家重の正室は父・吉宗の正室の姪。お遊喜の方は浪人の娘で、お幸の方は公家の娘

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徳川家重

1.家重の正室・比宮培子とは

比宮培子(なみのみやますこ)(1711年~1733年)は、江戸幕府9代将軍・徳川家重の将軍世子時代の御簾中(正室)です。「培子」は「増子」とも書きます。

伏見宮邦永親王の第四王女で、幼称は比宮(なみのみや)。院号は證明院(しょうめいいん)。

家重の父・徳川吉宗の紀州藩主時代の御簾中だった真宮理子(さなのみやさとこ)女王は叔母にあたります。

享保16年(1731年)に家重と婚約して江戸城西の丸に入りましたが、当時家重は将軍職を継いでいなかったため、将軍夫人を意味する「御台所」ではなく、「御簾中(ごれんちゅう)様」と呼ばれました。

公家の姫らしく和歌をよく詠んだということです。享保18年(1733年)に男子を流産し、産後の肥立ちが悪く亡くなりました。

2.家重の側室・お幸の方(至心院)とは

「お幸の方」こと「至心院(ししんいん)」(生年不詳~1748年)は、徳川幕府9代将軍・徳川家重の側室で、10代将軍徳川家治の生母です。俗名は幸子/こう(幸)。父は権中納言・梅渓通条(うめたにみちえだ)。

家重正室の比宮培子輿入れに従って江戸城に入り、正室が死去したのち、享保20年(1735年)には大奥上臈を務めています。

後に家重の寵を受け、元文2年(1737年)、西の丸で竹千代(後の徳川家治)を生み、彼女は「お部屋様」と崇められました。

しかし、その後家重の寵が「お幸の方」から「お遊喜の方」に移りました。女だけでなく酒にも溺れるようになった家重に対し、お幸の方が注意をしたもののそれを聞かず、むしろ疎むようにさえなり、大奥内での対立が深刻化しました。

そうした中、側室との睦みごとの最中に至心院が入ってきたことで癇癪を起こし、お幸の方を牢に閉じ込めました。それを聞いた家重の父・徳川吉宗が「嫡男の生母を閉じ込めるのはよくない」と注意し、お幸の方は牢から出られたものの、2人の仲が戻ることはなかったということです。

3.家重の側室・お遊喜の方(安祥院)とは

「お遊喜の方」こと「安祥院(あんしょういん)」(1721年~1789年)は、江戸幕府9代将軍・徳川家重の側室です。実父は浪人の三浦義周で、後に小姓組の松平親春の養女となりました。通称にお遊の方(おゆうのかた)、お千瀬の方(おせちのかた)。俗名はゆき(遊喜)、いつ(逸)とも。

元文元年(1736年)に西の丸へ「お次」として奉公に出てました。後に「御中臈」となり家重の寵を受け、延享2年(1745年)に家重の次男・万次郎(後の清水重好)を生みました。この時、実父の三浦義周は召し出されて米五百俵を与えられました。

長男の竹千代(後の徳川家治)を産んだお幸の方との間で深刻な確執があったと言われています。

4.徳川家重とは

徳川家重(とくがわいえしげ)(1712年~1761年、在職:1745年~1760年)は、江戸幕府9代将軍で、8代将軍吉宗の長子です。生母は大久保氏の娘「お須磨の方」(深徳院)。幼名長福。紀伊国和歌山に生まれ、父が紀州家から将軍家を継ぐのに伴い江戸城に移り、世嗣となり、室鳩巣らの教育を受けました。

延享2年(1745)年に将軍となり、在位16年にして世嗣家治に代を譲り、翌年死去しました。諡号惇信院(じゅんしんいん)。

生まれつき虚弱で脳性麻痺と思われる障害もあって、若くから大奥の婦女を相手に酒宴にふける生活を続けて健康を害し、やがて言語も不明瞭(めいりょう)となり、わずかに側用人(そばようにん)大岡忠光(ただみつ)だけが聞き分けることができたということです。「小便公方」などと揶揄されました。

家重の代は、享保(きょうほう)の改革の余光で幕府財政は表面上安定の様相を呈していましたが、社会の底流には新しい時代への転機がありました。

家重には4歳下の弟・宗武(田安家の祖)、9歳年下の弟・宗尹(むねただ、一橋家の祖)がいました。特に年の近い宗武が文武に秀でて闊達であっただけに、父親の吉宗も幕閣も、次期将軍をどうすべきか悩みました。

老中・松平乗邑(のりさと)は宗武を次期将軍に推しますが、延享2年(1745)、吉宗は隠居して大御所となり、家重に将軍職を譲りました。家重、34歳の時のことです。それは諸事、家康の定めを重んじる吉宗が、祖法の長子相続を実践したというだけでなく、家重の嫡男・家治(後の十代将軍)が非常に聡明であったことも大きかったようです。

ただし、家重も暗愚なだけの将軍ではなかったようです。

大岡忠光は、吉宗に抜擢されて江戸南町奉行として活躍する大岡越前守忠相の縁戚でした。忠光はその後も家重に重用され、宝暦4年(1754年)には若年寄、同6年(1756年)には「側用人」と、異例の出世を遂げていきます。

将軍の言葉を自分しか解さないとなれば、その者が邪まな考えを起こしてもおかしくないケースです。しかし、忠光は一切驕ったり、政治に口を挟むようなことはせず、自分の身の処し方を旗本から大名に出世した遠縁の大岡忠相に尋ねるなどして、誠実に務めました。

そんな忠光を、当時のオランダ商館長イサーク・ティチングが次のように記しています。

家重は大岡出雲守(忠光)という真実の友を持っていた。大岡出雲守は誠に寛大な人物で、他人の過失を咎めなかった。あらゆる点で大岡は上に挙げた吉宗お気に入りの3人の家来をお手本にしていた。それでその死後、次のような歌ができたのである。 大方は出雲のほかにかみはなし

大方は大岡にかけてあり、出雲のような神はいない、つまり忠光のような立派な人物はいないと、庶民から尊敬され、感謝されていたことが窺えます。そんな人物を抜擢して、重用したのが家重でした。

また家重は、やはり小姓出身で、御側御用取次の役職から大名に取り立てて、やがて「側用人」に出世する田沼意次を見出しています。田沼は後世、「賄賂汚職」のイメージで語られますが、実際は経済面で革新的な見識を持つ有能な人物でした。宝暦10年(1760年)、大岡忠光が49歳で没すると、直後に家重は将軍職を息子の家治に譲って隠居し、大御所と称しました。

自分の言葉を解する忠光がいなくなれば、将軍の務めは果たせないと潔く身を引いたのでしょう。なお息子の家治に、田沼を重用するよう助言をしたと言われています。

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