巴御前は、強く気高い源義仲の愛妾で、平安末期の霊長類最強女子だった!?

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巴御前

今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、秋元才加さんが源義仲の愛妾の巴御前を演じていますが、重要な役どころである予感がします。

彼女はどのような人物だったのでしょうか?

ところで歴史上の人物で、肖像画などがある有名な人はイメージしやすいのですが、巴御前のように肖像画がほとんどない場合は想像しにくいので、冒頭に秋元才加さんの画像を入れました。

1.巴御前とは

巴御前出陣図

巴御前(ともえごぜん)(生没年不詳)(字は鞆、鞆絵とも)は、平安時代末期の信濃国の女性で、『平家物語』によれば源義仲に仕える「女武者」として伝えられています。

『源平闘諍録』によれば樋口兼光の娘で、『源平盛衰記』によれば中原兼遠の娘、樋口兼光・今井兼平の姉妹で、源義仲の側室となっています。

2.巴御前の人物像

軍記物語『平家物語』の『覚一本』で「木曾最期」の章段だけに登場し、木曾四天王とともに源義仲の平氏討伐に従軍し、源平合戦(治承・寿永の乱)で戦う大力と強弓の女武者として描かれています。

木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹はいたはりあって、都にとどまりぬ。中にも巴は色しろく髪ながく、容顔まことにすぐれたり。ありがたき強弓精兵、馬の上、かちだち、打物もッては鬼にも神にもあはふどいふ一人当千の兵者(つわもの)なり。究竟のあら馬乗り、悪所おとし、いくさといへば、さねよき鎧着せ、大太刀、強弓もたせて、まづ一方の大将にはむけられけり。度々の高名肩をならぶる者なし。されば今度も、おほくの者どもおちゆき、うたれける中に、七騎が内まで巴はうたれざりけり

意味は「木曾殿は信濃から、巴、山吹という二人の召し使いの女を連れておられた。山吹は病気のために、都に留まった。中でも巴は色白く髪長く、その容貌はとても勝れていた。まれにみる強弓を引く精兵で、馬の上、徒歩での戦い、太刀や長刀を持っては一人当千の兵である。屈強の荒馬乗りであり、馬に乗って坂を下り、戦というと、木曾殿は札(さね)の良い鎧を着せ、大太刀、強弓を持たせて、まず巴を一方の大将として向けておられた。たびたびの高名に肩を並べる者はいない。だから今度も大勢の者供が逃げ、討たれる中で、七騎の内に巴は残り討たれることはなかった」ということです。

義仲は「おのれは、とうとう、女なれば、いづちへもゆけ。我は打死せんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曾殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなんど、いはれん事もしかるべからず」(お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない)と巴を落ち延びさせようとします。

巴はなおも落ちようとしませんでしたが、再三言われたので「あっぱれ、よからうかたきがな。最後のいくさして見せ奉らんとて、控へたるところに、武蔵国にきこえたる大力、御田八郎師重、30騎ばかりで出で来たり。巴、その中へ駆け入り、御田八郎に押し並べ、むずと取つて引き落とし、我乗つたる鞍の前輪に押し付けてちつとも動かさず、首捻ぢ切つて捨ててんげりその後物の具脱ぎ捨て、東国の方へ落ちぞ行く」(まあ、なんてことでしょう。いい敵はいないでしょうか。最後に義仲様へ、巴の戦を見せてさしあげたいと言っていたところへ、武蔵国の力持ちで有名な御田師重(おんだ もろしげ)が30騎ほど率いてやってきた。巴はその中に向かって駆けて入り、御田の馬に自分の馬を強引に並べ、むんずと掴んで引っ張り、馬から落とした。そして自分の乗る馬の前輪(下の画像)に押し付けて少しも身動きをさせず、首をねじ切って捨てたその後、武具を脱ぎ捨てて東国の方へ逃げて行きました)

前輪

まさに「平安末期の霊長類最強女子」とも言うべき怪力ですね。

その後巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びたところで物語から姿を消しています。

八坂流の『百二十句本』では、巴を追ってきた敵将を返り討ちにした後、義仲に落ちるように言われ、後世を弔うことが最後の奉公であると諭されて東へ向かい行方知れずとなったとされ、『長門本』では、落ち延びた後、越後国友杉に住んで尼となったとされます。

最も古態を示すと言われる『延慶本』では、幼少より義仲と共に育ち、力技・組打ちの武芸の稽古相手として義仲に大力を見いだされ、長じて戦にも召し使われたとされます。

京を落ちる義仲勢が7騎になった時に、巴は左右から襲いかかってきた武者を左右の脇に挟みこんで絞め、2人の武者は頭がもげて死んだということです。「粟津の戦い」で粟津に着いたときには義仲勢は5騎になっていましたが、既にその中に巴の姿はなく、討ち死にしたのか落ちのびたのか、その消息はわからなくなったとされています。

『源平盛衰記』では、「倶利伽羅峠の戦い」にも大将の一人として登場しており、「横田河原の戦い」でも七騎を討ち取って高名を上げたとされています(『長門本』にも同様の記述があります)。

「宇治川の戦い」では畠山重忠との戦いも描かれ、重忠に巴が何者か問われた半沢六郎は「木曾殿の御乳母に、中三権頭が娘巴といふ女なり。強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。乳母子ながら妾(おもひもの)にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を取らず。今井・樋口と兄弟にて、怖ろしき者にて候」と答えています。

巴御前は「宇治川の戦い」で、かつて幼い義仲の命を助けた畠山重能の子・畠山重忠と戦っています。重忠は相手がかの女武者巴御前と知り、義仲の愛妾と知ると心惹かれ、一騎打ちを挑みます。

しかし結局巴御前の片袖を掴むことしかできず、怪力で鎧の袖を引きちぎり、逃がしてしまいました。重忠は強馬ですばやく逃れていく巴御前を見てなんだか恐ろしくなり、退却していきました。

敵将との組合いや義仲との別れがより詳しく描写され、義仲に「我去年の春信濃国を出しとき妻子を捨て置き、また再び見ずして、永き別れの道に入ん事こそ悲しけれ。されば無らん跡までも、このことを知らせて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりもしかるべきと存ずるなり。疾く疾く忍び落ちて信濃へ下り、この有様を人々に語れ」と、自らの最後の有様を人々に語り伝えることでその後世を弔うよう言われ戦場を去っています。

落ち延びた後に源頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだとされています。「和田合戦」の後に、越中国礪波郡福光の石黒氏の元に身を寄せ、出家して主・親・子の菩提を弔う日々を送り、91歳で生涯を終えたという後日談が語られています。

なお、『覚一本』では年齢は記されていませんが、『百二十句本』では22,3歳、『延慶本』では30歳ばかり、『長門本』では32歳、『源平盛衰記』では28歳としています。

3.巴御前の史実と異説

(1)史実

巴御前が登場するのは軍記物語の『平家物語』および『源平盛衰記』のみであり、当時の一次史料や鎌倉幕府編纂書の『吾妻鏡』には、その存在は確認されません。

女武将であるという物語の記述は史実としては疑問があり、文学的脚色である可能性も高いようです。『平家物語』における巴御前の記述は至って簡略で義仲との関係も書かれていませんが、より後の時代に書かれた『源平盛衰記』において大きく人物像が書き加えられています。

しかし『吾妻鏡』に越後の城氏の一族である板額御前(はんがくごぜん)の健闘により討伐軍に大被害が生じたとの記事があり、当時の甲信越地方の武士の家庭では女性も第一線級として通用する戦闘訓練を受けている例は存在します。

鎌倉時代にあっては、女性も男性と平等に財産分与がなされていたことからも、合戦に参加することは女性であっても認められていました。

また神話においては神功皇后、崇神天皇の御代に反乱を起こした武埴安彦命とその妻・吾田媛、日本武尊の東征に同行した弟橘媛など、女性が合戦に参加することは決して珍しいことではありません。

巴御前の場合も『源平盛衰記』では「額ニ天冠ヲ当テ」と描写されるなど、多分に宗教性を帯びた存在であるとの指摘もあります。

また『源平盛衰記』では巴は義仲の乳母子であるとされており、この場合は柳田國男が述べた「妹の力」との関係も注目されます。

(2)異説

作家の海音寺潮五郎は金刺氏の持ち城に山吹城という城があることから、巴と山吹は義仲の支持勢力である中原氏と金刺氏が一族の中でも優秀な娘を副官・秘書官として派遣したと推測しています。

明治時代の自由民権運動家の武居用拙は『岐蘇古今沿革志』で以下のように記載しています。

幼少期から皇別中原兼遠の英才教育を受けてきた木曾義仲・巴御前・今井兼平・樋口兼光。義仲挙兵後、戦える女性は巴だけであった。義仲の側近として共に生き共に戦う事は本望であるとした。軍記物語である『源平盛衰記』では巴は兼遠の娘で義仲の妾となっているが現実的に見れば皇別の兼遠が娘を格下である妾(遊女・便女)にするわけがなく、義仲の側近(側室)は巴である。

また巴は義仲の挙兵以前から義仲の子、義高を授かっていることから、初めは正室であったが義仲挙兵に伴い戦える女性は巴だけであった。已む無く側近・側室となり義仲に寄り添い共に戦ったのである。

巴御前が出てくるのは軍記物語である『平家物語』『源平盛衰記』のみであり、当時の一次史料や鎌倉幕府編纂書の『吾妻鏡』には、その存在は確認されない。『源平盛衰記』は文学的脚色である可能性が高い。敗者であるが故に便女と妻を取り違えて解釈し紛れもない冒涜・虐めであり、正確には(地方豪族・敗者の娘)を妾とし、(同盟国の娘・皇別の娘)を妻・正室としている。

歴史は勝者によって作られる。勝者は事実によって裁かれる。」という言葉があります。勝者は自分に都合の悪いことは無視したり、改ざんや歪曲を試みたりします。

敗者とはいえ、源義仲のような武将の存在は無視したり、抹殺することはできません。しかし巴御前のような妻妾のことは、あえて無視することもあったでしょう。少なくとも公式記録たる「吾妻鏡」などには載せないはずです。

だからといって、歴史上実在しなかったと考えるのは早計です。戦記物語や各地に残る伝承は、敗者となった死者たちの叫びと言えるかもしれません。

余談ですが、原爆を平和にすり替えたGHQによる日本人洗脳プログラム「WGIP」は、現代における「歴史は勝者によって作られる」の良い(悪い?)見本です。

これについては、「原爆を平和にすり替えたGHQのWGIPは日本人洗脳プログラム!」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

4.巴御前の墓

巴御前は全国各地に伝承があり、巴御前の墓も全国にあります。

(1)義仲寺(滋賀県大津市)

寺伝によると、近江粟津の里で敗死した義仲の菩提を弔い、巴御前が傍らに庵を結んだのに始まるということです。別名・巴寺。境内に巴御前の墓と伝わる巴塚があります。

(2)徳音寺(長野県木曽郡木曽町)

木曾一族の菩提寺です。境内には義仲、義仲の母・小枝御前、巴御前、樋口兼光、今井兼平の墓があります。

(3)巴塚公園(富山県南砺市)

南砺市福光は『源平盛衰記』などで巴御前の終焉の地とされており、公園内には遺体を葬ったと伝えられる塚があります。傍らに植えられた松(高さ12メートル、幹回り3メートル)は市の天然記念物。巴の命日と伝わる10月22日に合わせて「巴忌」も営まれています。

(4)倶利伽羅県定公園(富山県小矢部市)

倶利伽羅峠の戦いの古戦場で、公園内に巴塚と葵塚があります。巴御前とともに義仲に仕え、倶利伽羅峠の戦いで死んだ葵御前をこの地に葬ったとされ、巴は臨終の際、「私が死んだら砺波山にある葵塚と並べて墓をつくってください」と頼んで息を引き取ったという伝承があります。一帯は「葵塚・巴塚古墳群」として埋蔵文化財にも指定されています。

(5)出丸稲荷神社(新潟県上越市)

義仲が近江で討ち死にすると、巴は尼となって高田に移り住み、出丸に庵を開いて義仲の霊を慰めながら生涯を終えたという伝承があります。境内にある宝篋印塔が巴御前の墓と伝えられています。

(6)善栄寺(神奈川県小田原市)

巴御前が木曾義仲と和田義盛の菩提を弔うために創建したと伝えられます。境内に木曾義仲と巴御前の五輪塔があります。

なお義仲の死後に和田義盛に嫁いだという伝説もあるためか、三浦にもいくつかあります。伝承の影響で和田義盛の妻が全員巴御前となってそのまま地域に根付いてしまったのかもしれません。

なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。



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