大河ドラマ「どうする家康」に登場する五徳とは?「築山殿事件」を招いた信長の娘。

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五徳

今年(2023年)のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場する人物の中には、一般にはあまり知られていない人物もいます。

私は、久保史緒里さん(冒頭の画像)が演じることになった五徳がどういう人物だったのか大変興味があります。

そこで今回は、五徳についてわかりやすくご紹介したいと思います。

なお、「どうする家康」の概要については、「NHK大河ドラマ『どうする家康』の主な登場人物・キャストと相関関係をご紹介。」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

余談ですが、江戸時代の将軍で、正室・継室や側室の数でトップはやはり初代将軍・徳川家康(1543年~1616年)で、合計22人以上いたと言われています。

二番目に多いのが「オットセイ将軍」と呼ばれた11代将軍・徳川家斉(いえなり)で、正室・継室や側室が合計17人以上いたということです。ただし40人以上いたという説もあります。

現代の価値観では、戦国武将達が多くの側室を持っていたことに、ひどく嫌悪感を抱く人も多くいることでしょう。しかし、明日をも知れぬ戦乱の世で、御家を存続させるため、多くの子を儲ける必要があり、ひとりの女性だけでは限界があるので、仕方のないことでもありました。

1.五徳とは

五徳こと徳姫(とくひめ)(1559年~1636年)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。織田信長の長女。名前は「おごとく」松平信康の正室。嫁入りで岡崎殿と敬称されました。法名は見星院香岩桂寿大姉。長女・登久姫は小笠原秀政室、次女・熊姫は本多忠政室。

2.五徳の生涯

永禄2年(1559年)10月12日、尾張国の戦国大名・織田信長の長女として小折城(現在の江南市)で誕生しました。生母は生駒吉乃(久菴桂昌)といわれていますが、『織田家雑録』には織田信忠の姉となっているなど、生母が生駒氏であることへの矛盾を示唆する史料もあります。

永禄6年(1563年)3月、信長は「織田・徳川同盟の絆」として家康に徳姫を嫁入りさせる約束をします。典型的な「政略結婚」です。

永禄10年(1567年)5月27日、三河国の徳川家康の嫡男・松平信康に嫁ぎます。

松平信康(徳川信康)の母で姑の築山殿(瀬名姫)は岡崎城にいたようなので、五徳(徳姫)と嫁姑のいさかいなどが時代劇(ドラマなど)では度々描かれます。

創作では必ずどちらかが悪く描かれますが、これは脚本家次第です。五徳(徳姫)がいじめられていたのか?、築山殿(瀬名姫)が不憫だったのか?、誰が悪者になるのかは記載のしかた次第で印象が変わってしまいます。

徳川家康の正室・築山殿(瀬名姫)は今川家の重臣の出であり、母は今川義元の妹ともされます。そのため、「桶狭間の戦い」で今川義元を討ち取った織田信長を快く思っていなかった可能性は十分にあります。

そんな織田信長の長女・五徳(徳姫)が自分の子・松平信康の正室になったのですから、嫁姑関係が普通以上に険悪になるのは必定です。

五徳(徳姫)は、織田家と徳川家の強い絆となるため幼いうちから「政略結婚」として岡崎に嫁ぎました。

瀬名が五徳(徳姫)をそんなに嫌っていなくても、瀬名の侍女らも多くは今川家の時代から共に行動していたと考えられるため、五徳(徳姫)が嫌われたのかもしれません。

天正4年(1576年)に登久姫、天正5年(1577年)に熊姫を生みました。しかし、いつまでも嫡子が生まれぬのを心配した姑の築山殿が信康に元武田氏家臣の浅原昌時の娘や日向時昌の娘など、部屋で侍女として働いていた女性を側室に迎えさせたため、この頃から築山殿と徳姫が不和になったといわれています。

信康が徳姫の侍女・小侍従を惨殺したとと言う史料もあります。

また、信康と徳姫が不仲になったともいわれており、これを示す史料として、松平家忠の『家忠日記』の中に、家康が信康・徳姫の不仲を仲裁するために岡崎へやって来た、と記されています(ただし、原著のこの部分は信康の喧嘩相手の名詞が破損しており、橋場日月は松平康忠と信康が仲違いしたとの説を提唱しています)。

その頃、信長も岡崎に来たことも記されており、信長も娘夫婦の仲を心配してやって来た可能性も推測できます。一時的にせよ夫婦仲がこじれたことがあったことは事実であると思われます。

天正7年(1579年)に徳姫は父の信長に築山殿と信康の罪状(武田との内通など)を訴える「十二ヶ条の訴状」(*)を書き送り、この訴状を読んだ信長は、安土城に滞在していた家康の使者である酒井忠次を通して信康の殺害を命じたとされます。

(*)「十二ヶ条の訴状」で、徳姫は「築山殿と夫・松平信康が武田氏に内通した」といい、「築山殿と唐人医師・減敬との密通があった」、「夫の日常の不行跡」などを父・信長に訴えたとされます。(のちの創作の可能性もあります)徳川家からは、酒井忠次安土城に赴いて説明しましたが信長は納得せず、松平信康と築山殿の殺害を命じたとされます。

これにより築山殿は8月29日に小藪村で殺害され信康は9月15日に二俣城で切腹しました。

しかし、この「信長の十二ヶ条」は、後に加筆・修正された可能性があるともいわれており、他にも信康切腹事件に関しては不可解な点が多く、近年では家康と信康の対立が原因とする説も出されています

その後、徳姫は天正8年(1580年)の2月20日に家康に見送られて岡崎城を出立し安土へ送り帰され、2人の娘達は家康の元に残していきました。

近江八幡市あたりに居住し、化粧料田が近江長命寺に設定されました。天正10年(1582年)に起きた「本能寺の変」において父・長兄ともに死去すると、次兄・織田信雄に保護されましたが、「小牧・長久手の戦い」後に信雄と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の講和に際して人質として京都に居を構えました(『顕如上人貝塚御座所日記』)

ところが、天正18年(1590年)に信雄が秀吉によって改易されたため、生駒氏の尾張国小折に移り住みました。

これは「埴原家文書」に残された秀吉の朱印状から秀吉による処置だったことが明らかで、その後すぐにまた京都に居住するなど、徳姫の処遇は秀吉の支配下にあったことが推測できます。

「関ヶ原の戦い」後は、尾張国の清洲城主となった家康の四男の松平忠吉から1761石の所領を与えられました。その後は京都に隠棲しました

寛永7年(1630年)、蜂須賀忠英と正室・繁姫(共に小笠原秀政の孫で徳姫の曾孫)の間に嫡子・千松丸(蜂須賀光隆)が誕生した際には、乳母の選定について相談されています。

寛永13年(1636年)正月10日に死去しました。戒名は、見星院香岩寿桂大姉。

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