場を築くことになります。

兼実は元来、宣陽門院の生母・丹後局に良い感情を持っていませんでしたが、院号定には所労不快ながら、追従の心切なるによって参入しています。

7月17日、兼実の家司が法皇を呪詛しているという内容の落書が、丹後局から兼実に示されました。

11月5日、一条高能(一条能保の子、母は坊門姫)と山科教成(丹後局の子)の近衛中将、少将への補任について後白河法皇から諮問されますが、兼実の返答は法皇の逆鱗に触れました。

これを聞いた兼実は「無権の執政、孤随の摂籙、薄氷破れんとす、虎の尾を踏むべし、半死半死」と自嘲しています。

「愚身仙洞に於いては疎遠無双、殆ど謀反の首に処せらる」(『玉葉』建久3年正月3日条)とまで追い詰められていた兼実でしたが、建久3年(1192年)3月13日、後白河院が崩御したことで長年の重圧から解放されました。

(6)失脚

法皇崩御により兼実は一転して廟堂に君臨し、誰を憚ることもなく朝政を主導することになりました。

頼朝に征夷大将軍を宣下し、南都(奈良)復興事業を実施するなど、兼実の政治生活では一番実り多い時期が到来しますが、それも長くは続きませんでした。

後白河院崩御後に新たな治天の君となった後鳥羽天皇や上級貴族は、厳格な兼実の姿勢に不満を抱き、一方で院近臣への抑圧は宣陽門院を中心に反兼実派の結集をもたらし、門閥重視で故実先例に厳格な姿勢は中・下級貴族の反発を招きました。

そして頼朝も大姫入内のために後白河法皇の寵姫・丹後局に接近し、兼実への支援を打ち切りました。

こうして朝廷内で浮き上がった存在となった兼実でしたが、自らの政治路線を譲ることなく、故実先例に拘るよりも自らの治天の君としての立場の強化を図ろうとする後鳥羽天皇との対立は深刻化していきます。

結局、中宮・任子が皇子を産まなかったことで廷臣の大半から見切りをつけられ、建久7年(1196年)11月、関白の地位を追われることになります。

(7)浄土宗に帰依

失脚した兼実は二度と政界に復帰することはなく、建仁元年(1201年)12月10日には長年連れ添った室(藤原季行の女)に先立たれ、建仁2年(1202年)正月27日、浄土宗の法然を戒師として出家、円証と号しました。

兼実は将来を嘱望されていた長男・良通が早世した心痛から専修念仏の教えに救いを求め、法然に深く帰依するようになりました。

法然の著作『選択本願念仏集』(『選択集』)は兼実の求めに応じて、法然が著したものです。

しかし、『親鸞聖人御因縁』・『親鸞聖人正明伝』・『親鸞聖人正統伝』などによると、兼実は法然が唱える悪人正機の教えに少々信がおけなかったようです。

そこで、自分達のような俗人や、戒を破った僧までもが本当に念仏を唱えることで極楽浄土に往生できるのか確かめようとしました。

法然の弟子の僧と自らの娘を結婚させてその僧を破戒僧にしてみようと考えたのです。本当にそれでもその僧は浄土に往生できるのかを確認しようとしたのです。そのような破戒僧でも往生できるのならば自分のような俗人でも往生できるであろうと。その話を法然に持ちかけたところ、法然は、かつては兼実の弟である天台宗の慈円の弟子でもあった綽空(のちの親鸞)を指名し、あまり乗り気ではなかった綽空を説得して兼実の娘の玉日と結婚させ、兼実を安堵させました。

(8)晩年

次男・良経は土御門通親死後の建仁2年(1202年)12月に摂政となりますが、元久3年(1206年)3月に38歳で急死したため、兼実は孫の道家を育てることに持てる全てを傾けました。

建永2年(1207年)2月に起こった専修念仏の弾圧(承元の法難)では、法然の配流を止めることはできませんでしたが、配流地を自領の讃岐に変更して庇護しました。

その直後の4月5日、兼実は59歳で死去しました。京都法性寺に葬られ、墓は東福寺にあります。

兼実は若い頃から和歌に関心が深く、自ら和歌をよくしたほか、藤原俊成・定家らの庇護者でもありました。

40年間書き綴った日記『玉葉』は、当時の状況を知る第一級の史料として有名です。他の著作に『魚秘抄』『摂政神斎法』『春除目略抄』があります。

余談ですが、彼は「月輪殿(つきのわどの)」とも呼ばれました。「月輪」は一般的には「月、特に満月」のことですが、仏教用語で「がちりん」と読み、完全に円形の月。仏の智徳が欠けることなく円満であることです。衆生の菩提心などの象徴とされます。つまり衆生に本来備わっている心を清浄な満月にたとえたものです。

よく似た言葉に「真如の月(しんにょのつき)」があります。これは、仏 真如が一切の迷いを破ることを月が闇を照らすのにたとえた言葉です。

なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。

2.九条兼実の日記『玉葉』とは

『玉葉(ぎょくよう)』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された九条兼実の日記です。今でいう「雑記ブログ」のように表立って言えない心情・真情の吐露であるとともに、有職故実を子孫に伝える覚書のようでもあります。

『玉葉』は兼実の公私にわたる記録であり、その記述は長寛2年(1164年)から正治2年(1200年)に及んでいます。この時期は「院政から武家政治へと政治体制が変動した時期」と重なり、源平の争乱についても多数の記述があります。このことから、平安時代末期から鎌倉時代初期の研究を行う上での基礎史料と位置付けられています。

なお、同時期の史料には『吾妻鏡』もありますが、これは鎌倉幕府とりわけ北条氏の立場で編纂された正史に近いものです。

一方、九条兼実は関白や太政大臣を歴任した朝廷側の大物であり、『玉葉』は朝廷側の史料と言えます。そのことから『玉葉』と『吾妻鏡』は相補的に用いられることが多くなっています。

また当時の公家の日記は、宮中行事を遂行するための所作など(=有職故実)を後世に伝える目的も帯びていました。『玉葉』も例外ではなく、宮中における儀式の次第が詳細に記されています。

兼実の孫・九条道家の没後、原本は一条家に伝えられました。九条家に伝わるものは写本です。

U-NEXT(ユーネクスト)で動画を無料視聴できる!登録&解約・退会方法

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村