大河ドラマ「どうする家康」に登場する松平昌久とは?家康と松平宗家を争った武将。

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松平昌久

今年(2023年)のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場する人物の中には、一般にはあまり知られていない人物もいます。

私は、角田晃広さん(冒頭の画像)が演じることになった松平昌久がどういう人物だったのか大変興味があります。

そこで今回は、松平昌久についてわかりやすくご紹介したいと思います。

なお、「どうする家康」の概要については、「NHK大河ドラマ『どうする家康』の主な登場人物・キャストと相関関係をご紹介。」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

1.松平昌久とは

松平昌久(まつだいらまさひさ)(生没年不詳)は、戦国時代の三河国の武将。徳川家康(1543年~1616年)の生家・松平家(*)とルーツを同じくする「大草松平家(おおくさまつだいらけ)」4代目当主で、徳川家康の家臣でもあった人物です。

(*)徳川家康は、「安祥松平家(あんじょうまつだいらけ)」の5代目当主。

「三河一向一揆」(みかわいっこういっき)では、一向宗の信徒でないにもかかわらず徳川家康を裏切って一揆側に付き、「大草松平家」が追放されてしまう要因を作りました。

2.松平昌久の生涯

松平昌久は、「大草松平家」3代目当主・松平昌安(まつだいらまさやす)の子として、三河国額田郡大草郷(現在の愛知県額田郡幸田町)にて誕生しました。

「大草松平家」は岡崎城(愛知県岡崎市)城主でした父・松平昌安が「安祥松平家」の松平清康(まつだいらきよやす)(徳川家康の祖父)に敗れ、岡崎城を明け渡してしまいます。

松平昌久は、「大草松平家」4代目当主となりましたが実質的には「安祥松平家」へ従属せざるを得ない状況だったのです。

また、松平昌久の孫・松平正親(まつだいらまさちか)が、永禄3年(1560年)に「桶狭間の戦いで、徳川家康軍の先鋒隊を務めて戦死しました。

このような事情が積み重なり、松平昌久の心に安祥松平家への反抗心が増大していったと考えられます。

永禄6年(1563年)に「三河一向一揆」が勃発し、徳川家康がこれを鎮圧しようとすると、松平昌久は一向一揆側の城だった吉良義昭(きらよしあき)の東条城(とうじょうじょう)(愛知県西尾市)に籠城します。

「一向一揆」とは、一向宗とも呼ばれる「浄土真宗本願寺教団」の門徒らが起こした、支配層への抵抗運動のことです。

一向宗の門徒は信心深く、連帯感も強いため、一向一揆の鎮圧には「織田信長」でさえも苦労したと言われています。

「三河一向一揆」は、永禄6年(1563年)~永禄7年(1564年)にかけて半年間続きました。 徳川家康の家臣にも一向宗の門徒は多く存在しました。この一揆を鎮圧しようとした主君・徳川家康よりも信仰を選び、一向一揆側に付いた家臣も少なくありませんでした。

このとき松平昌久も一向一揆側に付きましたが、松平昌久は一向宗の信徒ではなく、西山浄土宗が宗旨でした。つまり、松平昌久が徳川家康に背いたのは信仰上の理由ではありません

実際のところ、松平昌久は三河一向一揆に直接加わったわけではなく、一向一揆勢と同盟して徳川家康と対峙していた吉良義昭の城、東条城に籠城したのです。

松平昌久は、「安祥松平家」に従属せざるを得なかった「大草松平家」の当主として、「三河一向一揆」に乗じて立場を逆転したいという強い思いから、吉良義昭に加勢したと考えられています。

翌永禄7年(1564年)に東条城が落ちると、松平昌久は行方をくらましてしまいました。「三河一向一揆」が収束すると「大草松平家」は領地を没収され、没落します。

しかし、松平昌久の嫡男・松平康安(まつだいらやすやす)が、徳川家康や、その嫡男・松平信康(まつだいらのぶやす)に仕えて戦で活躍したことが評価され、徳川家康の死後、その子・徳川秀忠から6,000石を与えられ、旗本(1万石以下の徳川将軍家家臣)になりました。

3.「大草松平家」とは

大草松平家は、三河国額田郡大草郷(現在の愛知県額田郡幸田町)出身の松平氏。岩津の松平信光五男・松平光重を祖とします。十四松平・十八松平の一つとされます。初めは岡崎松平家と称しました。

3代・松平昌安(信貞・弾正左衛門)の時に近隣の松平清康に岡崎城を乗っ取られ、やむなく大草の地に退去します。4代・松平昌久は「三河一向一揆」で一揆側に付きました。このため大草松平家は没落するも、7代・松平康安の時、旗本(6千石)となりました。

しかし9代・松平正永の代で無嗣のため絶家しました。

(1)出自・沿革

文明年間(1469~1487年)、岡崎城主・西郷頼嗣は松平信光と争って敗れたので、岡崎城を信光に譲り自身は自領の大草郷に隠退しました。この時、信光は五男・松平光重(紀伊守・号榮金)に頼嗣の娘を娶らせ岡崎城主として光重を岡崎に分出させました。

その後、光重の嫡子・松平親貞(左馬允)は無嗣のまま早世し、西郷頼嗣の実子とされる信貞が養子入りして親貞の跡を継ぎました。信貞は一説に実父の西郷姓に復して、西郷弾正左衛門と称したとされますが、同族である安祥松平家の松平清康に属城である山中城を略取されると息女を室として婚姻関係を結ばされたうえで額田郡大草郷に退去させられました。以後子孫は同地の大草城に移住したので大草松平家と呼ばれました。

なお、近年では大草松平家は早い時期から松平宗家とされる「岩津松平家」から自立した行動を取っており、大給松平家と共に系譜上の位置づけや成立の経緯に関して再検討されるべき存在と考えられています。

信貞の子・昌久(七郎)はこの因縁から「三河一向一揆」に加担しましたが、一揆軍が敗北したためさらに大草を没収され、これより一族は浪々の身となりますが6代・松平正親の嫡男・康安が家康長男の松平信康の旗本として復帰しました

松平康安(石見守・善兵衛)は家康の嫡子松平信康に、信康切腹後は家康に仕えました。鉄砲射撃を得意とし、足軽大将として対武田氏・北条氏戦で活躍し、最初期の大番頭になります。

家康死後、将軍・徳川秀忠より6000石を給与されました。8代・松平正朝は家康・秀忠に仕え、後に駿河大納言・徳川忠長付きとなりましたが、忠長の改易・除封に連座して所領を収公されました。後に水戸徳川家に仕官して家老になりましたが、子の正永は無嗣で絶家しました。

(2)歴代当主

  1. 松平光重(みつしげ、通称は紀伊・号榮金)
  2. 松平親貞(ちかさだ、通称は左馬允・岡崎左馬允)
  3. 松平信貞(のぶさだ、信貞・別名昌安(一説に法号)、通称は弾正左衛門、西郷を称す)
  4. 松平昌久(まさひさ、七郎)
  5. 松平三光(みつみつ・かずみつ、通称は善四郎・善兵衛・源太郎)
  6. 松平正親(まさちか、通称は善四郎・善兵衛)
  7. 松平康安(やすやす、通称は善四郎・善兵衛、官職名は石見守、官位は従五位下)
  8. 松平正朝(まさとも、通称は善四郎、官職名は壱岐守、官位は従五位下、)
  9. 松平正永(まさなが、通称は善四郎、官職名は壱岐守・因幡守、官位は従五位下)

4.「松平家」について

松平家・系図

松平氏(まつだいらし)は、武家・華族だった日本の氏族。

室町時代に三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)に興った小豪族でしたが、戦国時代末期の当主松平家康は徳川氏に改姓し、その嫡流は江戸幕府征夷大将軍家となりました。

江戸時代に松平氏を称した家には3種あり、三河時代の分流、徳川将軍家や庶流から分家した親藩・御連枝、将軍より特に松平姓を与えられた非一族の大名家があります。

王政復古後、徳川慶喜が朝敵となったのを受けて非一族全家が復姓命令に従い松平姓を廃棄して本姓に復し、分流の一部も改姓しました。明治以降、松平氏からは29家が華族に列しました(侯爵家1家、伯爵家3家、子爵家23家、男爵家2家)

(1)松平氏の起源

江戸期以降の改鋳も多く出自は確定できていません。『松平村誌』の「松平氏由緒書」では賀茂氏や鈴木氏の一族ではないかと推測されています。

松平氏について、同時代資料で確認できる最も古い記録は、3代松平信光以降についてのものであり、それ以前は判然としていません。

後世の徳川氏・松平氏の系譜によると松平親氏は清和源氏の新田氏の支流で、上野国新田郡新田荘得川郷(えがわ — 、現在の群馬県太田市徳川町)を拠地とする得川義季(世良田義季、得河三郎義秀とも)の後裔(こうえい)と称する時宗の僧で、松平郷の領主松平太郎左衛門少尉信重の娘婿となってその名跡を継ぎ松平親氏を名乗ったと称しています。

(2)伊勢氏への被官化

同時代の史料によって実在が確認できるのは、親氏の子とも泰親の子ともいわれる3代の松平信光で、室町幕府の政所執事の伊勢氏の被官となり、京都に出仕したと記録されるのが武家としての松平家の初出です。

これにより三河の足利将軍家直轄領である御料所の経営に食い込んだ信光は、松平郷から見て南の平野の玄関口である額田郡岩津城(岡崎市北部岩津町)に居城を移すと、西三河の平野部に勢力を拡大し各地に諸子を分封して十八松平と称される多数の分家を創設しました。また、同じ頃(寛正年間)に近江国菅浦荘・大浦荘(滋賀県長浜市西浅井町菅浦・大浦)に派遣された京極氏の代官に松平益親という人物がおり、寛正2年(1461年)10月13日、京都の日野勝光の命によって、以前から代官所を襲撃されるなど対立していた菅浦住民に軍事攻撃を仕掛ける際には、大浦住民のみならず、三河からも配下の援軍が数万騎ほど動員されたと記録されています。この近江の松平氏も三河の松平氏(三河松平氏)の同族の1人と考えられています

通説では信光の系統である岩津松平家が松平家の宗家で、後の徳川宗家となる安祥松平家はその分家として位置づけられています。

しかし、実際には「大給松平家(おぎゅうまつだいらけ)」の祖とされている松平加賀守(系譜では「乗元」)が信光とは別に伊勢氏被官としての地位を確保し、更に三河では「大草松平家」とみられる勢力が独自の動きを見せているため、後世編纂の系図よりももっと早い時期から大給・大草両家は岩津松平家から自立して独自の動きを始めていたとする指摘があります。

(3)三河守護一色氏の衰退

三河の守護は一色氏でしたが、山名氏の与党でもある一色氏の勢力を恐れた室町幕府6代将軍足利義教は、三河守護一色義貫を暗殺し、暗殺に功のあった管領細川氏の一族細川持常を突然三河守護に任じました。

これにより三河国内は内戦状態になり、井ノ口砦(岡崎市井ノ口町)を拠点とした額田郡一揆も生じました。

この機に乗じた幕府政所執事伊勢貞親被官の北三の松平信光や尾張出身の戸田宗光が勢力を伸ばしました。「応仁の乱」では、松平信光は三河守護細川成之とともに、三河復権を狙う一色氏を破りました。

なお松平氏は信光の時の内室が一色宗義娘であるとされ、一色氏と姻戚関係にあったとされます

(4)戦国時代

①安祥松平家の発展

戦国時代に信光は、岩津から南下し、岡崎城や安祥城を勢力下に置くなど勢力を広げ、自身の子を分立して、竹谷松平家、安祥松平家、形原松平家、岡崎松平家(大草松平家)、五井松平家(深溝松平家)、能見松平家、丸根松平家、牧内松平家、長沢松平家といった分家を各地に置きました。

信光の子のうち、碧海郡安祥城(安城市)を与えられた安祥松平家初代の三男親忠(1501年没。のち宗家四代に数えられる)は、井田野(岡崎市井田町周辺)で中条氏らを破り武勇を上げたほか、当初与えられていた鴨田郷(岡崎市鴨田町)の館跡に、増上寺開山聖聡孫弟子の愚底を呼び松平氏菩提寺大樹寺を建立しました

また、聖聡弟子の了暁を開山として大恩寺(愛知県豊川市御津町)を中興し、同寺で学んだ第四子の存牛は浄土宗総本山知恩院住持を務め皇室との関係を深めました。

親忠の嫡子長親(1544年没。五代)は、三河に侵攻してきた北条早雲を、岩津城下井田野(岡崎市井田町周辺)で破りましたが、これらの混乱の中で宗家「岩津松平家」は滅び代わって「安祥松平家」が勢力を拡大し松平宗家化するとともに戦国大名へと発展していきました。

この「安祥松平家」に仕えた家臣は、「安祥譜代」と呼ばれ、徳川最古参の家臣として、『柳営秘鑑』および『三河物語』に記載されています。

とりわけ、酒井氏は松平郷時代からの家臣で、松平氏の同族ともいわれます。七代清康による山中城攻略、岡崎城攻略以降の時代は、山中譜代、岡崎譜代として、2番目に記載されています。徳川家臣団の形成に、安祥城時代が大きな影響を及ぼしました。

『改正三河後風土記』に「三州十八松平家の事、徳川家是ハ御本家をさしていふ。昌安より岡崎城を清康君に献じ徳川家安祥岡崎を兼領し給ふ」と記載されており、本家分家の関係が詳細に記述されています。

「安祥松平家」の台頭後も、宗家の座を狙う松平一族の間に内紛が続き、6代に数えられる信忠(1531年没)は一族を抑えられず、1523年に父長親の命で若くして隠居させられました。

②清康による躍進と今川氏への従属

代わって13歳で家督を相続した7代清康(1535年没)は翌年岡崎松平家の山中城を攻略。明大寺城、岡崎城を取得し、本拠を岡崎に移しました

岡崎の地では、城下町形成や、岡崎五人衆・代官・小代官体制などの整備を行いました。清康は加茂郡・渥美郡の諸豪族を攻めて北三河・東三河まで服属させ三河の統一を進めましたが、西に転戦して尾張へと進出したところで家臣に刺殺されてしまいました(森山崩れ)。

八代広忠(1549年没)は父清康が死んだとき10歳の幼さで、三河と内紛状態となった松平一族を統御できず駿河の戦国大名今川氏の庇護下に入りました。混乱の中重要拠点の安祥城は織田に奪われ、現在の岡崎市内で、織田対今川・松平連合軍の間で「小豆坂の戦い」が行われました。しかし、父清康時代の勢力を取り戻すには至らず、若くして亡くなりました。

「安祥松平家」による岡崎奪取以前の、「光重」-「親貞」=「昌安(信貞)」にいたる旧岡崎城主家を、安祥家に対して岡崎松平家と呼ぶことがあります。「大草松平家」がこれにあたります。

③家康の徳川改姓と家臣化

広忠の嫡子竹千代(9代。元服して元康)は今川氏の人質として駿府に送られ、松平氏の三河支配は実質的に中断を余儀なくされました。

一方、清康にも広忠にも公式には嫡子以外の男子がいないため(落胤がいたとの説はある)、広忠の死去当時8歳であった竹千代を後見する親族がおらず、また、竹千代の身に万が一があった場合にはそのまま松平氏の滅亡につながる状況にありました。

従って、今川氏が竹千代を保護して松平氏を従属した国衆にすることで存続が図られた側面もありました。

永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」で今川義元が敗死すると、元康は大樹寺住職の説諭を得て生誕地の岡崎城に戻ります。やがて今川氏から独立し、名を松平家康と改めます。

家康は三河を統一すると永禄9年(1566年)に勅許を得て、先祖義季以来の得川の名字を復活させると、さらに嘉字である徳川氏に改めました。ただし、徳川の名乗りは家康一家のみが名乗り、松平諸家の姓は松平に留めました。

家康はこれにより自身の家系を松平一族中で別格の存在として内外に認知させることに成功し、「十八松平」諸家は徳川氏の親族ではなく家臣の格である「譜代」に位置付けられました(実際、十八松平諸家は重臣である酒井氏や石川氏の与力・組下とされていました)。

(5)江戸時代

家康が江戸幕府を開き、征夷大将軍職を世襲するようになったことで徳川氏は武家の棟梁家となりましたが、徳川の名字を名乗れたのは将軍家、御三家嫡流(後に御三卿や、甲府徳川家・館林徳川家の両典厩家にも許される)の当主に限られ、それ以外の親族は松平を称しました

たとえば、御三家の分家(連枝)は松平を用い、越前家・会津家・越智家などの親藩の家も松平を用いました。

十八松平の子孫も多くが大名となり、さらに旗本としても多数の松平家が存続しました。また、これらとは別に、豊臣政権期の羽柴姓と同様に徳川氏と縁戚関係にある一部の有力な譜代大名や外様大名にも賞与として松平の名乗りの公称が許され、これらの諸家は江戸時代には松平の姓を用いました。

(6)明治以降

王政復古後の慶応4年(1868年)1月2日に元将軍徳川慶喜らが「鳥羽・伏見の戦い」を起こしました。

新政府は1月10日に慶喜追討令を下し、慶喜は朝敵となりました。これを受けて鳥取藩池田氏と岡山藩池田氏からは松平の姓をやめ、池田の本姓を称したいという願いが新政府に出されました。郡山藩主柳沢氏も1月16日の段階で松平姓を廃棄して柳沢姓に戻しています。

1月27日に政府は賜松平姓を受けていた大名家に対し「徳川慶喜反逆二付テハ松平之苗字ヲ称シ居候族ハ(略)速二各本姓二復」すことを命じる布告を出しました。2月8日にも再確認の布告が出されています。

これにより本来の名字に代わって松平姓を名乗っていた大名家は全家が松平姓を廃棄して本来の姓に復しました。また本姓が松平だった家の中からも十八松平に連なる一部の松平家(桜井松平家・大給松平家・滝脇松平家)は旧領に由来した新姓(桜井家、大給家、滝脇家)に改姓しました。また吉井藩主の鷹司松平家も封地にちなんだ吉井に改姓しています。

しかしそれ以外の本姓が松平の家はそのまま松平姓にとどまりました。そのため松平氏を称する華族は29家にも及び、同じ名字を名乗る家の中では最も多くなりました。爵位の内訳は侯爵家1家、伯爵家3家、子爵家23家、男爵家2家です。

徳川姓の家も12家が華族(公爵家3家、侯爵家2家、伯爵家2家、子爵家1家、男爵家4家)となっていますので、合わせると徳川・松平家で華族41家を占めています。

侯爵になった松平家は福井松平家(越前松平家)です。旧福井藩の現米は11万1010石であることから、叙爵内規上、本来の爵位は旧中藩知事(現米5万石以上15万石未満)として伯爵ですが、松平春嶽の維新の功により1888年(明治21年)に侯爵に陞爵しました

伯爵家となったのは越前一族の松江松平家および前橋松平家、ならびに水戸系の高松松平家の3家です。いずれも現米が5万石以上であったため旧中藩知事として伯爵家に列しました

高松松平伯爵家は日本有数の大富豪華族でした。1898年時の高額所得者ランキングにおいて年間所得12万5856円で第10位にランクインしています(旧武家華族で同家より上位に入ったのは前田侯爵家・島津公爵家・毛利公爵家・紀伊徳川侯爵家の4家のみでした)

それ以外の旧大名だった松平家は旧小藩知事として子爵家に列しています。福井松平の分家である松平慶民も特に子爵に叙せられました。

男爵に叙されたのは津山松平の分家である松平斉と、旧福井藩重臣で会津征伐において戦功をあげ、明治以降宮城県知事や熊本県知事、内務次官、貴族院勅撰議員などを歴任した松平正直(長沢松平氏)です。

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