源通親(土御門通親)とは?権謀術数を駆使し厚顔無恥に世渡りした宮廷政治家!

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土御門通親

今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、声優の関智一さんが演じていますが、源通親(土御門通親)はこの時代の朝廷側の貴族で「権謀術数を駆使し厚顔無恥に世渡りした宮廷政治家」です。

一般にはあまり知られていない人物ですが、前に記事に書いた九条兼実との因縁や、大江広元とのつながりもあります。

そこで今回は源通親(土御門通親)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.源通親(土御門通親)とは

土御門通親

源 通親(みなもと の みちちか)(1149年~1202年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿です。父は村上源氏久我流、内大臣・源雅通で、母は美福門院(次いで八条院)女房、藤原行兼(長信)の娘です。官位は正二位・内大臣、右大将、贈従一位。久我家4代。

九条兼実と同い年で、大江広元より一つ年下です。

後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後白河院および後鳥羽天皇→後鳥羽院および土御門天皇と七朝にわたって朝廷に出仕し、村上源氏の全盛期を築きました。土御門 通親(つちみかど みちちか)と呼ばれるのが一般的ですが、曹洞宗などでは久我(こが)通親と呼ばれています。

節操もなく、七朝にもわたって仕えた変節の政治家で、収賄の大家でした。時の権力者にすり寄り、その都度、権力者の係累と婚姻関係を結んで勢力を伸ばすというやり方で、まさに権謀術数に長けた腐敗政治家でした。

汚辱にまみれた公家政治家の印象とは対極にありますが、曹洞宗の開祖・道元(どうげん)禅師(1200年~1253年)の父でもあります。

2.源通親(土御門通親)の生涯

(1)高倉天皇の側近

久安5年(1149年)に村上源氏の嫡流に生まれ、保元3年(1158年)、10歳で氏爵により従五位下に叙されました。村上源氏は堀河天皇の治世では外戚として隆盛を極めましたが、その後は「閑院流(かんいんりゅう)」(*)に押されて勢力を後退させていました。

(*)「閑院流」とは、三条家・西園寺家・徳大寺家をはじめとする藤原北家支流の公家の一門。院政期に外戚の立場を得たことで大きな勢力を獲得しました。

通親の父・雅通は鳥羽院政期は美福門院に近侍していましたが、後白河院政が開始されると立場を転換し、仁安3年(1168年)、後白河上皇の妃・平滋子の立后に際して皇太后宮大夫となりました。

通親も高倉天皇の践祚と同時に昇殿を許され、側近として仕えました。通親の最初の室は大納言花山院(藤原)忠雅の娘でしたが、やがて平氏が勢いを得はじめると、平教盛の娘(または通盛の娘)を二人目の室とし天皇の背後にいる平氏との関係を深めています

治承3年(1179年)正月、蔵人頭となり、治承4年(1180年)正月には参議・左近衛権中将となって公卿に列しました。

「治承三年の政変」(*)によって心ならずも政務を執ることになった高倉天皇は2月に譲位して院政を開始しますが、通親は院庁別当として政務に未熟な上皇を補佐しました。

(*)「治承三年の政変」とは、治承3年(1179年)11月、平清盛が軍勢を率いて京都を制圧、後白河院政を停止した事件です。

通親は3月の厳島御幸や6月の福原遷都にも付き従いましたが、5月に起こった「以仁王の挙兵」を機に全国各地は動乱状態となり、11月には平安京還都となりました。

高倉上皇は体調が悪化して病の床に伏し、通親は「惜しからぬ 命をかへて 類ひなき 君が御世をも 千代になさはや」と歌を詠んで快癒を祈りましたが、治承5年(1181年)正月、21歳の若さで崩御しました。

通親は上皇の近臣として素服を賜りました。長年、上皇に仕えた通親は崩御を悼み『高倉院昇霞記』に哀切の情を綴っています。

(2)治承・寿永の乱

やがて平清盛が死去して後白河院が院政を再開するなど情勢は目まぐるしく変転しますが、通親は特定の勢力の庇護に頼らず、院御所議定の場で積極的に発言を行い、公事に精励することで朝廷内での存在感を高めていきました。

寿永2年(1183年)7月の平家都落ちでは後白河院の下へ参入して平氏と決別し、8月の後鳥羽天皇の践祚では神器がないことについて、後漢の光武帝、東晋の元帝が即位後に璽を得た例を挙げてその実現に尽力しました

11月の「法住寺合戦」(*)に際しても法住寺殿に参入しています。

(*)「法住寺合戦」とは、寿永2年11月19日(1184年1月3日)、木曾義仲が院御所・法住寺殿を襲撃して北面武士および僧兵勢力と戦い、後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉、政権を掌握した軍事政変です。

その忠勤が認められ、元暦2年(1185年)正月に権中納言に昇進し、12月の源頼朝による廟堂改革要求において議奏公卿10名の中に選ばれました。

通親には因幡国が知行国として給付されたため、次男・通具を国司に推挙しました。

なお、平家が総帥・清盛の死後、落ち目になると、今度もまた二度目の妻を捨てて、後白河法皇の側につき後鳥羽天皇の乳母・藤原範子を室に迎え範子の連れ子である在子を養女としています

通親は九条兼実の内覧宣下及び摂政・藤氏長者宣下において上卿を務め、兼実も通親の公事への精励ぶりを称揚するなど、当初は両者の関係は悪いものではありませんでした。

しかし保守的な兼実の執政下では通親の昇進は抑えられ、権中納言のまま留め置かれました

文治4年(1188年)正月、通親は下臈若輩の九条良経が超越して正二位に昇ったことに抗議し、所職を辞して自らも正二位に叙すことを求めましたが、兼実は前年に従二位に叙した恩を知らないのは禽獣に異ならないと罵倒しています(『玉葉』文治4年正月7日条)。

これを機に両者の関係は悪化し、通親は兼実を追い落とす機会を窺うことになります。

(3)宣陽門院の後見

文治5年(1189年)10月16日、通親は後白河院を久我邸に招いて種々の進物を献上しました。通親はさらに12月5日、後白河院の末の皇女(覲子内親王)が内親王宣下を受けると勅別当に補されて後見人となり、生母である丹後局との結びつきを強めました。

建久2年(1191年)6月26日、覲子内親王が院号宣下を受けて宣陽門院となると、通親は宣陽門院執事別当としてその家政を掌握し、院司に子息の通宗・通具を登用します。

宣陽門院は建久3年(1192年)の後白河院崩御に伴い、院領の中で最大規模の長講堂領を伝領しましたが、これを実質的に管理した通親は、院領を知行する廷臣を自らの傘下に組み入れて大きな政治的足場を築くことになります。

通親は建久元年(1190年)の頼朝上洛において、頼朝の右近衛大将任官の上卿を務めるなど関東の歓心を買うことも忘れませんでしたが、頼朝の腹心・大江広元との関係強化を図り、建久2年(1191年)4月1日、慣例を破って広元を明法博士・左衛門大尉に任じています

法皇崩御により九条兼実は後鳥羽天皇を後見・擁して朝政を主導しますが、故実先例に厳格な姿勢や門閥重視の人事は中・下級貴族の反発を招き、しだいに朝廷内での信望を失っていきました。

通親は兼実に冷遇されている善勝寺流や勧修寺流の貴族を味方に引き入れ丹後局を通して大姫入内を望む頼朝に働きかけ、中宮・任子を入内させている兼実との離間を図りました

建久6年(1195年)11月、権大納言に昇進し、さらに自らの養女・在子が皇子(為仁、後の土御門天皇)を産んだことで一気に地歩を固めた通親は、建久7年(1196年)11月、任子を内裏から退去させ、近衛基通を関白に任じて兼実を失脚させました(建久七年の政変)。

(4)源博陸

建久9年(1198年)正月、通親は先例や幕府の反対を押し切り、土御門天皇の践祚を強行しました。親王宣下がなかったのは光仁天皇の例によるとされましたが、藤原定家は「光仁の例によるなら弓削法皇(道鏡)は誰なのか」(兼実を道鏡になぞらえるつもりか)と憤慨しています。

これ以降、通親は「外祖の号を借りて天下を独歩するの体なり」と権勢を極め、「源博陸」(*)(みなもとのはくりく)と称されるようになりました。

(*)「博陸」とは、中国、河北省にあった城の名。漢の武帝が霍光を博陸侯に封じた故事により、国家の重責に任じることのできる人を指す言葉です。転じて、関白(かんぱく)の唐名。

正治元年(1199年)正月、通親は自らの右近衛大将就任にあたり、頼朝の嫡子・源頼家を左近衛中将に昇進させることで幕府の反発を和らげようとしましたが、18日になって頼朝の重病危急の報が舞い込んできました。

頼朝の死去が公表された後では頼家昇進は延引せざるを得なくなるため、通親は臨時除目を急遽行い、自らの右大将就任と頼家の昇進の手続きを取りました。

定家は、頼朝の死を知りながら見存の由を称して除目を強行し、その翌日に弔意を表して閉門したことを「奇謀の至り」と非難しています。

頼朝の死は政局の動揺を巻き起こし、京都では一条能保の郎等が通親の襲撃を企て、通親が院御所に立て籠もるという事件が発生しました(三左衛門事件)。

大江広元を中心とする幕府首脳部は通親支持を決定し、通親排斥の動きは抑えられて京都は平静に帰しました。

通親は土御門邸において、寝殿を造り直し四足門を立てるなど準備を整え、6月22日に内大臣に任じられました。

一方で成人した後鳥羽上皇の意向にも配慮して、九条良経を左大臣、近衛家実を右大臣に据えることで近衛・九条両家の融和を図っています。

良経と家実は共に若年であり、通親が実質的に太政官を取りまとめる形となりました。この頃に、通親は松殿基房の娘・伊子を妻としています

正治2年(1200年)4月、後鳥羽上皇の第三皇子・守成親王(後の順徳天皇)が立太子すると通親は東宮傅となり、義弟の藤原範光を春宮亮、嫡子の源通光を春宮権亮に任じて、春宮坊を村上源氏と高倉家で固めました。

建仁2年(1202年)になっても通親は、養女・在子の院号宣下(承明門院)の上卿を務め、盟友の葉室宗頼が造営した院御所・京極殿に参入して上皇を迎えるなど精力的に活動していましたが、10月21日に54歳で急死しました。

突然の訃報を聞いた近衛家実は「院中諸事を申し行うの人なり」と日記に記し(『猪隈関白記』)、朝廷は土御門天皇の外祖父として従一位を追贈しました。

後鳥羽上皇も御歌合を止めて哀悼の意を表したということです。

通親の死後、後鳥羽上皇を諫止できる者はいなくなり、後鳥羽院政が本格的に始まることになります。

通親は和歌の才能にも優れ、和歌所寄人にも任じられて後の『新古今和歌集』編纂に通じる新しい勅撰和歌集の計画を主導しました。

しかし、新古今集の完成を見ることなく死去、享年54でした。『新古今和歌集』など多くの和歌集に通親の和歌が採用されています。

なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。

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